瀬戸 seto, japan, 2010

Pasted Graphic 35

今日は大雪で家の前の竹林も白く姿をかくした
何年かぶりに家の前が大雪
道も白く厚く区切りがみえない
雪の感触この握雪感もまた
膨大なノイズを隠している
雪国の厳しさを知らない私はどこか
身体がわくわくしている

雪が降るだろうかとおもいながら
雪はみえずともこの降り注ぐ雪の
ひとつぶひとつぶを彷彿とさせる三千大千世界のなか
良寛からちらちらと
道元が遠方にきこえだしていた

金沢へ行った帰り永平寺へよったのを契機に
道元の「正法眼蔵」を現代語訳から少しずつ読んでいる

雪が降ると深々と静かで
暖房の雑音が本当に静寂を邪魔してしまうのが
何とも言えず口惜しいのだが
寒くて切るわけにもいかないし
明日の出勤のことなど心配している
楽器も非常にしまった音がしている

所詮私はそんなところにいるが
永平寺の床はあまりにピカピカで
つるりと厳しかった
古い太い杉につもりながら
逆光のなかちらちらする雪は
この世とも思えなかった

道元は あるいは 禅は といってもよいのか
宗教というより哲学であり詩であり道であり思想であると時にいわれる
だが多くのものと異なるのは
みずから強く身体のノイズでもって
何かを求めていかないと何も言ってこない
ノイズがあれば誰にもどこか響く
それぞれの混沌に

混沌やノイズがそもそもの内側にないと対峙できない
何かを求める過剰な精神と身体がないと
本当に答えてくれないような感じがどこかする
この点をふまえないと
道元の苛烈と激情からついには逃げだすように
たとえば安易に誰々との思想の比較をしてしまったのなら
何かその思想の真髄に迫った気になるだけだ
良寛や道元やおそらく親鸞に対するとき
私の場合そういう態度は適切ではないように感じる

別段崇高な人間でもなかっただろうと想像してみる
ただただ混沌とし苛烈ななかから
その強靭な意思と情動を突き破って
何かが出来してくるその身体がどこか違う
説かれる次元も方向も対象もなにもかも
おのおの異なっている
そこへおのおのの受け手が何かを求めて
おのおのの混沌のなかにいるのだから
三千大千世界

良寛の道元への敬意は並大抵のものではなかったというが
良寛の雪は道元の雪では語れず
良寛の風は道元の風では語れない
逆もまたいえるにちがいない

生の混沌やノイズを聴く態度で接してみるとき
混沌から育成してくるその形の影がみえだすこともある
だが形そのものが次々と変化しつづけていくから
形そのものをみることはできない

雨のたたきつける岩の表面にたまってはあふれだす水の滑面
静止しているようで動いている水の輪っか

雨が今日のように寒さに形を変えるなら
雪の風に舞いどこまでも重なり不均等に浮遊する空の舞い

いつまでも形にならずそのままに
夏の蝉の羽音を延々と聴き続けるように
形を求める心が次第に空しくなる

岩にあたって次々とくだける瀧の水滴
果てしなく瀧がながれ虹を生じ
寒さに耐え対峙し続け
ついにつららができても
光によって照り返された透明なつららが
そのとき心をふたたび裂く
静寂につららのきしむ音が
身体に裂け目を入れる

ノイズと混沌の渦巻く時空そのもの
その苛烈さによって時空が満ちて消滅する

世界が対象化されないことではじめて
時空が対照的で対称的となる瞬間がおとずれる
や否や
一つの偏光がさす
ノイズから一つの音がなる
空がまた裂ける

こうして降り続ける雪の
降ってくるものごと
無限のしろさに
我が子と遊んで
ここぞと熱燗を少々いただいたりして
ぬくぬくと酔いしれていても
この雪も止んでしまうだろうな

こんなふうに書いていても今日の私は
沈黙のなかにいる




京都 kyoto, japan, 2010

Pasted Graphic 36

熊野那智へ

遠くには紺色の海
瀧は光をまとい虹をかけ
水飛沫は散乱する
冷冷とし乱舞する
音楽がきこえた

ノイズを音楽という実感
そのもとに聴いた
まってやっとノイズと書けた

切り倒された木々は土の感触につつまれ 
人知れずノイズを宿した  
どこでいつ?

ノイズの言葉
そとの音と一体となるため
ノイズをなかに聴く

物質と精神の動乱 
ノイズが時空の重なりを惹起する 
重なりから溢れ出て意識が派生する

時間が空間が飛び散る瞬間
瞬間が意識を照らす
瀧の飛沫のごとく

飛散され静止した物質の影
意識は光のネガ
無意識は音のネガ

なぜ音を出す?
ネガを反転し
ノイズをそとに聴く