筋目書き(十五)


R0013337

下呂 gero (16), 2009



いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり。


<道元>


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筋目書き(十五)


良寛の消息「自然」をみながら弾く。有時において時は去来ではなく間断がない存在自体とされる。五度はなれた二音を弓の持続に託して和音の果てにある僅かな音の振動と揺らぎを聴き続ける。ここにおいて和音は与えられた調和ではなく身体的調律を迎え入れる空間的契機であり、筆の行方を音でなぞるよりも自然、この二文字のすべてを空間に一挙にみる、そのなかに聴かれる音によって心身は透過させられる。雨風に竹の揺れる夜、音が音のなかに消え去るとき空間に音の色彩がみえだす。自然に弦を抑える手が僅かに震え、響きが響きをこえる。情が響きだせば音は止むことなく音色も変化するが、空間が音色の時の入れ篭となって時間が空間のなかに存在しだす。細やかな身体の規律とともに存在へのおののきが音の両極に等しくあらわれるそのとき、時間は去来する相を超え出て自己が自己に去来しながら時のなかに徐々に溶けだしてゆく。自己は時間、時間は存在、存在がまた自己であるという自然。

                          



●正法眼蔵の「有時」から。誰もが引用する一文。たった一文ではあるが、含蓄あること極まりがない。私にとってもこの「有時」という節は「古鏡」と同様に、特に音楽的時間を考える上で、時間についての問いかけを含む重要な節である。道元の全体の骨組みが書かれる「現成公案」よりも深く身体に刺さる。これら二節は「正法眼蔵」のなかでは連続した節をなしていて興味深い。あくまで個人的な印象ではあるが、あらゆる時空の境界を問う「古鏡」をうけて時間論「有時」があり、言語論である「授記」を経てリズム論ともいえる「全機」と続き、この語のリズムから「都機」によって月の時空の様相に照らし存在の虚空に真理を射抜く流れ。さらに現実と言語的な概念の相克とこの必然を描く「画餅」から「渓声山色」の深遠広大な自然論へと広がりを見せる。もはや禅や仏教というような範疇にはないが、たとえば禅一つをとってもこれだけのものを必要とするということであろう。「一」は「全」であるということが貫かれている。自分の今の年齢とほぼ同時期、道元四十歳代前半にしてまさに圧巻である。今回は、筋目書きという一つの道を良寛の筆の空間と音楽によって行為しようと試みて、その過程を再び書き直したということになるが、読み返してみると想像の域を出ない部分もある。だが想像することがすでに現実への具体性を微かに帯びている。その可能性にかけて、以下さらに筆を進める。



● 「有時」というこの一節には想像すべきことが無数にあってきりがない。何度引用して書いてもその都度違うことが書けるだろう。それを裏返せば「一」が 「全」であるという事実によっているに違いあるまい。当然「古鏡」にもこれは貫かれているわけだが、演奏という行為のなかでは「有時」はそのあり方が「古鏡」の対偶にあるようにみえてくるのだった。良寛の筆跡を一画一画、音の時間に辿っていくのであれば、時の去来とともに最終画とその静寂と余白へと向かう断続的な音の痕跡その連続の果て、静止した古鏡を観るだろう。ここでは時間的自由が空間的静止を規定していく。これに対して、はじめに筆の空間を、一画一画の関係性の束を一挙にみるのであれば、筆跡は絶えることなく何かを響かせる風の道となり、今が今であり続け ることによって今を離れた存在、すなわち空の足跡である有時が音にあらわれつづけるだろう。ここでは空間的静止が時間的自由を規定する。すなわち、時間が空間をひらきながら古鏡という存在の普遍的な形を浮かせるのとは対照的に、空間が時間を容れながら時間が普遍的な存在そのものと化していく。自己が時間を鏡として変化する空間の虚像として存在に同化して浮かぶか、それとも大きくは変化しない空間に存在が満たされていく過 程において自己が時間そのものとして流れ続けるか。いずれも音は時のあり方を映す鏡であり、空間と空間を結ぶ呼び水である。しかるに、この二つの過程の交点にたって演奏するとはどのようなあり方なのか。時空の規定が自由をよび自由によって時空が規定される相互反復からみちびかれる虚空の形は。



● 道元は座禅そのものについては語らず、座禅する際のいわば環境整備について一つ一つ形を変えながらひたすら説いている。この数年で、環境を様々にととのえること、それはたとえ病気というレッテルを社会的に貼られても、それぞれの状況下で心と身体の健やかさに留意することに始まる、そのように感じている。だが現代社会ではこれが簡単なようで非常に難しい。自他の評価に縛られた知力や身体能力よりも、健やかな伸び代、その余白が何かを生むように思える。それはありふれた言い方をすれば、物質と精神、心と身体が社 会の中で引き裂かれず、二分できないものとしてふたたび生きなおされなければならない、そうした時代の転換期における根本問題であるかもしれない。そのとき時間がいまにあらわれ、今を超越した時間がふたたび存在しだすのではないか。自己が時間でありそのまま存在でもあり世界となれば、時間の射程は深く広がる。

政治は判断を迫られたとき、同時に人間的時間とは今どうあるべきかを深く未来に熟慮すべきである。それは本来、音楽が示さなければならないことである。だから本来の政治と音楽の関係においては、音楽家は人間の時間を切なる思いで考えだしまた振り返って創出し、政治家は音楽をはじめとする世界の声を聴き、時間のありうべき姿を想像し現実と相対しなければならない、そしてこの国がこの国自身をみつめなおすための新たな環境を整備しなくてはならないのである。それが不可能に近いとはいえ、音楽をはじめとする文化や時間までが飼いならされ、目覚めていることすら難しいこの社会で音楽とはいま何なのだろうか、人間の時間はいまどうあるべきなのだろうか。こうした問いを再三再四、問いかけながら道を探していく他ない。



● 社会的行為との連関で時間をあらためてみればどうだろうかと、自らの経験を振り返ってみよう。時間の解釈は古今東西様々にあるだろうが、道元に入ることは一つには近現代の分析的時間、外側から計測される時間から離れて、心を含めた身体に時間をもどすことである。離れる過程を踏むことのなかに本来的な時間が出来する、この出来事の中に毎回入ることができるためか、疲労が大きくてもこの身体が何かを書こうと毎回欲している。こうして道元を換用することによって日常的時間からのがれ、決して過ぎ去らない時間のなかに身を投ずることによって、社会的な身体的精神的負担をのがれる。けれどもこの日常的時間からの離脱は、むしろ社会への積極的な関わりの時間へと変化する。数が増え効率的時間が否応なく求められる苦しい実践であるほど、身体的な発想の転換と質的な時間を高度に必要とする。差異と反復の隙間に生じた時間はその都度新しく、それが無へと向かう行為ではなくとも、はがれ落ちた存在の裏に異なる世界の存在の面が新たにあらわれる。やがてその都度塗り替えられる時間、その意識もなくなり目的の消滅による残像すら映る間もなく断片的に時間が持続する。だがそれはまだ意識の時間の範疇にある。一つにはこの意識を自他のうちがわにさらに純化し、その間にある鏡を磨きながら意識を離脱し、その場所に時としての存在を開く方向性があるだろう。この時間は、意思の時間、世界への意思を強くもつこと、世界への抵抗の時間である。

一方で「有時」に鑑みて、この時間を直接的身体として受容する方向性もある。だがこの方向の困難は、いかにこの世界をそのまま信じることが困難であるかという現代のトラウマをそのまま示すものでもあって、はじめから簡単にできるものではない。この時間は過去へと過ぎ去るものではない。過ぎ去った時間の意識がなければ癒しもなく、郷愁すらないかもわからない。音楽は癒しの享受ではなく生きている日常そのものとなり、さらに音楽は日常的時間からの離脱的創造というよりも、日常そのものの永遠の享受として存在しだす。社会的制約と自己の身体的限界を抱えた仕事を果てしなく繰り返す過程において、ある境界を超えたとき突如として、疲労している身体すら忘れていつまででも行為できる、そのような永続する時間のなかに呑み込まれることがある。この時間はサルトルが「嘔吐」で示したような存在の裸形にさらされた実存的な自我の辛辣な時間ではなく、むしろ身体に最もマッチしたリズムにのった快活さのなかにある。同時に社会的役割というお膳立ても時間の無垢のなかに洗われ、意味や目的意識よりも行為自体の内側で人やものとのコミュニケーションを持ち出す。測られた規則正しい時間から抜け出した歪んだ世界、そこからさらに歪みのとれた空間に時間が析出しだす。時が満たされるこの空間は、時間の運動から離れ、時間的運動を呼び起こすための空間的差異は影を潜める。そこにあるがままの空間に、あるがままの時間が満たされるにいたるまで自己を含んだ時が永続する。ここにおいてはもはや、時という一つの生命のなかにすべてが生じている。それは世界を待ち、享受する時間である。



●フェルナンド・ペソアは「人は二つの人生を生きる」といったが、この時間の意味について深めなければならない。だが、二つの時間を生きるには、膨大な差異と反復、そして逃げ場や出口のない修練のようなものが必要である。水平的な時間軸に沿った進歩や発展をはるかに重んずる現代社会において、これらの時間の出現は不可能にもみえるが、たとえばボルヘスは何かで後者の時間について語っていたように記憶している。人間の心と身体から決して離れることのない詩や音楽は、楽器一つと少数の音、あるいは言葉一つで、この抵抗と享受の時間を少なくとも示すことのできる可能体である。

かつて調和にも道はなく、恍惚にも道はなかった。言葉が自己の世界への抵抗でありながらも、自己が世界をありのままに享受する経験であるとき、思考は思考をこえる。目覚めは抵抗と享受の隙間に漂う迷いのうちにあらわれる。適応は世界と自己の差異と反復にさらされながらも自己を世界に離脱すること。記憶は適応しながら自他がともに目覚めるその場所において不意にあらわれる。自己に時は去来するだけではなく、時が自己を介する存在そのものとなる。遥か昔の人が音楽は鬼をも震わせるといった、いったいどういう音だったのだろうと想像する。