筋目書き(三十四)雨月1 雨月への旅

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琴平 kotohira, 2012





秋こし山の黄葉見過しがたく、
浜千鳥の跡ふみつくる鳴海がた、




雨月物語 白峯



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筋目書き(三十四) 雨月1 ー雨月への旅ー



 大晦日に訪れた熊野古道での静寂とどこからともなくふかれる風、葉の擦れる掠れた音は音の抽象への入り口ではなく音からもたらされる身体への具体的な響き、肌への触覚だった。演奏することの具体性は確固としてある。写真がそこにある何かを写すように、存在の具体を経なければ音はやはり浮わついているように感ずるし、音は一見抽象的であるようでも、思想や観念を常に逸脱するいまを生きているそのことのあらわれ、極めて具体的なものごとでもある。一方の輪をまわしても、もう一つの場所に眼をやらなければ音をまともに弾くことはできない。
写真はおそらくその具体というものの肌触りに限りなく近いということもできるが、だからこそ写真の抽象論も必要になる。写真の具象世界と抽象的把握は写真の宿命であり、写真の矛盾ではないだろう。それにしても写真論も音楽論も抽象的存在論はこの日本の現状にいたってむなしい。道元的な悟りのように「何か」というしかないかけがえのない一瞬がある一方で、同じく「何か」としか言い様のない、だが決してなにもないという抽象ではないなにかある具象、生の具体的時間とは何だろうか。モノがカタル身体性とはどういうことか。

 雨月は抽象と具象を言葉において同時に貫いている。筋目書きは今年、
言葉の教義と抽象によって研澄まされた心を「空」につなぎ、若冲の筋目描きの線と線の重なるにじみの境界に身体をおきながらも、より具象的なあり方へ歩み寄ることを目指す。雨月の言葉が音の粒子となる。雨月は、自分自身の身体を通じた音の言葉への写し「音写」としてある。そとからうちへのひっかかり、うちからそとへのつまずく音を呼び起こす契機として、五線譜の記号ではなく言葉の具体的な響きからはじめる。とくに雨月の音読から学び記憶と関わる内部の運動を通じて、筋目書きは私を通じた情を突きやぶる「性」、その具体的な音へのプロセスの証であり掠め取られた手形。言葉への観念的集中と文体的装飾を最低限に留め、言葉の音声を掠め書き取る行為を通じて具体的な音にこれを点火するなら、音に応じて文体も変化するだろう。自他への身体の直接的な問いかけの続く身体的密度をたもちながら今年もこの場を続けよう。道元の季節の残響にその空白の色をふりかえりながら白痕を踏み、鳴海尾張の声の旅に出る。







●昨年のおわり、香川県は丸亀の石内都さんの写真展を拝見する機会があったため、近くの琴平を訪れ、上田秋成の「雨月物語」の第一節「白峯」ともゆかりがあると思われる白峯神社に足を伸ばした。今年はいったん道元からはなれ、雨月から抜き書きをしたいとおもう。金毘羅宮で撮ったこの写真をはじまりにした。一年間という短い期間ではあるが道元との対話によって私のなかの、あるいは外部から呼び覚まされた私の何かが深まったのは確かだとおもう。「空」の音と写真への具体化、神だのみではなく、その実践的方法を探りたい。



●雨月の冒頭の巻をなす「白峯」は次第にそれと知れる西行と、西行に裁かれる崇徳院との観念と観念のぶつかりあいともとれるが、観念も内なる人間の自然でありながら、それと異なる具体的な人間の歌の心が垣間みてとれる。その抽象と具象の両者のあいだの絶妙なにじみの言葉の具体が、「白峯」に代表される雨月物語のなかにはあるように感じる。雨月の言葉の抜き書きはその物語性を無論否定するものではなく、秋成という作者と「
剪枝畸人」(秋成は天然痘にかかり手が不自由だったため、これを自嘲してこの号を雨月において使ったとの説がある)なる書き手とのあいだ、書き手と読み手、読み手と作者とのあいだ、さらにここ(此岸)の具象とあそこ(彼岸)の抽象のあいだを一気に貫いていて、心が往復し、次第にその立ち位置が逆転していく通路に雨月のすべての言葉があるように感ずる。その匂い、その音、その光、その肌触り、それらが秋成の言葉、その文体に乗っかっている具体的な何か。それが雨月の文章には顕著に凝縮してあるのだ。



●文体が言葉の生命の一つの大きな柱であり、個々の人間にとっての「性」がこれにあたるとすれば、秋成があらかじめ自嘲しながら、あるいはそれを装いながら書き付け見事に校正していった文のように、私のなかのぶれない「性」を見いだすために、その言葉を書き連ねることによってうまれる律動によって「情」をつきぬけた具体的な場所と身体性に到達する過程が必要だと、新年をむかえてみて思った。道元や仏教における「空」もおそらく思想的具体であり身体的残響としての具体ではあるが、年末の衆議院選挙により意識がより具体的になったのだろう、これとは違う具体、価値の錯綜するこの社会、信ずるものがないというこの社会においていま、自分が生きている具体に、腰を据えて自分が出会わなければならない。はじめは足場さえわからないが、医者でもあった秋成のその不自由な指で楽器を弾く姿、そして音を想像してみると、私の「性」に何かが共鳴しておぼろげに何かの音が見える気がしてくる。こうして私にとっての雨月が具体性への手本となりうるなら、道元においてそうしたように、からだにひっかかってくる雨月の文の切れはしを抜き書きして何かが触発されてくる雨月の言葉の力動は、音への具体的な何かをもたらすはずだ。



●まずは雨月からその都度に触発される言葉を書き抜く。書かれたものを内側の声にする、肉体のなかに楔を入れ、裂け目の中で声にならない声を読み上げる。雨月の朗読の録音も少しずつ聞いているのだが、参考にして調子を学べるところは学ぶ。しかしただ真似て学ぶのではなく、音読することよりもむしろ自分自身が時間をかけて書くことによって読み込んで、言葉に写された雨月の音を身体化することが必要である。筋目書きは雨月を借りた、自分の身体を通じた「音写」となる。言葉は雨月という音の痕跡であり写真の粒子、逆にその楽譜のようなものが雨月だ。同じようなものとして良寛の書もずっと考えてはいたのだが、良寛は道元への導きとしての色が濃く、また遺墨には空間性がありすぎて音への直接性がうすまる気がしていた。雨月の言葉が自分自身の内部の音となり、言葉がやってきたその身体に響きだせば楽器で何かの調子を弾きながらその都度納得がいくまで時を刻むことができるだろう。それがどんな音かはまだわからない。はじめはほとんどつたない音や響きでも、過程は生きているはずであるし音に対する意識もその都度大きく変化してくるだろう。これは雨月物語の世界を音や写真で表現するというようなアプローチとは決定的に異なり、秋成の言葉を写真のように音写し、切れ端を集中してなぞる。鳥も寝静まった夜、この日本の雨の湿気と雲間の月の反射光を感じながら。秋成にとっての雨月物語がそうであったように自己の具体の生きる音がそこに磨かれて、写真の具体が際立ってゆけば何よりであると思う。



●思えば筋目書きは震災と原発事故の衝動その残響からはじまった。東北の想像を絶する揺れがここ愛知の犬山にまでもわずかに届いたあの3月11日、たぶん十秒ほどだったあのずれの物理的時間は、二年という私という人間の時間に匹敵していたのかもしれない。このことも同時に考えていく必要があるにちがいない。



●またこれとは別に、昨年譲っていただいたベースのアルバムコレクションも他の欄を作って徐々にその印象を綴ることを考えている。自分以外の演奏を聴くことによって自らを客観視する意味合いが強くなるだろうから、評論家のようにアルバムの解説には決してならないだろうが、貴重なものであるとおもうので、他に何らかの意義があればうれしい。