犬山 inuyama(24)2009

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あたりは紅葉の絶頂期となった 満月が城を照らしている 半分ばかり上ったところで 山をゆっくりと下りていく 上っていたときにはみえなかった風景をみながら 上ったときに踏みつけた葉 もう落ち葉はそこにはないかもしれないが 土壌のなかにうまっている 他の葉が芽生えている 葉の色は変わり 森もまた変化している 下りる ある葉の上から違う方向へ 知らなかった風景へ知らない路をつくって進むよりも 一度踏んだかもしれない葉を拾い 何かを償いながら まわりの風景を見渡してみる 笑いとともに 

写真は失敗をもろともせず成功のなかにも失敗がある 原因とその結果があまり意味を持たない そしてやはり今なお音楽もまたかくあるべきではないかと考えるのだが 疲労し切って挫折的失敗を重ねるよりも 今はじっと 上りに踏んだかもしれないが そのときは見えなかった落ち葉を拾って その落ち葉を我がものとせず 償いをもって自らを笑いながら落ち葉がつきつけてくる問いを自らに重ねていく その過程そのものとして 次に何かがあるのではないか 当たり前だけれど私はこれまでこの世での生き方を考え出会いを大事にし失敗とそして時に幸運な成功をしながら自己実現をしてきたような感じもするが 本当にそうだろうか それは結果としての自己の姿 その時間的経過をみているにすぎないのだと この一ヶ月 急激におもわれるようになった それとは違う 私をみる別な私 それは一体どう生きていたのか 生きていなかったのか 生まれていなかったのか そういう私が都会のなかでさえも思いもかけず重層化し私をみているはずなのに 私には別な私が本当にはみえていなかったのだ こうして私は 今度は私をみる私とともに 私とは違う次元で今度は山をおりていかなければならない この際においては 実際におこっているものことを事実や現実とするだけでなく 想像する力や果てしない悔恨やものごとの触感 静寂のなかのひそひそとした語らいのなかにも みえにくいが確実な事実や現実が聴こえてくることを 実感として いまの私はこの身体に認めうる この実感をもとに振り返るなら それはわかっていた とは全くいえない だがどこかでわかろうとしていた だろう それはごくごく当たり前のことかもしれないが この両面の事実や現実を出発点として 今やはり置かなければいけない 私がむかしむかしへと さかのぼる くだる先 身体が空気を押し出す縦断面に ふとみえる落ち葉を拾って 絵画や古典文学残されたものもまたその落ち葉として 迂回するのではなく直接落ち葉を拾いながらこの現実に直面して 横の世界を眺めてみるように写真を撮り 音がだせたらいい 何一つ知らなかった身体が 落ち葉の記憶をたよりに まずは地上に戻ることができるだろうか そこからまた違う山が あるいは海が眼前に開けるのだろうか 

この美しい紅葉を前にこれまでの私が ひどく気恥ずかしくて仕方がない気持ちが今日はしている 子供用のCDを車できいた 昔から伝わってきた子守唄の旋律と決してうまくはない声の節に今日は強く魅かれた 社会における あるいはこの世界における存在や権力と別の次元がある 当然のことだろう 言葉も音も風景も私が生まれる前から私のなかにあると言っても過言ではない 当然のことだろうとも 権力から離れるところ 何か生まれる それは人間の現在の社会構造の問題 生物多様性の問題と深いところで関わっている それらの問題からある契機を経てここへときたのだから やっとこの凡庸な私もここまでこれたという安堵感もまたこみあげてくるのだが 別な私がまた私を笑っている そしてこの笑いはほとんど嘲笑に近いものとなった