筋目書き(十六)


R0013318

下呂 gero (17), 2009



而今の山水は、古仏の道現成なり。


<道元>


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筋目書き(十六)


気が集結すれば作用点から自ずと生じて動きが生まれる、そのように身体が楽器に作用すれば音は磨かれる。音が腕の重みの作用に対する反作用であるなら、聴くことは音の作用に委ねた身体の反作用、同時に両者は両者の作用であり反作用でもある。弓を梃として弦にこすれる手はこの交点にあり、この場所を信ずるところに道が生ずる。道は時空を隔てて細くつながり、音に道が示され道に音が導かれながら弓が弦をうごく。道に残された痕跡が音、その痕跡もやがて気の流れのうちに消え去る。物質は偶発的な確率的痕跡ではなく、あらわれては消える気のすがたかたち。物質でありまた波である光も気のように姿を消す。山は石を生み、水は岩を転がす。音は古代より水に磨かれてきた小石の息。手は音を吐く。

                          



● 正法眼蔵の「山水経」から。「現在わたしたちの眼前にある自然(山水)は、祖師たちの教えがそのまま現実に現れている姿である。」道元は続ける。「自然は いずれもが宇宙の秩序なかでそれぞれの位置を占め、わたしたちに恵みをほどこす究極の様相を現している。それは永遠の過去から発せられた通信でもあるから こそ、自然は現に活きいきとして眼前に展開しているのであろう。言いかえれば、転地創世以前からの自己であればこそ、自然は透徹した、解脱した姿をみせて くれているのではないか。山々の様相が高く広大であるから、わたしたちも雲に乗るほどの清い自発心を山々と交感する過程に培うことができる。順風のように 自在な情動もまた必ず山があるからこそ生まれ、山々があるところに磨かれてゆく。(松本章男氏の意訳)」。


● 松本章男氏の「道元の和歌」を読み返しこの箇所に心ひかれながらも、首相によって決定された原発の再稼働について考えていた。この国の自然と伝統ということを思い、石田秀実氏の「気のコスモロジー」を思い出すようにかじった。気は力ではないと納得しながら楽器を弾いた。「道元の和歌」によれば、道元の時代、源平合戦の爪痕が癒えず、伝来の価値観などはかえりみられない自然破壊が進行し、人心も荒廃を極めた。「源義経などという横着者は三草合戦が適例だが、山一つを丸ごと焼くにとどまらず村落にまで手をかけたのだからむごい」とある。鎌倉幕府の開発と経済優先の国づくりをはじめている一方で、自然は荒廃していた。 道元の育父は源通具とされるが、当時の危機的状況を打破しようと文化的再生をめざした国家事業、「新古今和歌集」の撰者の筆頭者が通具である。歌においては古い言葉が慕われ、技法としては「本歌取り」が尊重された。「数寄」も当時においては、抗時代的な感性であったという。今において、抗時代的な感性や技法とは一体何なのだろう。


● 伝統は人々に養われ、政治にも左右されながら時々刻々その形と意義を変えつつも、時代を貫くものであるだろうが、知識でわかるものではないし分析は伝統自身にはまるで追いつかない。伝統を俯瞰し何かを選んできて、自らにさしたる動機も見いだそうとしないまま自己主張におきかえたり、伝統的な概念をもちだして現状批判をするのではなく、伝統から自らが呼び起こされるような経験を通じた身体に目覚めながら、その必然として学習していくことが伝統を知ることにつながるであろう。ときに伝統に自らが見いだされると、何かに取り憑かれ、その深みに身体が揺らぎだしてその驚嘆のなかに足がすくむような経験をする。そのとき感ず るのは、伝統には自然が培われていて、自然が伝統を培っているという実感である。伝統に身をさらすことは、伝統的時空の作用に対峙した身体的な反作用を自らの身体に感じ、自らにさらにそれを引き受けることだろうか。身体は伝統と自然の作用点であり、同時に自らを超えた作用に対する反作用としてこの身体は動きだす。それは伝統の否定や破壊ではないだろうし、ナショナリズムや政治的歴史の範疇にあるのでもない。伝統は人間に通じている気の流れのあらわれの一つで、生活の営みの持続によって非常に密度高く満たされた見えない気の連なりで、気が離散すればふとどこかに集結してあらわれる、伝統はそういう身体をなしているのではないか。さらに気の背景には固定的な自然観ではない自然そのものがある。伝統は教えられるものではなく、身体に聴いていかなければ見いだせないだろう。


● 「回光返照の退歩を学ぶべし。自然に心身脱落して、本来の面目現前せん (道元)。」政治が何らかの意図をもっているとしても、それにしても自然の気配に鈍感でありすぎる。大震災と原発事故が生じたあとでさえ、いやそうだからいっそう、いかなるときも自然の気配を感じながら思慮し続けなければならないだろう。山は以前の山と等しくとらえられない。山への精神性さえ自ら汚し切ったのだから回復はあまりにも遠い。福島の自然豊かな里山では、事故前の自然の純度が高ければ高いほど、放射線の影響が自然の生きた動きを反映して思いがけない形で生じているという。非常に皮肉なことだが、循環のなかで物質は痕跡をのこしながらどこかに消え去り、また時空を隔てて不意に現れる。このことは見えない世界を身体が経験することによって得られる教え、音に仮託された自然でもあった。自然は自然であり、人間と物質を受け入れながらいまも寡黙に遷移している。古くは山から木を切り出すのに山に伺いを立て、切り出しに感謝して丁寧に手入れしたという。自然そのものを畏れ、これをあるがままに身体に感じて捉える感覚を忘れ去って、自然を対象化し切断することによって分類分析し、物質的性質と特徴を追いかけて再構築された理論を自然にあてはめ、物質の現象や循環をモデル化してシュミレートする手法には限界がある。機械的シュミレーションは現実の大胆さと微細さにとてもおいつかない。自然を汚した今、人間にとってのこの自然環境を改善するための実証的かつ身体的手法をさらにみがくと同時に、自然のあり方をふたたび虚心坦懐に見つめ直し、そこから謙虚に学んでいくさらなる契機としなくてはならない。それは細く繋がっている伝統に連なりうる初歩でもあるかもしれない。