granada(3), spain 2008

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観光地として名高いアルハンブラ宮殿には、いわば記憶の水路が巡らされているように感じられた。それは気の漂流とも似ている。気は科学的物質とは完全に無関係に働く充溢と拡散の運動である。気を免疫機構や細胞のアポトーシスをあげてその運動を比喩しうるかもしれない。だがそれは気の実態ではないだろう。

記憶は体内に固着しつつも底辺で静かに変化し続ける時間であり、気と記憶は異なるレベルを有しているように思われるが、両者は死によって生がもたらされるという揺るぎない事実から成立し、両者は心と身体に宿って次なるもの他なるものへと繋がってゆく。

現代においては、気や記憶もまた一つの消費として扱われる。気は科学的分析を施されその実体のなさを冷笑されることすらある。そして記憶は形骸化されヴァーチャルに消費される。

アルハンブラの滞在は、ヴァーチャルではない記憶そのものの実体が滲み出た時空間を心と身体にしみ込ませる夢の経験としてあった。記憶の持続と変化がそこにあった。 このとてつもなく多くの観光客が訪れるアルハンブラで、現代にはある確固とした意思が求められているのだと感じる。 気と記憶の実体を感じ増幅した欲望との均衡をたもつために、正常と異常を分けずにはいられず、みなが正常であろうと思わなくては生きれないような正常の強迫観念という空虚な現実に、実体のある気の通り道を通すための一つの風穴をあけるための意思。死を死として位置づけ、みつめることを恐れないための、記憶を風化させないための意思。

悪しきシステムのなかにどっぷりとつかってはいても、気は充溢と拡散を止めず、記憶は蓄積される。この空虚な現実につかりながらも、そうした気と記憶を身体と心のなかに宿し、意思をもってその均衡をたもつつべく医に向き合わなければならない。それは、 西欧の方法を単に否定することではなく、西欧的な概念として身体を捉える分類に従って、正常と異常を区別するあり方の負の面を意識した上で、死そのものに対する身体と心の感受性をもう一度養うこと、そして気と記憶への意思を医学に正当に持ち込むことである。