出雲崎 izumozaki (15)2010

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色の変化する緑の木々と流れのとまらない川に囲まれて、幸せな生活をいましているとおもう。すぐ近くの小さい釣り店ではカブトムシとクワガタが売っている。

そんななか、ユベルマンのアンジェリコのまえに、アウシュビッツのイメージ論を少しずつ読むことになった。手に取って読み始めてしまったからどうしようもない。読みたくない心理に反するように、どんどん眼が字をおっていく現実がある。 和訳は読むのが難しいが、引き込まれる。そして夜には何かしらの悪夢のようなものをみる。朝は多少辛い感じもあるけれど、それでも、読んだ先がその日の某かの未来の出来事のなかにあるような不思議な感じにおちいる。仕事にもなぜか身体の底から粘りのような力がわいて出る。

「イメージとはもはやいうまでもなく希望の別名にほかならない」とする田中純(この人に大学でドイツ語を教わっていたことがあって懐かしかった)の本の帯の解説も、いつになく読みやすいし自分にもよくわかる。ユベルマンは無論、精密で大胆な大思索家だが、着想と結論への方向性は自分の求めているものと似ているという感じもしている。

論理は前提と結論の穴埋めをする方向を担うだけで、常に言葉の渦巻く人間の混沌があらゆる文章を支えている。ユベルマンもまた同じく文にすさまじい力がある。フーコーの「臨床医学の誕生」あの精読を課される論理の明晰の極みのようなすばらしい営為とは別な形、音のまえで広がるイメージ、その想像の力と似た形で論理が展開され、ひきずられて読むような感じがある。

こうして本を読んでいるその身体で、腕の痛みがだいぶとれてきたが、痛いときは左手で弓をもってひいたりした。楽器はもう、一音だけ弓を擦って弾いていればいいという感じがする。弓を二本もって弦をはじくように弾くのもおもしろい。間と音色だけ。楽器と弓と自分の腕にのっかる身体。

手がうまくつかえなくて、足に意識がいったために、荘子に書いてあるように床に着く足の着地のあり方が演奏に大事だともわかってきた。間というのも音と音のあいだということではなく息の流れの間合いに近くなった気もする。まわりの静けさと自然の変化があるからこそ、こういうことができるのであるとわかる。ジャコメッティが立体が面に、面が線に、線が点に、彼の行為の方法と重なるようにも思う。

この弾き方やり方だけは、自分にとってもう変わらない基本的な態度かもしれないとわかりつつあるし、こういうことは、ーアウシュビッツからもぎ取られた4枚の写真ーそのイメージの行方ー そういった重い話題を考えていてさえも、無理なく臆することなく弾くことができる。ほとんど可能性のないほどの絶対的な絶望的な淵、それも外部を契機とした淵において、場が生まれ変わるための行為。

自分が何かの音楽をやりたいという感じがどんどんうすれている。音を通じて私になりたいのか、音を通じて他になりたいのか、そのあいだで、聞こえない音が聴こえてくる、そういう音がどこからかもれて聞こえる音となって変化している、それによって別な何かが聴こえる。

無意味な音のもたらす意味作用ともいえるその繰り返しと差異が微明のなかにあるだけ。その音がある言葉の感触を導くように音が言葉につながる通路の中をうろうろ動いているだけ。それでも、それだけでいいという確信が私の内部にいまある。その行為はあらかじめ目的のない意味を生む可能性があり、そのためにこの一見何にもならない、どうしようもない行為があるからだ。

音を弾く行為が、あらかじめみえない可能性に常に身体をかける行為であること。たとえ可能性の実体が未来においてみえないものであっても。写真がその痕跡であるために、世界のなかでそのときそこに立つこと。

分析的態度、学問の態度と大きく違うのはそこだろうか。 社会からあらかじめ隔離されているような場所の無意味な音が、人間を支える音となり、それが人間の社会を一つ一つ動かすことにつながるかもしれないものと思う。写真の一枚の痕跡、その生きた力は、写真家がそのときそこにいた、だが写真には写されていない写真家の死をかけた身体、楠本亜紀がブレッソン論で書いたような「不在の一点」のうちにあるのだろうと思う。

こういう行為は何の商品価値をもともと求めたものではありえないし、今のように生き方が多様で情報にあふれすぎた時代、教祖のように唱えふるまうこともあまりにも荒唐無稽だが、創造とまではいかないにしても、消費や布教とは異なる行為、生のエネルギーから生きる為の何かを産出する一個人の行為であるにちがいない。仕事ー趣味ということとも全く違う。

医者という臨床の行為もまた同じくあるべきであり、社会的行為としてみればいろいろ難しい面があるが、本来的には臨床の場におけるふるまいもそういう何だかわからない領域の、「生の可能性にかける」ような、突き動かされる何ものかによって支えられなければならない。それは決して感情ということだけではない。医学的知識もそうしたふるまいのなかではじめて本当の価値が生じるものだろうと、思いを新たにしている。

地震後も、こういう自分自身の世界への態度は変わらないようにみえるのだが、それがより自分にとって大事な、ゆるぎのない視点として深まっているのではないかと感じられるのは、せめてもの救いであり、自分にとっての希望でありうるかもしれない。行為することへのぼやけていた霧も晴れてきたようにおもうし、甚大な量の放射線物質漏れという受け入れがたい物質的世界の変化もあるが、自然と人間のトータルな世界のあり方と価値の場所が明らかに変化した。

最後にそんな変化を直視できない政治のレベルは低くなる一方だし、少なくとも一部の政治家の人間性は確実に、あまりにも恐ろしいほど低く、政治の怠慢もいち早くやめてほしい、そうした政治家を選んで結果的に野放しに容認してきた責任もあるが、それ以上に想像を絶するほどの非人道さをもって国民を裏切り続ける犯罪的ともいえる政治的陰謀と政治的怠慢、こんな悲惨なことが目の前でおこっているのに、一体なぜなのか、これまででもかという大企業との癒着、視野の狭すぎる経済偏重主義はいったい何なのか、政治は裏切られるもの、政治に期待しないといっても、このむなしさをむなしさのままにしてもいられない、こうした政治というものがなぜこのままに許されてきたのか、問い続けるべきだ。こうしたことを考えだすと、医療も、あるいはいろんな分野の構造もまた似ているのに気づく。つまりは足もとからすべてを見直す契機とするべきだ。