犬山 inuyama(8)2009

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もやもやしてあいまいなものごと
行為の契機はそこここにある
それは不気味な存在そのものかもしれないのだが
写真や音や言葉においては
不気味さがあたかもそこにあるかのように
わざわざあぶりだして醸し出すようにしなくとも
不気味さそのものから何かが
それぞれのあり方でそれぞれにやってくる
各々は各々それ自身が当たり前のように不気味さを抱えている
そうした不気味なもの裸の存在に向かって
この身体を通じて言葉や音や写真という何らかの作為を加えるというよりも
根源としての存在の能動的な自己としての働きが
他者としての存在へと与えらえることによって
存在そのものに自他が触れるための行為として
各々の行為はあるのだろう
待つことは自らが他者として
存在の働きを受け取ることであり
与えることは
自らの存在の能動性を惹起させることである
ここにおいては作為と無為は
そして偶然と必然は抜き差しならない関係にあって
互いが互いを非常に厳しく見張っているようにみえる
そして努力して生き続けるということは
忍耐の持続による蓄積の達成としての勝ち負けということよりも
待機の持続による不断の賦与としての過程としてあるだろう
それは生の苦しみや楽しさを
たとえそれと意識せずとも自他が広い形で分かち合う場
賦与の到着点としての場が次々と結露し
それらが自ずから生じるためにある
だがこのように真に存在に向かい合いながら触れ合うためには
いわば作為と無為の中間体
偶然と必然の間領域
権力に垂直な身体がやはり必要なのである

とりわけ臨床の場においては
人間自体がそうした存在として
そこに立っていなければならない
他者の臓器を本来は拒絶する身体に移植し生着させる臓器移植
この現実に真に身を開くには
臓器という物質的側面をめぐる問題
それに絡んだ経済的問題および倫理的課題や情報公開の問題ということ以上に
存在としての身体
自他という根源的な課題
生きるということが待ち続けることによってその存在がもたらされ
他者に与えるという不断の努力をともなうこと
生は何らかの苦しみをともなうこと
そうした今どこかに隠れてはいても何かの行為によって顕現されるもの
意図されざる生の過程と知られざる価値
それらが人々の間で十分考慮され共有され十分に想像されなければならない
今はそう感じているのだが
私の世代は人間の存在様式の大きく変わる過渡期
その色々な挟間におかれていて
次に何をどう伝えていくかということを思いながら
何はともあれ各々が各々の場で各々の行為を通じて
次を支える土台について真剣に模索しなければならないのだ