別府 beppu(18)2009

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新潟から帰ってきた。骨休めの観光旅行も兼ねてではあったが、大型連休なのに人はあんまりいなかったし、 有意義な時間を過ごすことができた。良寛に始まって良寛に終わったのであるが、ある衝撃的なものをみたという感動よりも、新潟という場所がひたひたと身体に迫ってきて、初めてニューヨークでジャズを聴いた時のように、越後で良寛の遺墨やいたるところにある良寛の銅像や石碑と対面してきた。 良寛の過ごした庵を何カ所かまわってみて、生誕地と墓地もたずねた。 事前の資料だけからは身体で感ずることのできないようなことが腑に落ちるような瞬間がときどきやってきた。何よりも観光という面を差し引いても、良寛がいかに慕われているかがわかる。出生地の出雲崎の宿では江戸時代から何とか続いているという宿の主人にお話をおききすることができた。もうかなりのお年だが、素朴で寛大ないいご主人であったし、越後の魚の刺身に酒はやはり最高だった。

良寛、そしてまた良寛と思っていたこの私の側にもそれなりの理由があるようだ。私の母方の祖父は酒好きで、私も幼い頃は群馬県の前橋の利根川沿いの実家によく行っては祖父の詩吟をビール片手に聴かされていた。その祖父が亡くなる直前だったそうだが、良寛の詩で詩吟をずいぶんとうたっていたときいた。詩吟をしながら良寛はよい、よい、と言っていたそうで、東京の父方の祖父は売れない絵描きで書道もよくしていたから、良寛の資料はないかと前橋の祖父が東京の祖父に時々尋ねていたそうである。

良寛の遺墨がそのまま載せてある資料本のうち最も上等な類いのものを奮発してネット購入したのだが、検索して最も安かった古本屋が思いがけずも、何の因果か前橋の実家から数百メートルしか離れていない古本屋だった。その話を少し興奮しながら母にしたところ、 良寛をうたう祖父の話をそのとき初めてきいて驚いた。私の幼少時の身体はこのようなことをどこかで記憶していたに相違あるまい。そんなことを思いながら新潟へ行った。

数カ所にある良寛関係の資料館の方に、良寛について個人的に話をきくことができた。絶版で高くて手に入りにくかった定本良寛全集も在庫が奇跡的にあって購入することができてとてもうれしかった。特に第三巻には書簡が中心におさめられていて良寛の日常の資料となる。良寛を主題に扱った本はこれまでにあまりにも多くある。おそらく数百冊もあるだろうが、なかでもこの定本良寛全集は残された良寛による統一された内容として信頼がおけると思っていた。

さしあたり書いておきたいと思うのは、当たり前のことであるが、描かれた歴史は歴史のごく一部であって、歴史を考える際に今が常に問われているということだろう。良寛にしても、清らかな心の象徴のように言われるが、実際は当時の状況は惨憺たるもので泥のなか過酷な生活を強いられ、どろどろとした話ばかりで、いわゆる身売りに出される子供たちも非常に多かったということである。こうしたことはなかなか今では良寛のイメージを壊すということもあって公にしにくいこともあるようだが、いずれにしても実際の良寛が生きた世界は、現在つくられている安易なイメージとは本当にほど遠いと、少なくとも少し考えてみれば想像してみることはできる。

貞心尼との晩年の話も世間に有名であるが、実際会ったのはたった三回のみで、そんな情事などあるはずもないし、良寛を後に伝える大変貴重な資料を貞心尼が残していることにむしろ敬意を払うべきである。 ここにも前橋出身の僧が大きく関わっている。また良寛は多くの医者との深い付き合いがあることも知った。庵であくまでも座禅修行をし、托鉢をしながら七十四歳まで当時生きたことを考えるとうなずける。酒や煙草もよくやったらしい。また、いわゆる奇行も多くみられたというが、この点に関しては良寛の生き方と関わる問題だろうし、深い感覚的考察を要するだろう。

良寛の生い立ちやその環境のことからこれまた言い出したらきりがないが、あまりの不条理と周囲の惨状が背景にあり、座禅に没頭しながら托鉢を行い、托鉢をしたのちにそうした状況下の子供やその家族にそれらを与え、書が有名になればそうした人助けの目的で書くという行為を良寛は繰り返していたにちがいない。良寛を慕う心の振幅とその増幅はこうしたところにあるということについては、大方の見方に私も賛同したい。

実際の良寛の書をみているといかにもひきこまれる。だが、良寛にとって特にその晩年の書は書ということからも、もはや離れていたに違いない。そこにこそ形があるように思える。非常に驚いたのは良寛の兄弟、父である以南ともども本当に筆がうまい。このなかでも良寛は極めて独自の形態に至ったということはできる。だが書を相当量研究し勉強したうえに素質が備わっていたにも拘らず、書が良寛の人生にとって実は決して唯一のものとしてあったわけではないという印象を今回の旅では強く感じた。書は究め続けたに違いないが、良寛にとって他の多くの諸問題が現実的に根深く横たわっていたこと、それ故に僧としての道をも捨てながらも座禅というものをし続け、問い続けることが不可欠であったこと、それらすべてが書に反映していて、その書に書には収まりきらない数多くの問いが生まれる背景をなしていると感じられる。

良寛の生きた頃の越後の写真があったらさぞかし興味深いだろうと思うが、何かを感じ考えるための手がかりとして確実なのは、それでも残されたその書であるだろう。当時から贋作が多いというが、贋作も人をだます目的のもの以外に、いわゆる臨書が含まれていて、相当筆の立つ人が良寛へ敬意を払って書いたものでは、確たる落款のない良寛の真偽はわかりにくいだろうし、贋作であってもそうでなくともこうした事態が生じていること自体が私には興味深い。絵描きが書に魅せられるときに良寛を臨書することが多いとの分析もあるがそうだからといって特に不思議はないし、それを良寛が嫌うかといったらそうではないだろう。ついでに、良寛の書を「善書」と名付けた魯山人さえも一度贋作を所有したということらしいが、そうだからといって魯山人の眼力を傷つけるものでもない。魯山人は非常に謙虚に良寛のことについてふれていて「善書」といういい方は興味深い。

良寛を顕彰するにしても、良寛以外のものを一言で排除するような力が働くようではいけないだろう。良寛の良寛たる骨にある生き方がまずあってのことでなければならないし、言葉の表現の一部、しかも字面の印象のみを押し出すかのように、あたかも一部の日本的精神なるものの象徴のように使用すれば真逆の印象になってしまう。歴史ということも今を生きる人間によって作り変えられていくという面を考えれば、やはり今を生きるわれわれがどう生きるかということが問われていることを肝に銘じなければいけない。写真や音楽についても全く同じことだと思う。

私は良寛はかなり庵で静かに自然の音を聴いていたように思うし、良寛は眼というより耳や皮膚の人だと思うから、そうした書と良寛の感覚したことをどう捉えるかは、やはりその書をみて、そこに含まれる良寛の時空に自らが入り込み、さらに音をそこに感じるということから始めなければならない。やっと入り口に立つことができたような思いだが、これについても書きたいことはおそらくたくさんありすぎて、私なりに勝手に分析していってみてもいくら時間があっても足りない。多くの言葉から入るのであれば、最終的にはその本質が少ない言葉で浮かび上がるようでなければいけないだろう。そうしているうちに新鮮な記憶も薄れていくのだろうが、そのときはまた越後を訪れればよい。今回の訪問で良寛の人となりが少し深く想像できるようになった。