筋目書き(二十一)


R0013256

下呂 gero (22), 2009



いまの一当は、むかしの百不当のちからなり、百不当の一老なり。




<道元>


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筋目書き(二十一)


無常は無ではなく常なるものの否定でもないが即興もまた無常の形とも言えない、はたして即興における意思はどこからやってくるだろう。意思は否定の否定としての肯定ではなく想像が此岸の身体に降りた彼岸の極みにおいて情の飛沫をまき散らしては束ねほどき乱舞する心であり、音と光のない世界その否定から生ずる復活された肯定の力というより、負あるいは負の重なりそのものが条件であるような無条件の地平にそのまま生じてくる。いまここに生起するこの意思という未知の旅の出発点が心の行為へとむかう身体的動機に等しい場所であるならば、即興においてはじめて表現が成立する場所が与えられうるのかもしれない。無為や無の徹底あるいは即興に破壊と抵抗の意思を持ち込むのではなく、無条件というあらゆる条件の彼方にある地平線から駆り立てられるように意思が生じてくる、それがなぜなのかわからない余韻と余白とともに、だからこそ即興は真に自由であり続ける生命。自由。汚染された世界の自己研磨され摩擦から生まれ出ようとしている無垢は、想像力と現実の接点において生じた心と身体の火花飛び散る瞬間的な開放的時空において、苛烈な発火体の動いた行方に待ち受けているであろう静なる何者かによって連続的に支えられつつもその彼方へと向かっていく断続的行為によって磨かれる。


                          

●正法眼蔵の「説心説性」から。すべての過程がいまここに生きているということ、さらに、いまここは失敗からこそ開かれていると捉えてもいいだろう。失敗を否定と捉え、否定を否定する肯定力を問うているというより、失敗は負であるにちがいないが負をそのままいまここのあるがままの過程ととらえ、そこにこそ生きていく根拠をさぐっていくあり方を問うことは即興ということにつながるだろう。東京で盲導犬の周辺の環境を撮っている旧友の写真家と話をしたことが契機となり、自分なりに何かの思いをあたためていた。それは即興において意思というものはどこから生じているのかという問題につながっていた。即興において意思は過酷さでもあり、軽やかさでもあるだろう。即興は求めながら待つことによって現在が未来であり未来が過去である錯綜した様態、この静と動のダイナミックな純粋性は即興への意思によってこそ待たれ保持される、もっといえば、待たれ保持されなければならないのではないだろうか。



●(追記)カルティエ・ブレッソンの1933年にバレンシアで撮った、しみのある壁の前に少年が両腕をのばして恍惚の中に眼をつむりながら立っている瞬間を写した写真があるが、これにミラン・クンデラが文章を書いている。これは楠本亜紀氏の「逃げ去るイメージ/アンリ・カルティエ・ブレッソン」の第二章「光と時間」から引用したものだが、著者のいう「不在の一点」という写真における写真家の位置、写真において不在でありつつもその存在がなくては写真が成立しないような場所は、即興における意思の場所に匹敵する地平なのではないだろうか。

こどもは前にすすみ出る、頭を後ろに傾け、口を半ば開け、右腕を軽く離して、体が、どんな小さな支えもなく投げ出されるようだ。なぜなら前に進み出ることは、彼にとって、自らを介抱することであるから。左手で、彼は黒く汚れた壁に触れる。そしてその壁に導かれるままにすすむ。自分を導いているのが眼に見えない壁のしみにすぎないことも、従って、盲人が盲人を導いていることも知らずに、白い服を着た上品な彼は、未来へと進み出る。彼は知っている(ほんの一瞬も忘れる事なく、つねに彼は知っている)。次の瞬間にはいつも、いわば暴力に身を委ねるのだということを。(ミラン・クンデラ)

「少年は写真のもつ暴力性を一身に引き受けて立っている。少年の肉体は不在の一点にかろうじて引き止められてバランスを保っているこの一点が存在しなければ、写真の世界は形式的な無秩序さを呈する以上に、その無意味さにおいて暴力的に画面を満たすことになるであろう。少年は眼にみえない壁のしみに導かれながら、何者にもつなぎ止められない粒子としてしかありえないような未来に向かって進み出る。しかし写真の中に捉えられ、不在の一点に支えられたこの瞬間においてだけは、少年にカタルシスは訪れない。決定的瞬間は常に先送りにされているのだ」との著者の言葉によって、この章は結ばれている。