granada(7), spain 2008

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私はつまるところ大学時代から、音というものの倫理についてどこかずっと思っているのだと、今更になってわかる。

学生時代、私にとって哲学や倫理の授業で講義がおもしろかったのは、昨夜すぎてから書いた、当時は新進気鋭であった高橋先生くらいだった。高橋先生には哲学特有のおごり高ぶった匂いが全くなく、語り口がとてもよかったのだ。そして机上の空論という感じが全くしなかった。レポートは自由課題で自分をぶつけるように音の倫理性について書いた。他にも気になる人はいたけれど、よく聴けば、寄せ集めの倫理や哲学の解説、あるいはセンチメンタルかつナルシスティックな領域を超え出るものではなかった。

医学にも生きた倫理が必要だと感じていたことに間違いはない。医者がどんな職業かは何となくではあるが想像できていた。学生の頃、それを身体に具現化する役割を担うのが私にとっての音楽であったが、なかなかうまくいかなかった。写真も同じく、挫折感もあった。医学では生命倫理学というものがやっと導入され始めていたが、その倫理には本来的な生がなく、大きく捉えれば、結局は医学の内部に閉じた形式的な匂いを多分に感じていた。(医学的技術開発とその所持自体が一つの権威となり、権力集中を促して経済と結びつくその構造自体に、生死とは「どう定義され、どうあるべきか」というような外側からの概念化された屍の論理が絡んでいく契機が、内側からの生きる身体としての生死そのものが疎んじられる契機があるだろう。)

そして十年以上の時が経った今、私は何をどう為すべきなのか。その間、色々な他者から様々に影響されつつも、同じようなことについてずっと考えているのがわかる。ただ、医者になって働いていること、そして音を出そうとしていること、写真を撮って展示しようとしていること、これらは全てが通じ合って、互いが互いを照らし合いつつ影を生んでいる。

2つであれば相手の影は隠れて見えないことも多いかもしれないが、3つであることは影を間接的にみたり聴いたりすることが可能で、互いが互いの落とし穴を見張るような関係性を保つのには適しているかもしれない。医学は医学の内部からのみでは十分に捉え考えられないと同じように、音楽も写真もそのようなものとしてある。単に3つを時間をかけて深めていけば良いということではなく、そうしつつも互いが互いの見えない影を照らし出し、その影を気づかせるような役割を担うことが大事なのだ。だがどれにも通底している問題として、現代ということ、倫理ということ、生死ということが避けられないだろう。