夢枯記009 Szilárd Mezei | Mint amikor tavasz (When Spring)

viola solo, contrabass solocdnot two records2005
http://www.szilardmezei.net/



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日本の春分の日に思いかけず、突如やってきた、音の春一番。

コントラバスよりもヴィオラのソロが本当に素晴らしい。教会のなかのめまぐるしい音の変化とその豪快でどこか清潔な響き、とくにヴィオラは、眠気を誘うほど気持ちよいのだが、もちろん退屈したのではない。音がかけって過ぎ去っていく、そういう時間はゆっくりとすぎるのだ。音楽という放たれた矢を外から見る暇はない、しかもその矢に僕自身がのっかることができれば、矢は無限の時間のなかにあって、しかも矢はどこに刺さって終わるかわからない、そのようにスリリングでもある。それでいて散る桜の美しさではなく、初咲きの花がもっとも美しい梅の花。その充実した花の咲き出す過程、小さくもエネルギーに満ちた過程が僕には聴こえてくるようだった。そう、生命がなにか他の状態へと変化する、そのあいだにある音楽といえるだろうか。ジャケットの絵もいろいろ見方ができるだろうと感じるが、この音楽を聴けば不思議な生命体のようにみえてくる。現代彫刻のようだ、あるいは民族的フリーミュージックだとか、いろいろな解釈もできるだろうけれど、僕にはそうきこえた。静かな音楽ではなく、むしろやかましいくらいだけれど、ヴォリュームを自然と上げたくなる。つまり質の高い音楽なのだ。

Mezeiさんはおそらくヴィオラが得意なのだとおもう。楽器への身体的適応がよい方向に働いている。楽器を弾く興奮と喜びが伝わる。コントラバスにヴィオラの演奏感覚はそのまま通用しないようにも思えたが、ヴィオラソロからコントラバスソロに切り替わる曲があって(Road of Fool/Road of Fool Blue)、その対比がとてもおもしろかったし、曲の題名に簡単なスケッチが使われているものも多くあった。最後のベースソロのあと、アンソニー・ブラクストンを連想させる匂いがしている。密度ある音の隙間に、よくきくと鳥の声がする。家の外にもう鶯が来たのか。いや、そうではないが、鳥の声が確かに響いている、それがあたかも外の実世界からの声のように響く。裏ジャケットに「Vamosszabadi Mindszentek Church」という語があるから、たぶん教会での録音だろうか。そういう空間のなかでヴィオラとコントラバスを弾いていることへの羨ましさまで僕のなかに生じてきて、教会で一度楽器を弾いてみたいという僕の内側の身体の欲求までもが、ゆっくりともたげてくる。この鳥の音も、もし楽器でやっているとしたらMezeiさんとは一体何者だろうか、いや、あの鳥の声はこちらの幻聴なのか、などということまで想像した。けれど教会は、たぶんそれを生み出した西洋楽器を最も響かせるし、鳥の声をも響かせるということは十分に想像できた。

夢の枯れ切らない過程にまだいる。僕はこの方法とは真逆をとりたいと思うけれど、入ってきた音の感覚が身体という胴をいわば介さずにそのまま知覚へと変化していく速いスピード感覚が、ある種の快感と恍惚へと僕をみちびく、その光の強さは稀有なものだ。ヴィオラの音の暗さと、独特で土着的にも聴こえるリズム感覚が、その恍惚をなだめて、あるいはさらに助長させながら、音楽がほとばしる。ホームページをみてみるとMezeiさんはセルヴィア生まれとあったが、音が、音楽自体や詩や、社会、政治などの何か他のものを表現するための手段であるようには、僕には全く聴こえない。音のすばやさそのものが、音楽をこえたところにある何かを、いわば強引に次々と「いまここに引きづりおろす」ようだったから、とても言葉にはあらわせないような、音楽というものにしかあらわせない何かを、僕はいまもこの余韻のなかでずっと追いかけているだけなのだ。それはたぶん言葉にできない。たとえつきつめてみて、近い言葉をあてはめてみても、その言葉との感覚の「ずれ」が、このアルバムの場合許されないように感じる、ということだけは書いてもいいだろう。

しかしそれでも考えてしまう。この音楽の強さ、わき上がるもの、春、「Spring」はどこからくるのだろうか、演奏者の内部に湧きだしてきている何者か。それはこのアルバムでは演奏者自身とはいえない。その何者かを、言葉の意味において分析するにはあまりにも演奏者と僕は、距離的にも身体的にも遠い、そういう遠さが非常にうれしくもあり、どこかもどかしくもある。知りたくもあり、知りたくなくもある。僕自身についてをも見つめさせるような何者かが、この音楽のなかにはっきりといる。

耳のなかに音の受容体があるとしたら、音という信号を受け取った受容体は次々と未知の物質をつくり出している、そういう未発見の物質、だがその物質はたしかに存在する、そういう未知を音という物質が含有している、そんな感覚さえある。生きていること自体がすでに避けられない科学文明のなかにいて、なおかつ土着的な匂いとどこか遠い記憶が十分にかもしだされてくる音楽。だからここ日本でも十分に説得力がある、そういう考えもできるのかもしれない。僕の家では季節によって掛け軸をかけなおすけれど、このアルバムは掛け軸をかけなおそう、そういう気分にさせてくれる「Spring」、何かが動き出す芽をもっている。ニーチェが「神は死んだ」といってから久しいけれど、教会の出番を待つまでもなく、神は音のなかにいるのだ。遺伝子が解析され、ゲノムの発達した現代科学文明も遠い未来において、巨大な時間のなかにうずもれて神話となるかもしれない。

音楽にしかあらわすことのできない何か、音楽という矢に乗っているこの身体が向かう未知なる先端部へのプロセスをこのアルバムはしゃべり、語っている。音が途切れた時、そこに映し出される何かは、その矢の先にあるみえないもの、きこえないものだ。このアルバムの場合、それは過去や現在よりも、やはり未来のなかにそれはある。音楽の一つの大きな醍醐味は、それが音や音楽であるということをこえて、けれどもそれが音や音楽でなかったら到達できない、そんなみえない場所、きこえない場所に、奏者と聴き手が同時に到達していくことにあるだろう。このアルバムはそれを満たしてくれるから、この夢の枯れたあとも、僕の愛聴するアルバムの一つになると思う。