犬山 inuyama(26)2009

Pasted Graphic 40

考えてみれば写真や音というもの そのいずれもが 「今ここ私」たる場所 今ここに私がいるという疑い様のないこと デカルトも唯一これだけを信じ あれだけの創造と想像を働かせることができたこの場所に 知らなかった記憶を蘇生させる役割を担っている

音になった 音にした あるいは写真に写し出した 写し出された記憶は 身体のなかで何かを共鳴し惹起させる その反復によって次々と連鎖される身体的ずれが 無限と言ってもよい時空をその写真に その音に 記憶を連結させていく 間隙からみた時空の重なり 昨今重なりとよんでいたものは そうした一瞬の密度ある時空となって 音や写真という具体的な形として今ここにあらわれてくる

それらが密度を増して私に語りかける時 写真や音という他者のなかに他ならぬ私が重なる 一面を言っているにすぎないにしても そうした動き自体のために それらの行為はあるといってもいいのだろうか それは時間の概念を別な視点からみることによって いわば瞬間という間を時空の重なりその凝集へと広げることであるかもしれない

一枚の写真を見てそこから連想したり 一音のなかに自己を感じたりすることは もうそれだけで複雑な過程のなかに身を投じていることになる それを読み解きながら考えていくことよりも その連鎖を連鎖のままに感じつつ 一音や一枚の写真を一つの起点として遠ざかっていく過程に 新たなる自己が感じ取れる それは私が生きていること そのことを感じることだ そこにもう一人の私があらわれる過程 その次々と生ずる反復とそれまでの自己とのずれ その続いて終わることのない変化こそ生きることと考えられなくもない

そうしてみるならば 一瞬を生きたものにしながら持続していこう そこに何かを発見していこうと捉えるのではなく 瞬間が広い重層化された時空の溜まり場としてある そのなかに私がもうそこに生きている そのなかに何かが発見されてくるとみていく方が 今の身体感覚に近くなってくる 一瞬のなかにうごきを見いだしそれをとらえようとするのではなく 一瞬が動いているのはむしろ生そのものがあるからなのだ そのようになる

理屈で言ってしまえば当たり前だが これは一つの身体的覚醒に近い 瞬間に永遠が写るようにみえるのはそのなかに無限の反復とずれをそもそも含んでいる このためだろう こちらにきてからすぐにどこかこの身体は感じていたが そのときそうとはわからずここに綴ってきた内容 反復とずれの感覚 そのことにも合致しているように思う

止められた瞬間という時空 それは写真の一つの大きな側面だが そのなかに生じている溜まりはクロニックな時間とは無関係あるいはこれに垂直な磁場をつくる それは無限に広い時空間といいたくなる 時間を止めるのではなく 止められた時間にみる時空の重なり そこに凝集される生 それは得るものではなく そこによばれるものだ だからその生なる時は遠く長くて 一度よばれれば儚く映るだろう

「微明」において行ったような一音を持続させるという行為 これもまた予期せぬ瞬間を一瞬一瞬持続させている その一音から生じる何かの発見というよりは 一音の持続の その始まりから終わりまでが まさにひきのばされた瞬間 多層なる時空の凝集 そのように考えた方が今はしっくりくる それが時間のまとまりと昨今感じて言っていたものだろう ここにおいては静寂から一音を弾いて静寂のなかに音がやむという その行為自体その過程自体が 瞬間という時空 多層なる時空の重なりの場 それに相当するのではなかろうか 「凪風」において行ったこともまたその展開と比喩としての位置を身体的にそこにあらわしていたものと 振り返るならばそう言ってもいいのかもしれない

こうしたとき 一曲を弾くということのは音の継続されたまとまりと捉えるのではなく そもそもがまとまった音の塊のようなものを内部に常に宿しながら一音を弾いていく行為 逆を返せば 一音の状態のなかに常に全体の音のまとまり 一曲というものを感じて弾いていく 瞬間のなかに入って 瞬間を担っている多層な要素をそこにみつつ 自らの身体が記憶とともに生きていることを確認していくこと 発見しながら自己の生を持続させる過程のみならず 限界ある与えられた生のなかでよりどのように この身体が記憶を反映して生きるのかという行為へと近づく

与えられた一つのまとまりとしての楽土 その土地の上に生きる音楽 死から死へと向かうための音楽 始原から始原へと向かう途上に呼び起こされる音楽 そのように単純だが複雑に様相の展開する音楽 それは瞬間という一つの時間の凝縮されたまとまりが無限に開く時空の多層化 そういうような次元にあるという気がしてくる 生は一つの死と死の間 儚い束の間 それは記憶の幾重にも重なった時空 そのなかに生きている 

診療もよく遭遇する疾患を単にパターン化し 外部の科学的情報に基づいて決まった処方を反復していくのではなく 身体的記憶の引き出しから何かを取り出してきて それを介して行うようにすると 反復のなかにずれの感覚が生じて ずれを立証していこうとする態度とずれをずれとして身体的に捉える態度が新たに生じてくる 一瞬の短い時間においても ずれのなかに身を置いた診療 それは身体的個を大事にするような診療ができるようになると思われる こうしたことに写真や音を出すということのすべての行為 その意味を求めていくこと その過程が役立っていると確信できるのが何より幸せでうれしい