熊野 kumano (16) 2010

Pasted Graphic 11


(つづき 3

八村さんが「主情」というとき、「主情」とは、内部がそのまま音として外部へ放出する感情ではなく、内部が内部を通過して外部へと至る、負と負のかけ算としての正の運動の過程とその放出過程の音のエネルギー、そして音のエネルギーの無へと消え去る儚さそのものなのであり、その運動が他なるものへの糸口となるということである。

その音楽は、音色とそのつながり、無音(静寂)とその間による時の錯乱、音のイレギュラリティー(乱調)の誘発、「錯乱の論理」を通じた音の多面体(ポリフォニー)による音楽なのであって、表現主義ということではないようにきこえる。表現のもともと極まっていないところにそれを超える表現もありえないが、その個性はそのように表出するものではなく、その身体的な筋道(論理)とその音への凝縮のなかに必然的に表出されるものである。

こうしたことを書くのは当然のことながら、自分自身への課題にむけて書いているのだが、私はバッハ同様に、こうした多面体としての音楽/音とそのつながり、もたらしているものに強烈にひかれる。それはいま私が診療をしていることと決して無縁ではないとおもうし、オルガニストであったシュヴァイツァーがバッハ研究をしていたこともこれと無縁ではないように感じられる。

数多くの人を診るということは、第一義的にそれだけ外部との接触により病気や病因の解析データが増すこと(もちろん現状においては大事な方法であり実践なのではあるが)よりも、むしろ、内部としての自分自身を多面体にしていく実践として、私自身がそれをとらえているからだろう。

「一対一」という多数で複数の各々全く異なる質と場、その変化にその都度、この身体が土着的に向き合うこと。常に未来に何が起こるかを感じ、思いながら、そこから今なにをすべきかを思うこと。日本の現状とあいまって、そういうことをさらに意識させられる。