筋目書き(四十四)雨月11 菊花の詩(二)

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下呂 gero, 2012






筋目書き(四十四) 雨月11 
菊花の詩 (二)




砂粒のざらつきと海水のぬめりの入り交じった暗闇に息を吐く浅蜊をながめていると人の痛しむ声が聴こえた

白地に言葉を刻み付けるように善悪をつけながら浅蜊を網に入れる指先の罪は声に揺りうごかされる気流に包まれた音の温もりに写し取られた

眼前の遠浅に無限に繰り広げられる砂下の浅蜊の多様な文様は冷たく固い装いと内面の柔らかい激しさのあやうい平衡のとれた曲線美に象られていた

青空の下で蓋を開けなければ痛みの伝わらない小さな浅蜊たちは捕獲に魅せられた狂った人間に捨てられながら泥を吐きだし泡を吹いては死を待っていた

空と海をいまにも分かとうとしながら水平線に沈みゆく太陽の切れ切れの赤い滲みにつなぎとめられ燃やされながらだれか生きている



●「
菊花の約」の文中の「人の痛(くる)しむ声」がひっかかって、その言葉からさぐりあてる記憶からはじめて、最近経験した現実やそのとき思っていたことの粗雑なメモへずらして転換していく。思想を練り直そうとやかましくせずに、ある言葉をヒントにして体験された気持ちを素直に言葉に書いてみると、律がほどよくみだれて、音楽への、特に即興的身体の開放的なきっかけにもなるし、疲労のあまり寝ている間に痙攣し、起きているときには放散しかけている意識もかえって引き締まる。意識を身体の自然に漂わせることから離れて言葉を探すことは、何かの善悪をつける行為のように思える。そうではないような言葉の行為を求めていきたいものだが、言葉は人間にとっての原罪だと一瞬でも深く自覚できたような気がする。気づけば原罪である言葉から解放されるため、罪からの解放のためにもがきながら言葉を書きつづけなければいけないのかもしれない。そうなると演奏のはじまりがいつもそうであるように、書きだすことはいつも難しい。書き出せればあとは何かに任せていけばよいが、はじまりの音は全くもって自分の音ではない。その音が何か得体の知れないぬめりに邪魔されてなかなか出せないように、いま、なかなか言葉を書けないものだと感じる。結局、無様なことばでも、無様な音でも全く結構で、師は自然(しぜん/じねん)ということで、そこから導かれ、導くものに従うことが練習になる。最近は自分でも意外なことに理屈抜きに草木を撮ることも多くなった。