熊野 kumano (7) 2010

Pasted Graphic 21


ある目的があり、それを達成し維持する為にある手段、これが政治であり、政治的であるとはそういうように目的と手段をあやつることだとしたら、現在の政治の最たる目的は大企業との金と地位のやり取りであり、その為の手段は国民の忠誠心をあおることである。明確な責任をとらないままにとてつもなく大きな失態のほとぼりが冷めるまで待つ、そうして事実を小出しにしていく、そういうことまでして現実の本質をはぐらかし、想像してみれば悪夢のようなこの現実とむき合う民の意欲すら、虚脱感のなかに麻痺させながら。


道元の生きた鎌倉幕府への政権の転換の時代、由緒ある貴族に生まれ落ちた道元は自らのなかの政治性と格闘していたことは疑いようがない。彼は、こうした政治的な政略的手法を許容するわけにはいかなかった。目的と手段を分離させてはならなかった。もともと彼は何の為に何をやるのが必要であるかというきわめて合理的な考え方をしていながらも、それでは政治性から逃れ、さらに政治性とむき合うことはできないと知った。むき合ったとしても、ついに政治的思考は道元にとって遠い。だが身体のなかにそれをなお見いだした道元はおそらくその最後、坐禅に立ち返ったであろう。そのとき民を捨てたのではない。自らをとっくに心身脱落した道元は、最後に民という現実をも心身脱落した。民に空というすべてを受け入れる器を言葉でもって残し用意した。それが正法眼蔵であるということもできる。

奥深い山中に漂う霊気のようなものに触れ、森林の厳かな気配に耳をすまし、理解不能で不完全なものを知ろうとして無限の迷路に入り込むが、足をつけている土の感触を心にくぎさしていながらも、裂け目に入り込み外側にはもう出られない。入り口がどこにあったのかもうわからず、どこにいくかもわからない。ただただ山中に迷う。やがて迷いは迷いでなくなる。山のなかに迷っていてもそこに心に迷いが生じないのは、迷いに身体が慣れるのではなく、その迷える沈黙のなかにおいて己が森林の霊気に支えられ、その霊場、すなわち仏性のなかに漂っていると気づくからである。

政治的思考(あるいは堕落した宗教もそうであろうが)は霊や仏という概念までをも目的のための手段として利用する。だが、そうした手段そのものから離れて距離を置き、その本質を道元のように知れば自らにある政治的思考が打破できるかといえばそうではない。その本質を知ることがそもそも目的と手段とが同一の場所にある行為であり、それ自体は自らの政治的思考を打破する手段とはなりえない。政治と真逆の位置に己が今あるという状態があるのみ、それに気づくだけだ。あるいは逆に、政治から政治性をひきはがそうとするなら、己もまたついにはその政治性からのがれられないということでもある。そうして一部が莫大な富と権力を握り、権力者は変わりながらついには覚らず民を苦しめ、民は尊い抵抗をしながらも悟るように生き延び続ける、そういうことが繰り返されてきた。道元はこうした場所において自らを省みるように葛藤していたであろう。

禅は論理を超えたものと理解されがちだし、書物を読むとそうしなければいけないという雰囲気も感じるくらいだが、正法眼蔵、私にはこれほど論理的である意味単純な書物はないようにも思える、仏性とは一つの明快な論理だとすらいいたい、一つ覚れば、そういうときもある。ドゥルーズがベーコンについて「感覚の論理」を書いているが、この感覚の論理、一つの生地を織ること、生地をはがしてもまた次の生地がおられていくその感覚的で官能的な反復を繰り返し、繰り返したそのとき、世界を内側から知る道としての論理が出現する。

それは外側から細かく世界をみて類似を見いだしつつ構造の類推をしていくことではなく、内側から全世界とその構造を一挙に感覚し自らの位置を察知するための論理であり、無限というあらかじめ目的のない場所へと瞬時に到達する、手段という時間的猶予をもたない一瞬という間の連続された道であり、有限であるその道がすなわち無限に通ずるというそれだけの、きわめてよくある論理的過程を、精密な詩としての言葉で示したに過ぎない。言葉でもって示すことが道元にとっては民としての心身脱落であったともいえる。そうして聖から俗へ降りる道としてもさらに坐禅を追求した。だがその先は示されてはいない。

かつての大国ポルトガルが大地震を一つのきっかけとして見かけ上は没落していった。しかし私のおとずれたポルトガルは美しく、文化と伝統が脈々として生き生きしていた。今にして思えば、経済が破綻しても、そこにずっと生き続け伝え続けられてきたものは、さらに脈々と生き続け土地に終わりはないと告げているようだった。しかしながら、原発事故はそれにしてもあまりにも取りかえしがつかない事態であると今日も思う。道元にとっての禅、今の社会全体にとってそれにあたる葛藤がすでにあちこちで生じている。