犬山 inuyama(18)2009

shapeimage_1-64

東京へ少し行ってきたが今回はなぜか大きな疲労感があった 体調不良だったせいもあるかもしれないが 昼過ぎに恵比寿の写真美術館へ行ったがまわりはビルばかりだった エイズの周辺にまつわる写真展がひらかれていた すぐに連想され何度もみたことのあるロバート・メイプルソープが今回はなかったのがよかった エルヴェ・ギベールの写真は 自己の孤独を外から見続け 自己の内部を通じて外側の光景を反転させているその感覚に 私を勝手に重ね合わせてみていた エイズの友が死んでゆく姿を淡々と捉えていた写真には はじめのうちは病の人々をどうしても撮ることができない私とは異質な感触をみたが 最後には認めてみることができた そこへもって崖から転げ落ちるバッファローの写真には心を打たれた その時空と重なるように訪れた新宿のサードディストリクトギャラリー 友人の牟田さんの写真展のなかには自らの入院中の姿を自らを自らが知らないうちにシャッターを押していたという一枚の写真 酸素マスクをつけていた どうやって撮ったのかはじめは聞くこともはばかられたが そこにいた誰かが当人に聞いてくれてはじめて知った そして眼が見えない患者がこちらに視線をむきだしている写真 そうと聞かなければわからなかった これらは衝撃的な写真だった 病院のなかで何かにせき立てられるように自らの役割その責任を果たすべく忙しくはしりまわっていたころの私が 妙な感触とともに写真にさらに重なってみえた 一体なんのためにあれだけあのとき働いていたのか 患者のためと言い切ることができるだろうか その問いにまだ答えることができない空虚感 対抗していた権力がなくなりそれが離れれば消滅してしまうような空虚なもののなかに私はいたにすぎないのだろうか 

帰りの新幹線では重なりというのはどういうことを感じているのかと思っていた 少しビールを飲んだが半分吐きそうになった 新宿でずっと昔にニューヨークでとったものの写真展を開いたとき 写真家の土田ヒロミさんと話をさせていただいたのを思い出していた それとはなしに話題に上った 何かが次々と重なってくるのを君は写真に求めているのではないか  あまり意識していなかったけれど それは今になってやっと本格的に意識にのぼってきたように感じられるが なぜこのような長い時を要したのだろう あのときは瞬間をどう生きたものとするかが自分の最大の関心事だった そしてそういうことで焦りながら生きてきた 音楽でもなかなか何かからの焦燥感から抜け出せなかったが コントラバスを続けることで何かより大きな時間のようなものをどこか保ち続けていた そしてこうした瞬間に対する一つの思い込みはこれまでずっと続いてきたのだが 何らかのずれを含みつつ動いていた いまになって写真的空間把握としてではなく 時間のまとまりという少しずれた様相においてあらわれてきた 住む空間が変化したということがおそらく大きいのだろうが それは時間概念がないという状態とも異なっていて 観念的で概念的な時間に対する物理的時間という枠がない事態 それは時空間同士を連結しているそのおそらく間にあって その地点に立つことができれば私というものもそれほどぶれないものになりうるのではないか それはおそらく実感としてより大きく広いもの 観念と情念の身体にからむ場所 そんな場所に何とはなしに私自身が近づきたいのではないか 時空間は全くもって一つではないこと 日本的な間という問題とも絡むかもしれない だがこうしたことも観念にすぎず ちょっとした契機を得たくらいで本当に実践できるものではない たとえば腐葉土の手の感触からえられようとしている直接的な実感 そうした直接的な感覚こそが根本になくてはならない この衝撃は強かった 身体に大きく働きかけた 誰もがすでに知っていたが忘れ去られたもの あるいははるか昔からあるようなものであるが追放されたようなもの そのようなものを我々はまた認識しなければならない 確かな感触とそこかしこにうまく張り巡らされた時空からの身体的退歩 それがある重層化され淀んだ密度ある時空を復権させ いまここに何かを再びもたらすならば