出雲崎 izumozaki (11)2010

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ここのところのずいぶんな疲労で、右腕と右手が言うことをきかなくなっていった。ずいぶん不安だったが、思った以上に焦ることもなかった。

どうしても必要なカルテ書きもやっとで、楽器を弾くこともできず、デジタルカメラのシャッターもままならず、車ものそのそと運転して、ワープロも打てないと言ったら大袈裟なんだろうか。だが何も機能を果たせない右腕はその存在の重みをあらわにする。

生活するのになくてはならなくなっているという存在の重みと、社会的役割としての重み、表現する手としての重み、そして生身の身体としての存在の重み。絶対に休ませなくてはいけないという割り切りをもって、その重みがいつもより感じられるということはある面において心地よく、ためになることでもあるように思えた。

それでもこの腕から逃れるように昼休みにジャコメッティのことをまた何となく思っていた。彼の彫刻が小さいのは、ほうり出されたこの腕の骨のように、存在を剝ぎ取った最終的な形、その骨格なのではなく、彼が現実を現実として忠実に求めていった時、それが実際あまりに遠い、それで彫刻があんなに最後には小さくなったのではないかと一つには思った。

もう一つには、彼が好きだと言っていたジオットを思い出した。ジオットは、はじめて神の世界を神の側にたって描くのではなく、人間の側に立って描いた。それがあまりに現実感を帯びていたため、当時の人間は彼の絵の方がこの世界だと本気で思っていたというほど本質的に革新的だったのだ。ルネサンスの始まりはジオットにあるともいわれる。今は人間の邪悪な世界、その罪を自然の世界から眺めてみるべきだろうか。

さらにジオットから連想して、かつて訪れたフィレンツェで最も感動したものの一つ、フラ・アンジェリコの「受胎告知」の絵を思い出していた。ほんとかどうか、フラ・アンジェリコは加筆修正を絶対に加えなかったらしい。フレスコ画という技法的なこともあるらしいが、絵画は彼にとって表現ではなかったのだと思う。同様にシュールレアリズムをついに脱退したジャコメッティにとっての彫刻もやはり表現ではなかった。

もしこの利き手である右手が使えないのならば、表現しないということにはいいかもしれない。それは右手があっても表現しないということがいかに難しいかということであるから、フラ・アンジェリコは本当に偉大な画家だと思った。同時に、右手がなくても絶対に表現するという人間もまた偉大な抵抗者であるだろうと思う。

ここまできてワープロうちもそうは苦でなくなってきたのは、喜ぶべきこと。それでも腕の違和感からか、ぼんやりとだらしがなく、ムカデに刺されそうな夜。