熊野 kumano (6) 2010

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私は世界に対して有限である。世界をみた時、聴いた時、世界はとてつもなく、あまりにも広い、この意識など無視しうるほど小さい、私は世界に対してあまりにも有限である。直に感じている実感だからもう何とも言いようがなく深い。こうした意味においては人間の人間のための自由などそもそもないといっても過言ではない。

だがこの強い自覚のもとに、私は私自身に対してのみ、はじめて無限であることができる(無限ははたして自由といいかえられるだろうか)。私は鴨長明や道元や兼好法師から学ぶことは本当にはできないのであって、私の経験とその失敗の繰り返しからしか本当には学ぶことができない。しかしその過程において過去とつながりうる、過去に私が呼び寄せられる。ここから何らかの力が生じるからこそ仕事がやれている、大きな時代の波のなかでいまここに立つことがどうにかできている、そういう感じを時にはいだきながらこの毎日がすぎる。

私が私に無限である時、そこに因果はなく目標もなくただ彷徨い漂い続けるものを微かに信じながら、たよりなく変化する存在であり続けるのだが、再び道元を借用するなら、私の中の「仏性」に立ち返り、仏性からその私を聴き続ける。私はこのとき、そうと意識することのないまま、そのままであるがゆえに世界に開かれ、そのことによってようやく立っていられる。

写真に映されたものごとや音の響きは、世界に対する私の有限と私に対する私の無限のあいだに漂っている私と世界の変化する気流のなかで、世界を経験した痕跡の断続的な軌跡を描くのだが、写真と音楽がそうした方法であり装置であるならば、写真や音を見つめ聴いていくことは同時に、世界に対する私の有限をあらゆる方向から自覚させられることによって、私の私に対する無限を聴き、身体を内側に隠している皮膚、無と有の通路である心を、世界と私との淡い境としながら、仏性という普遍的な場に、写真と音楽をも超えて、自らを定位していくことにつながる。各々の行為はそのためにあるようにみえる。

自意識や写真や音にとりまく記憶からひとまず可能な限りはなれてみると、自他が自他であること、それ自体に働いている引力と斥力のダイナミックな運動へと向かう経験を、写真と音楽はもたらす。それらは自と他を仏性という場において等しい次元で干渉させ、場に波動を生じさせる契機をなし、その音と写真のつくる境界は身体、とりわけ皮膚感覚のような薄い膜によって微かに縁どられており、無尽蔵でありつつも抑制された心の変化がその縁の膜色を塗りかえうるものでもある。

したがって写真や音は、何かの通路としての直接的な膜としての装置なのではなく、言うまでもなく膜の正体は他ならぬ身体と心であり、その装置は身体と心をあらわしたり隠すためにあるというよりも、仏性という普遍性を場に呼び場に波をたて、正体としての心と身体の膜が凝縮された痕跡、消息や断簡として膜の本体を伸縮させるように宿しつつ軌跡を残す、そうした間接的な通路として音も写真もまた、それ自体が存在を境界をあらわにしつつ、心と身体とはまた独立した系をなして、この世界のなかに自らを定位していくようにみえる。

一枚の写真や一つの音、その世界のほんの微々たる断片としての痕跡にさえ、普遍が宿りそのときは知ることのない遠い未来に開かれることがあるのは、音と写真もまた、生じた場の波動が身体と心を揺さぶり変化させる仏性をもつということ、時に自ら出している音が全くの外部から聴こえるように思えるのも、道元をよむとおそらく意識の思い込みや勘違いなのではなく、そうしたこととおそらく関わりがあるだろう。私と写真と音の境界面は、外部からの有限性と内部への無限性その境界に各々が漂い、仏性として互いが干渉する場であるとも言いうる。

知らぬ間に日が傾きかけている。隣の竹林の隙間から強い西日が差し込み、竹は風に揺れている。
言葉を書くとき、最も大事で慎重かつ注意を払うべきはそのリズムであり、その緊張と弛緩が意味を意味としつつも意味を解放し、言葉の意味内容を超えることにある。それはそのときの心の動きを素早く追う手であり、句読点や文の体裁をいわば無視して書き進めていくことであり、一刻の猶予もならない心の記録をそのはじまりとしている。その夢の記録から覚めたとき、その羅列と切れ切れの言葉のはしはしを少しずつつなぎ補修する、その繰り返し、言葉の夢の記録と現実のつぎはぎのせめぎあう形にならない形の消息こそが詩、あるいは場のはじまりであろう。

こうして書いて読み返して少し手直しするという実践は、私にとって演奏することや写真を見直すことにも役立つものとおもう。それにしてもきりがない。