筋目書き(四十六)雨月13 菊花の詩(四)

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犬山 inuyama, 2013






筋目書き(四十六) 雨月13 
菊花の詩 (四)






          くさびらない邪熱の土

          ミモザの枝はのびる
        






●昨日新聞をながめると、福島原発の吉田所長が食道癌で亡くなられたと記されてあって、色々とあの日が複雑におもいおこされてきた。「菊花の約」文中の「邪熱」ということばを借りた。「疾病による高熱」という意味だという。「くさびらない」は一つの狂言にある「くさびら(=茸)」から派生させた。「くさびら」はどこまでも生えてくる茸をもじった話で、話の内容をこえた笑いがあり、無常の哀しみにも満ちているように感じる。「ミモザ」は家の前にほんの三十センチくらいの丈で数年前に家を構えたときにうえたものが、ここのところ急速に枝が伸びてきていて十倍くらいになり、どこまで大きくなるのだろうと想像すると心配になるほどだ。

●今日はけっこうたくさん書いてから、不要な部分をけずっていったらこうなった。今日すすめるには知力が尽きて区切りを付けたが、その分思っていたことも多いので書き留めておく。この筋目書きをやり始めたころからそういう気がしているが、少し言葉の足りない言外の空白のなかに思いが込められてくる。いまは言葉の修飾は不要に思え、この「菊花の詩」では、これからその部分をいかに説明しないかという練習になってくる気もする。そのために単語一語の重要度が増すようなので、なかなか言葉が決まらない。それでも、やはり説明しようとしても、つたないから消去するということでもなく、どうしても書かせてくれない場所というのがある気がする。それをどのように立ち上がらせるかは、言葉の数や質感でかなりちがってきそうだ。音楽をきいたあとの余白とこの空白は似ていて、たとえ短いものであっても、もしも本当に納得いく詩を書ければ一曲かけるという感じもしてくる。しかしこの場合、余白という点で見ると、納得できる良いものを書こうとするための方法論や筋道ではなく、その筋道では完結しないであろう部分のなかにある、なにか別様な筋道のほうが重要にみえてくる。かといってよい加減、ころあいよく、ということでもないし、ついて出た言葉をそのままということでもいまはない。空白にいま呼ばれようとしているものが、言葉を呼び、さらにその言葉を限定しながら書き付けられてくるようだ。一方で、つかもうと思っている意思が何かを招くことも事実で、こうしてみると詩を書くことは写真を撮る経験とも似ている。逆に言えばこれは自分が写真を撮っているからか。考えを深めながら文を削り取るほど、秋成の文章のあまりの切れと見事さが骨髄に肉迫するように染み渡ってくる。嗚呼、そういうものだったのだと。いかに推敲しつくされているかが感じ取れる。その感動の余波で芭蕉の素晴らしさにも思いを馳せるし、良寛に自分をみている自分にも気づく。良寛の人生の折り返し地点のように、無意識にも他にこびることのない身体をみがき、この中途半端さを潔く受け入れることから、ということかもしれない。

●灼熱の暑さにたまらなくなってかけたフェデリコ・モンポウの自作自演のピアノ演奏には全く聴き入ってしまう。25年前のこわれていたラックスマンのアンプをなおしてもらい、オーディオのケーブルを見直し、安いケーブルだがニュートラルないい音になった。疲れないし臨場感もある。嗚呼、音楽とはやはりいいものだ。聴いてよかった。モンポウの曲の中にも、饒舌なもののなかにふと挿入されるものすごく短いものがあってはっとさせられる。そのことも今回たぶん影響しているだろう。