筋目書き(六)


R0013305

下呂 gero (7), 2009



老梅樹の忽開花のとき、花開世界起なり。花開世界起の時節、すなはち春到なり。
この時節に、開五葉の一花あり。この一花時、よく三花四花五花あり。
百花千花万花億花あり。乃至無数花あり。
これらの花開、みな老梅樹の一枝両枝無数枝の「不可誇」なり。


<道元>

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筋目書き(六)


日々の起伏をともないながら、からだの調子や感じ方一つで世界は日々刻々と変わる。生きている理由も本当にはみつけられないまま、それでも頼りないこの生にいくばくかの魅力を感じられるうちは、心と身体は思考とは少し別なところで勝手に先をうごいていく。朝めざめる身体の変化するときのように、思ったときその思いはもうそこにはなく、そして考えはただあとから生じた事象についてゆく。臨機応変に人間が人間であろうとする個々の判断や行為も、世界に対してできうる限り賢明であろうとする動きの一つ一つの過程にすぎず、それ自体は大げさなものではあり得ないが、目立たず、微かで、一見うごきが遅く、他を威圧しないような情のなかに、人間の目覚めを呼び覚ます力が働いている。静と動はゼロと無限がそうであるように、対立するものではなく、お互いがお互いを直に聴き取り見つめ発見しあっている。また生と死のように。存在が有限である人間は、この世界で微小であることによってしか無限に近づき、無限を感ずることはできない。その無限も数なのではなく、個々の存在の質の極まった「一」であり、いずれ過ぎ去る人類史も一つのはかない存在の影にすぎないが、翻って「一」はどの微小の個体をもただ一つのかけがえのない存在たらしめていることに、もはや疑いはない。


●震災から一年たった日、いまの自分に正直であること。 ●正法眼蔵の「梅花」から。震災のころにちょうどこの節をよんでいたのを思い出しながら書いた。老梅樹がたちまち開花するとき、花開いて世界起こる。このとき春が到来し、次々と花は開いて無数の花が開く。花々は誇ることなく(清浄で不染汚の修証であり誇るべき相手もない:水野弥穂子の注釈)老梅樹の枝に開き咲いている。だがこの箇所の前には、「老梅樹は春風をそよがせるが突如としてにわかに狂風暴風となり、この活動はまことに思いがけないもの、老梅樹は無端ではじめも終わりもない」という天道仏祖の言葉について語っている。「梅花」はいくつもの重要な視点を含んでいて壮大な時間論でもあるが、新しい時間の始まりと捉えるとき、震災後の今日を強く照らしているように思われた。 ●また一つには、私のなかにいる良寛を想いながら、今にあるむなしさをこえて何かを祈るように書いた。「大愚」良寛の影に、めまぐるしく速く回転するその感受性によってほとんど静止したように非常に遅く動く世界をみるときがある。 ●いま、時折の春の風があたたかく時に心地よく感じられても、何のためにという問いもむなしく響く時代に生きている。線量計を体温計のように日本中の誰もが持つ日も近いのかもしれない。福島のどこかで、マスクをして子供が小学校に出かけると、風評被害だといってマスクをとるようにいわれるという話を直にきくと、根強い原発再稼働の動きの色濃いこの国の未来は暗く映る。これからますます悪くなることは目に見えている。思いもかけない理不尽な負の体験は人間を根深く頑にし卑屈にさえさせてしまうことは日々の診療でも感じていて、暗澹たる気持ちになることがある。医療とは一体何なのかとおもう毎日が続く。それでも大津波を経験し、仲の良かったともだちを失いながら生き残った少年の具体的な言葉には激しく情を揺さぶられるし、そんなつもりもなく発せられた彼らの言葉に人が人を生きるための示唆がたくさん含まれていると感じる。子供は本質論をふりかざすことなく、自己完結に閉じこもらないで、動きの本質を実際にみてそのまま語っているようにみえる。机上の論理や現実にそぐわないおごった期待を積み上げるのではない学問、実学としての学問の原点は、いまは幼い子供にすでに体現されている未来のなかにあるのかもしれないが、その心の莟が花開くようにいまの社会が努めることがはたしてできるだろうか。彼らの語り口や言葉のニュアンスによって、人や世界、ましてや思想や学問はその全体が成長するようなものではなく、ただ純然たる全き生がここに与えられ、変化しながらいずれ散っていく存在でしかないこと、同時にそうであるからこそ生の充実した存在があり、一人では決して生きられない存在、そのなかで日々の営みがあるのだとあらためて教えられる。日々感じる人間の生の儚さと頼りなさのなかに、その裏に厳然としてひそんでいる自然の静かな怒りにも似た、畏敬の念を力に生きるしなやかな生命力が、そこはかとなく暗示されている。震災後に我が身にも感じだした、生きることの儚さと生きることの変化とその生産力は同質のものであって、生まれたときから必然的に死へとむかう生の変化が、時の微小かつ豊穣な滲みをもたらしている、そのぼんやりとした時の滲みが生活することの筋目にあるという直観のようなものに、いま支えられているのかもしれない。