京都

筋目書き(三十八)雨月5 白峯の影

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身体の影で身体を支えている白峯。熊野の沈黙と風の告示は、写真と音楽の脇道に映され響きだすものに、それらの古道の光と音が見え隠れする白峯の影としてある。いまここで、その白峯の影を通過しながら旅をしている。何かの影を通過しているとき、そのとき通過しているというそのことと、まわりの光と音が目覚めのなかに開かれて感じられて、変化していくだけだ。ベンヤミンならパサージュであり、追想と目覚めの弁証法だろう。「夢の迅速さと強度[内的集中性]をもって心のなかで、在ったものを初めから終わりまで味わいつくす[くぐり抜ける]こと、その目的は、そのようにして現在を覚醒している世界として経験することであって、結局のところあらゆる夢は覚醒している世界に関わるのだ(W・ベンヤミン)」。雨月にひっかかり、ここにみちびかれて、「白峯」という行為にみえてきたのは、おおよそこのことだろう。これを方法とはいえないが、ある動きの方向をなしている。…写真と本文へ… to photo and read more…

筋目書き(二十五)

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写真は静止した細部を見ることを可能にする。忘却を忘れること。観察でなく見ざるを得ない物体としての細部。言葉が捨て去られていく罪の意識のなかに言葉を発見していくという背理において、外部の存在との偶然の接触が生きるための必然的契機となりうる。猫の死体の横たわる車道の狂気は、病に伏せる人間の肢体を慰め続けてきた飼い猫の眼のなかに透き通る遥か彼方に生きる光を映し出す。私は目覚める。呼吸を機械に支えられた筋肉の動かない病に生きる細い肉体の傍で叫ぶこともなくただただその眼で何かを深奥から語る沈黙の音が、この鼓膜をふるわせこの身体を屹立させるのだ。殺すな、お前がこの人を生かし続けよ。人間が動物を飼いならしてきたという人間の人間による人間のための論理。気配を察知するのは忘却されその記憶すらなくなったかにみえる存在を感受する原始感覚の目覚め。その境界に投じられた引き裂かれた猫の血みどろの死体。外部の一撃によって目の眩んだ瞬間に生じる自我の起源は、都合のよい記憶の箱にはなく人間が忘却を免れえない罪の意識のうちにあるのかもしれない。写真と本文へ… to photo and read more…