甲州 koshu (9), 2008

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日仏会館で映画「デリダ、異境から」ジャック・デリダ+サファー・ファティを観る。二人の著書「言葉を撮る」(青土社同DVD付)日本語訳出版にあわせて催された。

デリダの著書をひも解くよりも、デリダが役者として哲学を語る姿と声を聴くことのなかにその本質、そして思想を超え出てくるものが圧倒的にあらわれていた点で引込まれた。 映像に脱帽し、 どのようにしてこの映画が可能だったのかその過程を想像し、満月と満月を映す外堀の水面をみた。

同書中「すべての前線で回す」(サファー・ファティ)最後の箇所から

 われわれは時間をかけた。映画の時間を。(中略)直観は、廃墟の忘却、暗い日中、誤解、そして翌日の恐怖の中で模索する何ものかを掠める。直観は時々、いまだ黙した、しかし声にならんとしているあの噂に触れる。時々あの約束の微光を受け止めるのだ。常に常に「目を閉じて見よ」。目を閉じて誰を、あるいは何を見るのか?フィクションでしかありえない真なるものを、夜の本質の光を、常に他者である私を、「異境の脇に」を、nonしか言えないouiを、忘却に身を委ねる記憶の記憶を、そして海を。忘却の構図、記憶の言葉と再開、リズムと奥行き、噂と浜辺、そして常に彼方。
 異境の声、その記憶はあったものの赤熱を呟く。それは私に常に届くあの騒音の激高を鎮めたのであろう。そして抹消した、そして抹消した。それらは自らの法を、残余物の法を作品化したのである。