筋目書き(十)

R0013387
ここを離脱した場にいた、だがいま、たしかに時のなかにいた。そうやって音楽はただただあらわれては消えていく。だがその時間は歪んだ空間のあらわれであり、鬼や死者の出現しうる場といえるかもしれない。時間が滅したとき鬼は去るが、鬼を出現させようと目論めば鬼はでてこない。音楽は何のためにあるかと問うよりも、それ自身が何者であるかという答えのない問いの断続的な動きそのものである故に、音楽自身がいまここに生きていられる。人間と似てその儚さゆえに、いまここに多様にあらわれる存在である音楽は鬼をまねく。この音楽の時間は、水平的で歴史的な連続性のうちにあるのではなく、あらわれては消え去る垂直の重なりのなかで断続的、断片的に生じる。ここに音楽の写真的断面をみる。ふと聴けば死者がやってくる。眼に飛び込む遺影は死者をよみがえらせる。言葉を断ち切れば祈りのなかにいる。写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(九)

R0013454
音楽が時の動きのうちがわに本当にあってすすむと、演奏の前と後では必然的に状態が異なっている。夢のようにあらわれた演奏後の静寂は、行われた演奏を過去に向かって観想する静止した空間ともとらえられるかもしれない。動く音の静止した余白に再び時間を照らすための空間、鏡としての空間が静寂のなかにあらわれる。鏡は演奏を鋳型としこれを鋳ることによって演奏が像として残る。この静止した像に跳ね返るように音の身体的経験が再び現実にかえされてくる。そして音楽において演奏 という行為がなければ鏡があらわれようとしない、そうであるなら、演奏するという動的な問いは、いかに静的な鏡の出現をもたらしうるかという問いに向かっているともいえるだろう。余韻にあらわれる余白、たちあらわれた静の鏡としての空間がそのまま動の像としての時間を切り結ぶことによって、演奏とは別の、その余白に過去の忘れていた何かがたちあらわれるように未来が切り開かれる。世界をファインダーでのぞいて撮られたフィルムを透かしみて、さらに静止したプリント写真をみる重層経験と似ている。瞬間が空間を要請し、空間の密度がこの圧縮された時間を際立たせ、さらに次なる時間の発火点として働く。歩きながら出会い偶然をつかみとる瞬間、シャッターを押す意思のプロセスが未来をたぐりよせる。時を経て過去へたなびく視覚の煙が未来を切り開く。写真と本文へ… to photo and read more…