夢枯記035 Mike Majkowski | Ink on Paper

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Yumegareki 035
What impressed me most was the forth one, “ink on paper,” the title music. The sound image of ink dropping down on a paper came rushing toward me one after another. I assume the many spots of blurry light green color on the jacket represent the ink. The act of music is a creative value manifested the image of ink’s motion in sound as Mr. Mike demonstrates in his work. It is also a way of expressing our world view. But I am more interested in how inaction can be incorporated into the action.

Variance and repetition of the endless tone of the falling inks sound like an everlasting movement possessed by each tiny piece of sound. They lead to the burgeon sensation that nests and noises in the universe really exist in every part of the world. The endless action is supported by the inaction that runs through the universe. Also, the action might create inaction.
Finally, when the sound suddenly stopped, I felt my sense overlapped with Mr. Mike’s. It was an interesting experience for me. There may be countless ways of cutting music into pieces, but my body felt an encounter at the final point where Mr. Mike’s action and inaction coincided. The moment when the sound stopped in “ink on paper,” I might have felt inaction of the sound itself.

Zeami is the founder of Noh, the oldest Japanese theatrical arts. In his book, Zeami talked about three key components of performance, “hi-niku-kotsu (skin-meat-bone),” where “hi” stands for the performance appreciated by the eyes of the audience, “niku” stands for the process of performance, and “kotsu” stands for the deep layer of the heart where the process is created. He said that the fusion of them is the ideal form of performance. I wonder if inaction comes about only when the performers have gone through ascetic practices for years and finally reached the point exceeding the action. Zeami further pursued a concept of “hie.” “hie” is the ultimate form of “en (refined beauty).” Zeami explored a possibility to bring Noh to the level of “hie” by transforming “shin (mind)” to “tai (body).” It seems that the concept of “hie” is the extreme form of inaction.

Likewise, music performs by itself in the process of inaction in a hidden place deep inside, in addition to the one expressed in action. I wonder if music is an experience of observing and listening to the sound of a burgeoning life which simultaneously possesses the natural oldness at the very moment of its birth. The action of inaction may be a seeping movement of action in a form of inaction, just like a drop of ink, seeping into the paper and expanding the scope and blurring the tiny area, not just a piece of music expressing the variance and repetition of the drops of ink.


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最近はつまるところは身体疲労のせいか、何を聴いても僕自身の課題をそのどこかに見いださずにはいられないようで困ったものである。前回(034)から無音という出来事を音にどのように所作したらよいかと、次第に思いはじめてきて結局たどりつくのは、作為とは何か、無為であるとはどういうことか、ということである。昨年夏に郡上八幡でみた能の様々な所作のことが記憶から蘇生してイメージされてきた。

ふと思い出したのは、以前、能狂言、謡曲の研究家である小山弘志さんを全く偶然だったのであるが、何度か診察させていただいたことがある。どういう方か全く存じ上げていなかったのだが、話のなかで小山さんは「ピンク色の塗り薬」とおっしゃらずに、「ももいろをした膏薬」と表現されていた。単にご高齢の方だからというわけでもなく普段は聞き慣れない響きで、そのときの言葉の発音が、からだのどこかに住み着くように気になって記憶に残っていた。言葉にどこか色艶があったのだと思う。数年前、新聞で他界されたという記事がこの目にとびこんできたとき、あの小山さんのあのときの声が記憶からよみがえってくるようだった。そして郡上八幡の薪能と夏の蝉の記憶をしばらく心に辿った。十日ほどまえから異次元の世界へ一気に突入して、今もなお迷い込んでいるかのようだ。

そして数日前、部屋から見える小学校の桜をチラ見しながら観世寿夫さんの「砧」を聴いた。今回は最後までよく聴くことができたし本当に鳥肌ものであった。読むための強い動機がやっとできたようだったので、興味本位でなく、世阿弥(/観阿弥)の書いたものを久しぶりに読んでみようと思った。少しだけだが、読んでみると室町時代の世阿弥の人生がそのまま書いてあると感じた。夢枯記に字面が似ているからということで、後期の短いもの『夢跡一紙』をはじめに読んだ。先立たれた長男への追悼文であった。涙がこみ上げてきて、この身体にあつい血が通った。うすももいろをしたソメイヨシノも咲きに咲いた。雨で花びらが落ちかけだが、咲き誇る桜の下、この土日二日間は肌寒くも犬山祭で、あたりは生きた活気に満ちあふれていた。

さてこんな心身の状況でそろそろ何かと無造作に選んで聴いた今回のアルバム、Mikeさんのソロアルバム第一作目のようだ。総じて印象深く記憶に残るのはやはり4曲目のタイトルの曲「ink on paper」で、この曲のみ多重録音が用いられているようだ。ポトポトと紙にたれ落ちるインクの動きの音のイメージが次から次へと押し寄せてくる。このアルバムを選ぶ前に表の隙間から少し見えた内ジャケットには、かわいらしい小さい蟻のイラストが沢山散らばって書かれていて、こぼれたインクの動きを象徴しているように見受けられる。はじめのうちは、桜が一気に咲いてくるような僕自身の身体の流れもあってか、音楽もはずんでいて元気がわいてくる気がした。音の同じ構造パターンの差異と反復によって場が、この心も次第にうごきだし変化していくかにみえた。

スティーヴ・ライヒの音楽を大学生のとき真剣に聴いていたことがあったが、このアルバムもミニマル・ミュージックといえばいいのだろうか。とりあえず連想するのは、砂場に打ち寄せる波が色々な形を残しては満ちて戻っていく足下の水の動きの持続する経験なのだが、この音楽の場合、そういう水の流れや水の砂に残っていく、あの浜辺での思わず見とれてしまうような時間の感触とも違うようだ。「ink on paper」は作為だが、微妙な間や音の差異と反復する動きがそれを忘れさせるだけかもしれない。

やがて紙の上に次々とぽたぽたとおちるインクの動きを描く音が、イメージを惹起する音楽の音の素材であるという点が強調されて聴こえだしてきた。これはこれでのめり込んで楽しく聴けるすべがあるのかもしれないけれど、一つの音楽というよりも、素材としての音のパターンとしての音型の差異と反復、それ以上でもそれ以下でもないのではないか、そのようにどこか割り切った心でこの音楽を僕はだんだんととらえはじめていた。それでも、音楽は素材としての音のかもしだす気迫には満ちていて、ずっと聴いていると音や間のずれは多様であるものの、ほぼ同一の盛んな繰り返しは高揚感が生じてくる反面、こちらに隙間を与えることを拒否しているようにあるためか、聴き手はある種の感覚的麻痺状態に陥ってゆく。

表面的には麻痺されたような感覚のうちに「ink on paper」は突如終わるが、こういう終わり方は一方で途中から十分予想できるものだったから、いつ終わりがくるのかという冷めた感じは、あらかじめあった。それでも、たぶん無数の終わり方、音楽の切り方があって、そのなかでここしかないというMikeさんの作為と無為が一致するような点がここだったのだと思うと、正直そんなに期待もしていないのに、Mikeさんの感覚と自分の感覚が終わる瞬間に突如として重なるから面白い。このような音楽はきっとどこで切っても十分な時間が経っていればほぼ同じで、一瞬はどこかピタリとした感覚がでてくるのだろうか。無限の差異と反復という命題は、そのどの一部を切りとっても無限の動きを宿している。無限の作為が宇宙を貫く無為というものに支えられているし、作為が無為を生じさせてもいる。繰り返される差異と反復の運動は、宇宙のなかの入れ篭とゆらぎが宇宙のあらゆる領域にあるという感覚の芽生えにもつながりうる。インクの運動を音に重ねうつし取ってあらわす行為は、そうした世界の解釈の象徴であるようにも思われてくる。

比較してもう一つ興味深かったのは、こうして終わった「ink on paper」のあとでかかる最後の曲「current」だった。これは一定の無音の間をとった短い弓引きを繰り返すような音楽で、「ink on paper」と音楽の構造パターンはそれほどかわらないのに、印象が異なって聴こえた。否応なく音によって高められた精神の高揚、精神の麻痺をしずめるかのようにこの曲はあって、「ink on paper」で感じた作為的煽動のようなあり方は減じられている。硬直しつつあった感覚がいくらかすくわれた気持ちになった。

僕もこの「current」に似た形になるような音楽を時々だが弾いてみている。けれど、楽譜にかわる見本といえばたとえば、良寛の何ということもない手紙の字の動きや力感を想像しながらこれを音になぞるというもので、Mikeさんとは内容がたぶん違う。良寛の字には間もあるし、強さや太さや筆の打点の高低や柔剛を勝手に想像しながらひく。僕の場合は、良寛という人間を自分なりに想像し汲んでみた上で、自分自身の思考回路をなるべく断ち切って、良寛の文字の気と気のあいだを音に移し替えるような作業を時折試しているのだが、Mikeさんの音楽は音楽内部の、あるいは音楽に対する思考回路のなかで次の弓をひく行為までの距離と、その手のあり方をさぐっているように聴こえる。

目の前の現実や他の誰かから何かを学ぶように音を紡いでいくのと、音楽という装置のなかで思考を練りだしその思考で新たな音楽のステージを創造していくのとでは、やはり音楽への態度は異なっているだろう。たとえば海水の水際の動きや良寛の筆に人生をみてそれを音にのせて辿るように紡ぐのと、その自然の動きのあらわれそのものを写し取るのと、その動きを一度構造化したものを音に映して変化させるのとでは、おなじような反復の現れとなるにしても、そのプロセスによって音楽の印象は違ってくる。作為ということの程度やあり方が違うし、それをみたり演じている主体が誰かということは、どちらにせよどうやっても切り離せない。無機質な写真ですらそうなのだから、当然だけれどその都度その場、音楽の聴こえは変わる。

誰かが誰かをみていて誰かが誰かの音を聴いている。私は何者かという問いは私の生きているなかから生まれ、他者へとつながって、その他者がまたどこかで私をみている。この自己と非自己の運動は免疫システムのようにたえず蘇生しなおしながら揺れている。音楽を身体にたとえるなら、音は各々の臓器や器官のような構成要素ではなく、むしろあらゆる自他の関係性を問う免疫システムにちかいと今日は言ってみたい。無数の条件とプロセスを通じてでてきた音には、人間の自己と非自己、その関係性のすべてがあらわれて、音は免疫の場で音楽という膜をつくって、あたかも人がその膜上に内から外からのっかっていくかのようだ。

音楽に自他の人がのっかるのであれば、やはりそのあり方に不要な作為がなければないほど、言い換えれば自己/非自己を通過した人間そのものがそのまま滲み出てくるような何かがあればあるほど、人間が人間性を突き抜けて楽器が楽器として鳴っていればいるほど、その音楽の膜は広く深い色をしていると考えたい。いったい「作為がない」ということはどういうことだろう、今はそんなところへ常に考えが戻っていく。人間がその人間性を突き抜けるというのは、「作為が作為をこえること」と言い換えられるかもしれない。それは「無為という作為」なのではなく、作為がないところまで人生をかけて作為を重ねること、さらには作為がないというその究極の状態を人間としていかに保ち、生きて伝えていくかということでもあるのだろうか。

作為をもって無為となすそのプロセスは、「道」でもあるのだろうか。老子は「無為の為」ということを説いているし、荘子も無為自然についてあらゆる比喩を用いる。禅も相反するような際どい命題を掲げて、言葉の矛盾を問いの空間に放ちながら時空に突きつける。問いによって開かれた空間は作為的でもあると同時に、無為を呼ぶ行為でもある。世阿弥も苦しかった中後期では、禅に影響を受けたらしい。鈴木大拙氏は、存在は追いすぎてはいけないと確か何かの講演録で言っていたと記憶する。言葉で言わなくてはならないことを言うことも大事な所作で、その一部には、礼儀としての所作や社会倫理的な所作も当然のごとく含まれるだろう。

少しでも禅をみればわかるように、何が作為にあたるかということは、きっと言葉ではっきり定義することができず非常にむずかしい。無為ならばよいというわけでもなさそうだし、そして作為の良さというものもあるようでもあるし、ひっくるめて無為ということもある。だが、少なくとも不要な、あるいは悪しき作為というものはどの世界の掟においてもやはりあるような気がしてくる。作為がそのまま嘘とは限らないし、作為こそが無為の場合もあるだろうが、人をだます嘘や捏造は、悪しき作為を身体のどこかに含んでいなければ成り立たないだろう。それを面白おかしく取沙汰する有り様もあるが、一線を超えれば倫理、規範や掟に当然、抵触する。

世阿弥の文章にはたぶん、本当によく感じ考えれば自分がそうは思ってはいないであろうものを、そう思っているかのように錯覚したりうまく自分を欺いて断定的に語り行為してしまうこと、いわば「言葉がすべる」という事態があまり見受けられないように感じる。自他の文章を読むとおもわず自分が苦しくなってきてしまうのはこの点なのだが、世阿弥の文章は書くためのよい手本にもなるかもしれない。かといって絶対的なものとしても書かれていないような気もする。思索と経験の過程から滲み出た言葉を遠くからながめて伝書としてまとめたという感じだろうか。世阿弥によって残された著作は世阿弥の人生そのものでもあるが、作為/無為のような切り口を一つとってみても、このような問いに延々と身を以て答えてくれる気がするから、秘儀めいたものではあっても、著作を残してくれたというのは本当にありがたいことである。学ばなくてはいけないことは、まさに山積みだ。

たとえば多々あるなかの世阿弥における一つの主題として、小西甚一氏の『世阿弥能楽論集』の解説によれば、世阿弥は「皮(観客の目に映る演技)/肉(演じあらわすプロセス)/骨(プロセスの生まれる心の深層)」ということを説いていて(『至花道』)、芸においては「皮/肉/骨」が相互に浸透しあっていなければならない。皮の芸とは皮を主とした芸、骨の芸とは骨を主とした芸であるべきで、単純な「皮」だけの芸はくだらないし、骨に至った芸ならば皮を疎外することはないという。「序/破/急」というのもあってものごとを捉えるのに、三つという数はどこかよいような気がしてくる。

禅では自分で問いに答えなければまるで意味がないというし、作為と無為ということに関して、小さな経験の範囲で僕の言葉で三つに絞ってみてみようか。無為のため、作為が作為をこえるために必要なのは、第一に身体が突き動かされるような情熱とその持続、これは自発的動機や行為の持続的契機を伴う<パッション>。第二に自他の状況を冷静に観察できるような明晰さで、これは当の行為自身を別なところから俯瞰するように見つめる自己内部のいわば<鳥の眼>。通常の論理性のみではなく感覚的論理性も含む。第三にはそれが何であれ自分が没入し行為している当の世界が一体どのようなものであるかへの思索探求の精神から生じる、世界への畏れや予兆にも連結するいわば<畏れる耳>。

僕自身にとって、それぞれ医療、写真、音楽の世阿弥の言う「骨」としての実感でもあると思う。それら三つはどれも密接に関連し合い浸透し合っているけれど、僕自身が悪しき作為というものをこえるためには少なくともどれもが不可欠である。なかなか難しいことだ。世阿弥は少なくとも、一人の人間としてのパッションに満ち、鳥の眼をしていて、畏れる耳を備えている。ついでに空海などをみると、第四にはもしかすると<心の慈悲>ということかもしれないと思ったりする。「無為」と「空」とも同じようでいて違うが、どちらがどちらの条件にもなりうるものかもしれない。

Mikeさんのこのアルバムはどうだったのだろうとふりかえると、同じような構造でも、「ink on paper」の表面には<鳥の眼>が前面に出ていて、そこから<パッション>と<畏れる耳>を聴き手に遠くに感じさせてくるような気がする。でもその感覚は作り手の意識や身体によるものなのか、聴き手の僕によるものかは判然とわからない、そんな距離にこの音楽はあるように僕にはきこえた。最後の「current」のほうは、<パッション>が音に、<鳥の眼>がその音の間に主にあらわれていて、<畏れる耳>はやや遠い感触を受けたが、前者よりは無為に近い作為という印象をもった。

無為にいかに場が近づくことができるかという切り口をもって、弾き手と聴き手の両者、お互いの自己と非自己が、不要で自他の身体を傷つけるような免疫反応を起こすことなく近づくことの可能な接点を、お互いが見いだしていくというのも悪くない考え方かもしれない。しかし、この点は医者と患者の関係を未来へと維持するための接点にも似ているが、現実にやろうとすると異様なほどの体力がいる。経験上は、実は、そのような形でいやになるくらい仕事をした疲れきった身体のうちにこそ、作為をこえた無為の可能性が開くのだと感ずるところもある。僕の場合、僕自身の音楽や写真への身体的突破口はそういうところからしか、現状、開かない。他をやろうとすると悪しき作為が手を伸ばし、かえって音が悪くなるのは明らかなようで、悪い意味での注意散漫に陥るようだ。各々に集中しようと無理するよりも、あらかじめすべてのことに開いていることの方が大事であるようだ。そしてこの無為は人間の発展に応じて作為が無為化されてくるというような、ものごとの「成長軸」とも異なる軸にある。

僕自身のはじめの問いに戻ってみたい。無音をのせた音を出すという所作がどうあるか、無為とは究極的にどんな状態かについては、『花鏡』で述べられている「冷えたる曲」という教えにひきつけられる。これも小西氏の解説を読んでのことだが、「直接には艶(えん)として感覚できないほど深められた艶」が「冷え」ということで、「心(しん)」を体(たい)とする冷えた能への深化を世阿弥は試みたという。

思い込みかもしれないが、いつかある温泉でこの眼をひきつけて止まなかった、ある老人の動いているか動いているかわからないような、あの時間の止まったような動きが「冷え」に近いのだろうか。それは相当すぐれた鑑賞者にも容易にはわからないような芸を超えた、まさに雲の上の芸であるようなのだが、そういうことが芸という行い以外の現実においても実際ありそうだ、あるいはもうこの日常で目の当たりにしているかもしれない、そう思うこともある。世阿弥は何かを自覚し思いつくためのヒントで、所作のヒントはやはり現実のなかに埋もれている。

いま、このような至芸である「冷え」ということを、僕はむしろ考える若き起点とすべきなのかもしれない。人間の時代はそこまできてしまっている感をいだく。作為/無作為というものを成長軸に単に還元せず、差異と反復による場の変化という軸からも、これをいったん離してみる必要があるようだ。「冷え」、生まれたときからありのままですでに同時に老いているような何ものかを、「花」の咲く芽吹き、命のなかに開いていくこと、観て聴き取っていくこと。これはむしろインクが紙にたれる差異と反復する運動を表現することなのではなく、たれたあとのインクの紙への滲み、しみ出し、広がり、あいまいなぼけ、ある作為を契機とした無為の出来事なのであり、「作為が無為としてしみでていくこと」だろうか。

ジャケットの薄緑のにじんだ斑、音楽という行為はその斑をもたらす作為的創造としての価値でもあり、世界をいかに捉えるかその表現方法の一つでもありうるが、音楽はさらに内奥の見えない場所、そのにじみ自体の内側の動き、無為のプロセスにおいて自らを奏でているのである。マイスター・エックハルトの「最も内なる花」でもあるだろうか。気づけばこれは、若冲の「筋目描き」という行為のプロセスそのものなのだ。僕はいま初心にかえった気がしたが、初心にかえるということも世阿弥が何度も説いていることのようだ。

あれこれ長々書いてきて僕はつまるところは、作為と無為という対立項を通じて「行為(あるいは所作)」ということの今あるべき姿について、あらためて考えてみたかったのかもしれない。行為ということのあるべき姿について思っていたのだとやっとわかると、能の所作が自然に思い起こされてきていたのが首肯ける。僕は今回、天才世阿弥の残したものを必要としたのだろうか。この脳みその大部分を占拠している能に僕のとても若い思いをよせながら、Mikeさんのこのアルバムは、僕自身が行為するということを考える契機を与えてくれたのだ。