犬山 inuyama(21)2009

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私は竹やぶのなかにいて私の身体がみえなかった 私の意識は西日の強い逆光に負けていた 影に入った だがそれは新しい世界を経験することではなかった 負い目に満ちた意識を影の身体に投影して ちょっとだけ頭に描いた体裁をたもちながら とある愚痴のような言葉や音を大概はこぼしていただけだった 唯一何の作為も加えることのない写真だけが 世界をいつも一つの冷静な切り口で写し出していたのかもしれない それでもこの身体は少しは楽になったのだった だが 竹やぶの竹の幹のしなりとしなりをうながす風を聴いて 竹やぶのなかなから西日を垣間みて太陽の光をみた だが太陽を太陽として 月を月として 風を風として 感じながら どれのなかにも私をみることが本当にできるようだと身体が気づいた時 月と風と太陽は渾然一体とし重なりあっていた こうした重なりのなかにいると感じて 一つの伸び縮みする巨大な生き物のなかに生死もだきこまれている こういう感覚が自由にのびていくと その一点にのっている私が世界のうちがわにあるという覚醒に それはつながっている かつてはこんなことを言っても本当の実感はなかった 考えることは放棄していなかったがそれも小さな切り口に過ぎない 言葉の重なりも生きた身体 音の重なりも生きた身体と知れば 重なりの切り口を一つ一つ体験していくことが生きていくという営みの楽しさにちがいない 一つの切り口 自他という切り口のなかで 切り口を見続ければ克服される三次元的な何かがある そのようにして実体のない何かをみて何かを慰めようとようとしていたにすぎないのだけれど ただ焦っていたそれでは行き詰まるだけだった だが本質的なことかもしれないものは 逆に複数の切り口があるというそのことだった 複数の切り口をひとつづつ あるいは 真に才能に恵まれた稀有な人なら 同時にみていくことによって身体はますますのびのびとしだすだろう たとえ現実が苦しくとも 楽でいられて ある切り口からもうひとつの切り口へ自由に移行することができる こうした自由な移行や移動 往来のなかに 音と音の対話や 光と光の対話 事物と事物の対話が生じて それらは強大な生物の内側を形成しながら 終わることがなく 続く こちらに来る前に陶淵明にあこがれた 巨大な魚だと思った 大きすぎてみえない 刺身にして食えないどころか何度切っても違う姿があらわれる だけれど不可解ということがなく こちらが安心していられる そんな医者にこれからでもいいからなっていきたいと ときには若々しく溌剌に言ってみよう だが私の生の末期は音楽によって生きたい 生かされたい なぜならば音楽は あの音の溜まりの宝庫からやってくるみえない巨大な魚の息のように思うからだ 背筋が凍るような経験をこの身に実感し 小さな町のなかで暮らしながらも 多数の重層化された時空の 多数の切り口の面にふれていかなければならない 今はこの世にない木々は いつかみえない魚の息を私にふきかけようとしているものと信ずる この恩を忘れてはいけない 木々の倒されたあとにはレクリエーション施設へと続く道路ができた となりの道は封鎖されている 農業の用水路は埋められた 何のためにそんなことをしたのか 私はこの推移を見守る必要がある 新しい木をどこかからもってきて体裁よくしつらえた 自然のなかで遊ぼうとうたわれたレクリエーション施設 このなかで楽しそうに子供が遊んでいる 大人もきれいねといって癒されている それでよいといえるだろうか 私自身も ささやかかもしれないが重大なこの破壊的行為に 自分自身のかつての そして現在まで続くあやまちをみていたのだ 我々は今 一つの極めて危うい平面のなかにいるのだ すべての世界の切り口その平面の織りなす混沌とした味を身体のなかに知っている子供を 今こそ この与えられた既成の一つの平面のなかに閉じ込めようとしてはいけないと私は思う 子供の眼はいつでも自由なのかもしれない だが時空の重なりを子供の眼がその意識のなかに発見し これをみて何かを感じながら 成長とともに大きな何かに触れながら主体的に創造していく機会を本質的に奪ってはいけないと私は思う