甲州 koshu (12), 2008

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今日楽器を弾いていて感じたことだが、例えばコントラバスにおいて、弓のもち方、指に弓があたる手の感触が変化するだけで、脳にあるとされる手の投射野、音と身体の動きが合わさりダイナミックな変化がおきる。楽器という一つの箱と弓という棒切れとの関係性を作ることその一点をとってみても、 その弓のもち方一つに、一生かかっても学ぶことができないほどの豊富さを感じる。

道具が大事なのは道具の方に向かって身体が開かれていくからである。では道具に頼ればよいかというとそうではない。その道具と匹敵する身体がなければつり合わない。だから特にはじめは先達の教えを要する。学ぶ過程で深い質、もっと先にあるものを求めることに何ら嘘はないが、道具こそすべてといってしまっては、道具との関係が持てない勘違いで終わることも多い。

代償として多くの犠牲を払ってきた科学技術の恩恵は計り知れないが、科学技術は便利さの追求にとどまることはもはやなく、あまりに肥大化すればリスクは大きい。道具はボタン一つか、複雑な脳の訓練を要する専門に極力分化しつつあって、今や技術との等身大の関係性はもちにくい。知らず知らずのうちに、技術との関係性を作る過程において、その過程がすでに大きなリスクである可能性も高い。だが、楽器を弾くという昔からの行為と、空からのハイテク戦闘機の弾丸が殺戮の果てに人間の死体が蒸散されるような出来事は少なくとも遠い。

現代、一部においてテクノロジーによって死が遠いものとなりつつある。この時代に楽器を弾くことの創造的役割の一つは、脳の、身体の制御のあり方を根本的にかえることのように思える。注意すべきは麻痺された身体をさらに麻痺させる手法と異なる方向で。いわば舞台装置を必要としない、音に身体が侵されるリスクの低い形で、日常的な、直接的な、地道なあり方で楽器を弾く。それは、身体が心の鏡としての有機的身体であること、人間が有限であること、そして、音を媒介として人と人の間に広がりがあるという原点を身体で感受できる手法の一つである。見かけの古さ新しさではなく、人間がその環境下でよりよく生きるために必要なことは何かということがやはり大事である。


休みの今日、ほとんど一日中楽器を弾いて、その都度身体の更新をしていた。そしてその休みの間に少なくとも5回程度はこの文章を少しずつ更新した。何かを思考しようとして書き付けるのは、もとより疲労する面もあるし、全うな思考など無論ありえないが、書かなければならないと思うことも多い。だが、そういうことより、始めたことをズレと反復のなかで続けてみることの方が大事だ。そして身体も脳もできるだけ等しく使い、そして心を休ませるのだ。