瀬戸 seto(4)2010

Pasted Graphic 32

疲労して空になった心に いい音楽 いい演奏を真剣に聴くと 気を許すと張りつめたものがとけて自然に涙が出てきて困ることがある この経験は感動というにふさわしい 他人の音楽から相当離れていたが いい演奏やいい音楽を聴くことがまたできそうな気持ちがしてきている

あらゆる面において あら探しをするような聴き方はしない この人はこのあとにこう弾いたのだという自然がなるべく理解できるように 少しのずれやわずかな偏り 強弱の中にも そうなければならなかった自然が聴き取れる 意図的な強調の中にもその流れのなかに必然性を強く見いだせるならば その意味を身体と心に感じる それははっきりとした意味として 少しの音の羅列もメッセージや詩として存在しだす

だが自分自身に対する真の自戒をこめていえば いくら音の羅列の仕方がよくても 饒舌すぎたり そうは簡単に経験されないことを いかにも経験しているかのごとく憶測で語ってみせたりするような演奏 あるいはあらかじめ意味の上に成り立っているのに あたかもそうではないようにふるまうような いわば偽善的な態度の演奏を聴くのは 今となってはもはや好きでもないし そうすることができない 

それだけ他人のなかに他人のなかの音を聴き分けられるようになったのは確かだろうが こう書いているあいだにも偽りというものはどうしても忍び込む 音をだしても同じこと それだけ長くなるのだが今は相も変わらずそうしておこう

いい演奏はそうした偽りが全くといっていいほどない 本当に驚く 純粋さのなかにノイズの密度が渦巻いている というよりもノイズの密度が一つの恐ろしいほど透きとおっていて また瞬時瞬時のすさまじい速度の線を描いている 良寛があまりに感覚がよすぎて筆が恐ろしく遅くみえるのと同じく いい音楽は時間が止まると同時に恐ろしく平穏で冷たくあたたかく静かに激しい 音の始まりから消失までが恐ろしく長い 純度の高い素材の出す音は背景のノイズが互いをうまく打ち消し合って残った色をしているように

勢いやテンションの強さは必要条件ではあっても決してそれで十分ではないことを 身をもって示すこと そのなかにはじめて他の必要性が混じてくるようにみえる 十分ではないということの必要性 だがあらゆる経験の蓄積や重合による信念の強さとおごりのなさが表裏一体となっていれば どのような音でも素晴らしく響く おごらないことは十分ではないことを知ることである そうした演奏は感動と発見を誘う その音の消失は音とともにあってよかったという真の余韻をもたらすだろう

言葉では言えないような意味の充満した沈黙 言葉の非意味の塊であるような凝縮しつくされた言葉にならない意味 それが何かが言外においてはっきりとわかるということが 音によって何かが伝わるということだ 無意味な音であることのなかに大いなる意味が潜んでいるようにみえる 時間と空間を横断し停泊する風によって運ばれた凪いだ音とはそうしたものだ そうしたことが音楽の重要な意味の一つであるとおもう

いい演奏を聴いているときに経験されるのは あるいは過去の凝縮された濃密な重なりとしての記憶と 音の中にあらわれる時間の濃縮が空間へと溶け出す過程の経験とのあいだにあるのは 一つには奏者と私の存在を通じた直接的な身体的共鳴と対話であるといっても間違いではないかもしれない

しかしながら自ら弾いてはいても自らの音でないときに生ずる涙は 自らに感動しているのではなく 彼方から聴こえてくる存在の到来に動かされている この事態と同様に 他者の演奏から生ずる感動は 他者がその存在をあらわしている他者の他者性が 存在の彼方のなかに浮かび上がることによって生じている

偉大な演奏家であればあるほど 他者を自らのなかに聴く力が強いし その覚悟が大きい またそれ自体が目標とされておらず 目標ではないところからそうした他者がやってくる あるいはそうした目標から離れていく過程において その道に他者は降りてくる 他者としての音を聴いている演奏家ほど 演奏家自身が発見の宝庫たる他者となりうるのだということは いい演奏を聴いていればはっきりとわかる 真に聴くことは常に 真に学ぶことだ

誰かのいい演奏を聴くとき 演奏者にとってのさらなる他者が 私の過去と私の未来の隙間に入り込みそこにはっきりと存在してくる それが私の中に自覚されてくるだけだ 一方で時間は聴き手がいることそのものによってより深く広い時間のなかに存在するようになるのであり その時間が共有され人間の思いが伝わるということが 演奏するということの大きな意味であるなら 一つにはその自覚は深められるだけ深められるべきなのかもしれない 

だが他者にとっての他者が音によってあらわれ変化していく様態とその自然が 演奏家と聴き手と両者にとっての他者 そのすべてにとっての音楽という現象そのものの時間を支配しているのであれば 音楽の内側にあるのはやはり演奏家自身でも作曲家自身でもなく私自身でもない

音を聴くとは何かの声を聴くことだ そうした確信はやっとできつつある だが何かとは誰か その何かとは一体なにものか それは何ものでもないもの 言及しては消えていく とらえられようとしては逃げていく 何かは 不意にあらわれ我々の心を打つ 意識を寸断し身体の深い場所に釘打たれるように宿る 決して言い当てることのできない 沈黙 すべてにとって必定であるもの それを追いかけたり待ったりするその媒介者がまた音である そして写真であるだろう 

このような媒介者が音であるならば 音楽は様式を そもそもはじめから 超えていなければならない 音楽の様式や既に選びとられた音や音楽を教示し はじめから感性や感覚を犠牲にしながら学ぶという形式主義から 音楽することを音の具体性から発する学びとして捉え そうした場所へと重心を移すこと 

それは医者と患者の病態についての言葉による説明を 個々が感覚的に掘り下げたときに生ずる 未来への深い生きた関係にも奥底でつながっているように思われるし それは互いを尊重し一つ一つの経験が大事にされたとき初めておとずれる

こうした音の学びが成熟する過程が そのまま奏者と聴き手の音を通じた深い対話へと導かれるならば おそらく音と身体の内側の沈黙の言葉が表裏一体となって作用し 音という現象自体を経験的に学ぶことのなかに人間性が覚醒していく そして人間性とは人間の自然そのものだ

このようにして具体的な身体的意味として 冷静であり苛烈であるあり方で 音楽は動きだし働きだすだろう 恐ろしいまでの確かな沈黙の意味を 音楽はやはり秘めていると感じる 四十歳になったこの日 世界は数々の難局を迎えている 現代にとって音楽することの意味はどこにあるのだろうかと いつも問い続けることは本当に大事なことだとおもう