犬山 inuyama(4)2009

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先日東京へ齋藤徹さん(コントラバス)と久田舜一郎さん(鼓)の演奏を聴きにいった
これまで音と音の間はあけるのではなくつめるものと無意識に思っていた
間をつめるということを基本に待つということがある緊張と弛緩を生むのだと
どこかで確かに思っていたようだが演奏を聴きながら
それは間それ自体ではないということが次第にわかってきた
あけるのでもなくつめるのでもないことによってより伸びやかな時空が開ける
間の自然という状態があるということ
時々こうした身体の状況はこの私のどこかにも訪れてきているのであろうが
そのときそれはそれと意識されていない
間は無意識という意識の底にもない
動きであり変化の過程を担うような一つの状態であり形なのだろうか
犬山に来た直後だったか無ということと間ということについて少しとらわれて考えた時期があった
過去ずっと前には少し体調を崩していたとき
自らの頭を冷やすために木村敏氏の間について書かれたものを読んだのだが
かなり念の入った優れた分析なのだろうがどこかこの身体が納得できるものではなかった
人間は人の間とかくが
間の自然は言い換えれば
人間と自然の間ということに他ならないだろう
間の自然は
のびる枝しげる葉がいつのまにか仕切りながら交差する空間であり
川の絶えず変化する流れがもたらす持続しつつも不意に音連れてくるような時間である
亡くなった加藤周一氏の「日本文化における時間と空間」で読んだのだが
始まりも終わりもない直線的な歴史的時間
始まりも終わりもない円環する日常的時間
始まりと終わりのある人生の普遍的時間
日本文化には異なるこれらの時間の共存があるという
そして各々と関わる「今=ここ」そして「私」という出来事とその位置がある
二項対立や三項対立を超克するための考えを模索するよりも
間ということを直に捉えることは別世界に身を置くための一つの魅力的な入り口であるだろう
人間と自然の間にテクネーを聴き取り見いだしまた自らがテクネーとしてあること
本当にそうするにはよほど深い経験と意思そして柔軟性を要するだろうが
そうした間のなかに身を置くことその状態にいること
それは一個体として私が旅をしていく時空
それは私が人間であろうとすることではなく
人の間に仕切りと交差をもたらすものとして
持続する生を営み何かの音連れとともにあるものとして
その個体がいわば枝になり川になるように
あらゆる間に埋もれていきながらあらゆる間を際立たせる
そのように人間になっていくことである
蛇足だがここへきて興味を引くのはアガンベンが人間と動物について書いた「開かれ」という論考
この意図するものは間ということそれ自体が提起している何かと近似しているように今感じている