granada(9), spain 2008

shapeimage_1-157

「あらわれ」とはどのようなものごとなのか。 あらわれとは無論、みえているあらわれのことだけではない。さしあたりではあるが、「みること/みえる」ことと「聴くこと/聴いている」ことを上げてみる。みえるものごとのなかに、ものごとの変化を変化としてどのように聴くことができるか。聴いているなかに、ものごとはあらわれ、それは見えてくるか。その両者が渾然一体としている地点から、何かを感知していく態度はありえないだろうか。

「写真を聴く」ということをあまりに無邪気に書いてきてしまっていた感があるが、それは見ている感覚を通じて、聴く感覚におろしてそれを見ること、見る感覚を鍛えて見尽くすこと、あるいは同時にただただ見えていることのなかに、見ることがふと消滅していく過程にふとあらわれてくるような聴いている感覚を身体のうごめきの中に見い出し、聴く感覚によって写真を、そしてものごとを見ることである。

では、音を聴くことのなかに音を見ること、聴き尽くすこと、もしくはただただ聴いていることのなかに音が音でなくなり何かを見るというような感覚もまた可能だろうか。いわば光としての明るみの知を主軸としてきた世界を、もし大きな意味での現代における反省点として捉えるならば、光ー闇という対抗軸ではない場所、すなわち現代において「聴くこと」は必要だ。だが、一方で聴くことをことさらに強調することもまた同じことに陥ってしまう危険性を孕んでいる。

聴いて見る、見て聴く、聴くことと見ることがそもそも一体となっているような行為、聴くことと見ることが区別される以前の様態に身体を開放することは、記憶が記憶としてあることにより近い感覚だろう。両者は何も眼と耳という人として完成されたと思われている器官によって、外部の視点から隔てられて考えられとらえられすぎなくともよい。 正常に発育した器官としての完成系という捉え方、確立された器官とその連携という観点よりも、いわば発生段階でのうごめく身体の変化、そのような変化そのものが死を迎えるまで、さらにその後も持続し続けるという、視覚と聴覚が渾然一体となった「混沌」としての眼と耳のあり方に眼を開きかつ耳を傾けること、翻ってその「混沌」から「あらわれ」る世界を見て、聴くことという手法をとることはできないだろうか。抽象的なようだが、現実感覚としての「あらわれ」の感覚は、むしろそういった、ある種ほとんど脈絡を欠いた言葉を寄り添わせることによってより先鋭的となるように思える。

記憶を特権化してはならない。記憶は生死のはざまを常に漂っている。そして生と死の記憶を記憶としていくことは、(他者の)死によって(私の)生が支えられていることへと、それはさらに自他の問題へと直結し、対話を生み出し、そのことが生き方としての倫理へとつながる。そして記憶を記憶としていくことには、見ることと同時に聴くことが不可欠であり、さらには聴くことのなかに見ることを聴き、見ることのなかに聴くことを見ること、そして両者の「混沌」としての感覚から「あらわれ」を感知する身体を磨くことが現代に必要な一つの手法かもしれない。ちなみに「荘子」においては「混沌」は、眼や口や耳などの感覚器としての穴がない何かであり、混沌はそこに穴をあけたら死んでしまうような根本的で、形がなく、もやもやとしていて万物のはじまりのような位置づけである。

音を聴くことのなかに音を見ること。バッハの時空間はそのような点からもほぼ完璧にできていると感じるが、現代においてバッハの音楽をどのように弾いたとしても現代を語り得ないことが何かあると感ずる。(そのことを時代が違うという点において当たり前とする観点はまず退けられるべきだが)、それは音の響きが、常にある固着した理性を備えていることだ。理性のなかにもあまりにも豊かな詩的な響きがあるのだが、その響きは必ずその理性のなかに返還されてしまうような様相をバッハは帯びている。これを脱するための手段はないとはいえない。それはその一つの固着した様相に対し理性的であり、かつ理性的でなく弾くことだろう。裏返せば理性的でもなく理性的でなくもない演奏の方法を、その「対照軸」となるバッハの固着した理性の様相によって、まさに現代的に学ぶことができるということになる。それはバッハの音楽が現代に「あらわれ」ることに他ならないだろう。その演奏方法の実現は相当に難しいが、それは私が現代を生きているということに忠実になることから始まる以外にない。翻ってそのことを可能としているバッハとは一体何ものなのかと驚嘆する。しかしそれでもなお、現代においてバッハの音楽をどのように弾いたとしても現代を語り得ないことが何かあると感ずるのはなぜだろうか。やはり少しづつバッハを弾いていけばそれでいいということではないのだ。

ではそのバッハに語り得ないこととは何だろうか。それはバッハの理性の固着の様相が決して「揺れない」点にあるだろう(揺れようとして弾くとかえってまずいことにもなりかねない)。聴くことと見ることの「混沌」は混沌である点においてもやもやとし、形がなく揺れている。バッハには常に形があるように聴こえ、ある空間を見ることが要請されており、そのことを「対照軸」とすることによって鏡としての現代(私)があるのだった。過ぎ行く、揺れていく一つの音と一つの音をどのように思い、意思していくか、あるいは形を崩しつつもどこかに局面を見出し、さらにその音の空間を見つつ、そこからさらに揺れる音を聴きだしていくような方法をいかに創出できるか。それは、今にこだわり続けることそのこと自体によって、今を脱していくような混沌の「あらわれ」を聴き、見ることであり、作曲したものではなく、完全なる即興でもない手法のなかにあるのかもしれない。それはどのように可能なのか。

先ははるか遠い。頭の中に浮かんでくることが早すぎて文章が追いつかない、 ましてや経験も全くと言っていいほど追いついていない、今は、と言っておこう。明日はまた違うことを考えているだろうし、さっきは次々と考えが浮かんできたというのに。だが文章にしてみると、決定的なひらめきや具体的な演奏へのちっぽけなイメージが消え失せ、何か当たり前のようなことに読めてくるのが少々辛い面もあるが、書かなくては消えてしまうのだ。 このようなとき、言葉は何らかの詩を必要としている。言葉の詩の側面から得たちっぽけなイメージを今ここで演奏に役立たせよう。