出雲崎 izumozaki (18)2010

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迷い込んだセセリ蝶は満員電車のなかで
なぜかイメージの悪い蛾と勘違いした野蛮な人間の手によって
殺されないために
自分が止まるべき人の肩に一時停泊することを知っている
セセリ蝶は止まって考える人を選ぶ
そんなセセリ蝶のように生きて行き着くことのない旅
戻ることのできない旅をしてきた流木の命
色の具合と肌触りは言いがたい言葉を放っていた

さまざまなものごとが複合し重なってひとつにならないまま
渾然とし一体とならないまま
世界はむかしもいまも続く
一つの抽象的で象徴的な何ものかに
縛られ吊るし上げられずに
正しい方向をいつもみつけられないまま
一つの時に止まってみる正なるものごとの直前
精神の運動の渦巻いた溜まりの発火する直前
未来の垣間見える現在をひきずっていくことで
以前は確かにあった、今ここにはみえない、だが今ここにもあるような
眼にみえない不安定な確からしさとともに
過去を未来に押し出していきながら
思想にしばられず、はやりすたりに影響されずに
それらとは確実に身体的な距離をおきながら
それでもいまここにある人間社会のなかに生きて
明日の未来を受け入れて
私は我が身を世界にようやく開いていくことができる

人間の内側において人間の意志のはたらきが
未来へと突入するとき
厳しい自然に削られ人災にやせて皮膚がむけても
待たれた意志こそが人間の身体として
確たる過去が現在を通じて
未来に変貌していく
未来が過去を確実に捉えるのは
現在がそうした過程によって生まれた未来であればこそ

道元のなかで最も気にかかる「有時」の捉え方は
精神の厳しい旅をし、ひとたびもとにかえればまったく違う姿が
そこにあること
少なくとも少しは、ずれていること
それが一千分の一秒のあいだでも起こっているということ
そうした精神的事実自体の発見を指していて
ものごとの形而上学的な真理を説いてはいないだろう

写真は私と世界のおおざっぱな時間を一瞬という時に
静かに細かく記録定着するだけではない
そこに意図されたもの
意図がむなしくも写されなかったものそして
意図を超えて否応なく写されたものの痕跡の
内部の聴こえない声が持続した生命として
流木のように生き延び
一瞬という閉ざされた時がいずれ
全く別の世界に無限に解放されるときがくること
ユベルマンによって語られているアウシュビッツの写真は
そのことを私にいたくつきつける

写真はいかにものの声の変化を聴きとり聴き分けるか
それがどう写されるか、写っているか
どう未来をいまここに予知するか、予知されるか
数十分の一秒という現在ー未来の
瞬きの時間をどう捉えて未来を広く深く過去とするか
その過去を未来にどう与えるか
過去がどう広く深く未来に与えられるかであり
時間を一瞬に凝縮して写したもの
一瞬という短い時間のなかに動きながら写されたものによって
そこに動かされた時の光を感じながら
過去未来にわたって今という時代と対峙していくことであり
音楽における聴くことと奏でること
それらの根本的な態度に等しい
私はいま、それらをそのような価値のなかに信じなければならない
二つを通じてやっと断定的かつ暫定的に徐々によくよくわかってきたこと
言葉にできることはそれだけか、あまりにも大雑把で些細な表現だが
今のところそういうところに尽きる