犬山 inuyama(28)2009

Pasted Graphic 38

朝夕が寒くなってきたずいぶんと 貝原益軒の「養生訓」は現代にも通ずる 仕事に疲れるとどうしてもすぐ寝てしまうし 車が移動手段だから運動不足になり体調がよくないので どうにか心と身体を改めなければならない 元来自分の身体に合わない酒もほとんどやめることにした 

少し全体的な息が苦しくなったので 新潟で記念に買ってきた良寛の有名な「天上大風」の複製の色紙を壁に貼ってみた そして再び良寛を憶う 今まで読んだもののなかでは 水上勉さんの「良寛」と松岡正剛さんの「外は、良寛。」がとてもすばらしかった これらのスゴイ書物を前にしてさえも この私も自分に沿って やはり何か書いてみたいと思う

良寛の書のいいのは特にその「間」にさしあたり手がかりがあると凡庸にいってみたい 私は書に全く無知だが これだけは強烈にまず感ずるところである 

特にその楷書には食い入るようにみる 一画と一画の間のなかにずいぶんと多くのものを観てとれる 細い細い線は今にも消えそうで それでも十分に筆を堪能してから消えている そこに 豊かな間が生じる 豊かな一瞬 空白 線と線の白い隙間 墨によって残された余白だ

のちに 筆の運びその微小な身体感覚のなかに 全てをかけた自然が生じてくる 偶然か必然かわからないような筆の始まりと終わりの「際」 墨の痕と跡 それによって残余する紙の白さとしての「余韻」 それらの同居した状態が延々と続いて 互いに響き合っているような感覚を抱く 

一画と一画の間の空隙の密度は高く そこに何かを自然と観て聴いていくように 身体と心がバランスをとりながら筆の上を移動する 

そのような運動としての軌跡 筆跡としての筆の触感がすべてを物語っているようにも思う 筆をどこで保っているのか 指先はどういう速度で動いたのか 溜められた時の 筆のにじみ ためになる「溜」 つまるのでも のばすのでもない「間」は どうやったらできるのだろう

「天上大風」に限らず たとえば手紙「天寒自愛」もすごい 書も内容も身を揺さぶられる もう少し大きく一行で観てみてそれを聴いていくと 何か微小で大きな音が流れているのに 最終的に全体をながめてみると止まって音は流れない静寂のなかにある ここにおいても静寂が白い下地が 一音を一画を支えていることに変わりなく 一画がまた全体の書を支えている 書の骨格が時間のなかにきこえだして 書の骨の密度がましてくると一つの別な線 書の脊髄が空間にみえてくる 

受け取った相手はどんな気持ちになるだろう 言葉では言い表せないだろうな 良寛はそれを言葉でやっている 最も意味という制限の強い言葉で無限が言えるというのは並外れている

そうしてみていくなかに気づく 書はこちらを全くといっていいほど拒否していないことに そこに私が遊ぶことがいかようにもできるのだが それでいて私はその深さを知らないでいる そういうどこまでも近く どこまでも離れた書

という感じで その書は時間のなかにあるというわけでもなく 空間のなかにあるというわけでもない 「間」に漂っている「場」 宙を漂っていると思うと土の上にある さっきみたと思ったらそうでもなかった夢だったのか そういうような 書自体がどことかいつとか言おうとしない「場」だとでもいえばよいのか

これだけのものになると臨書もさすがに多く 贋作のなかでもいいものはとても味があって非常によい なかには本当にすごい臨書だと思うものもある けれど書の専門家が贋作だととりあえず断定したものをみると 結果論とはいえ どこか良寛にあった骨髄のようなものがかけていると思われてくる どんなにまねしてもまねできない骨 その脊髄の形こそが良寛の個を象徴しているといえるのだろうか

個からはるか遠く深くに離脱して 最後は再び個という無限に戻る過程 究極的な自己回帰といったらいいのか 離脱の彼方に良寛の自然としての個が浮かび上がる そしてその無からのさらなる「離脱(エックハルト)」のような晩期の書 今の私などには到底理解不能だけれど 何かがその「場」から駆り立てられる

これだけ執拗に絶賛してみても これらの書はそういうことには全くの無関心 そんなことはどうでもよろしいではないか そのようにすら言ってこない 書自体との対話ではなく 書というものを借りた私自身との対話だけが延々と続く こちらが暴かれるときもしばしば それが自然に受け入れられるような書

書の文字はみえていてもはじめは何もみえてこない 次第にみえてくるのは私の卑しい心 そう白状したくなってくるのだ 無の心 無からもさらに離脱させ 私の余計な考えや隠し事のようなもの そう 今日でいえばはじめに書いたような体調への不安のようなもの 覆い隠しておきたいものを 上手に麻痺させて宙づりにし私に自覚させてくれるのだ

松岡正剛さんも似たようなことを書いていたように思うが 身の震える冬の寒さがもたらす何かにどこか似ている 良寛は冬の人だ 新潟 寒い空気によって思考がうまく停止する 身体の震えがのこる 心と身体がおののく 良寛は誰かの上に立たない だがこちらの身が引き締まる 発見の場というよりも「恩寵(ヴェーユ)」の場といったほうが近いのだろうか 私にはシモーヌ・ヴェイユやマイスター・エックハルトと良寛はどこか似ているように感じられる 

速すぎる故に重力と無関係に軽く遅く 白紙が墨のなかに落ち 墨が白を間とするようにみえる 言葉の意味が書かれていても意味による圧力や 言葉に宿る主体の権力がない 軽さのなかに無限の力が生まれる

身体運動の結果としての筆跡が そのまま文字の意味を浮かせるようだ 逆説的だが そのように書に文字の意味だけが残る書 方法はワープロうちの真逆 それが筆跡というその身体の触覚によってなされている 触覚に五感がのりうつって

良寛が書を書いている姿が その消息から断簡からそんなふうに「いまここ」にみえてくる 良寛という人物がかつて存在したという確かな実感とともに