夢枯記040 Paul Rogers | Being

contrabass solocdamor fati2007



paulroger

Yumegareki 040
Listening to the impromptu live performance titled “Being,” I was spontaneously thinking back on Chuang Tzu, an ancient Chinese philosopher, who pursued the concept of “naturalness and nonaction”. He viewed things with relative magnitudes. As seen in his famous “the dream of the butterfly,” we can imagine that he entered the world consisted of both reality and dream, or nature and natural. Listening to Paul’s improvised sounds from afar, I felt a difference from myself.

Pascal Quignard, a French writer and musician, said that any artist must agree to abandon his/her life and that there is no difference in your capabilities of performing, creating, exposing yourself and dying in public. His words make me wonder what “Being” really means in terms of playing music. It raises a question of what constitutes the act of performance, rather than how to perform. It also asks about our body which is closely related to life and death. According to Chuang Tzu, a wind reverberates in a myriad of caves, but the wind itself has no sound. The caves represent the performers and the body of the performers is a shield, blocking the wind of death and creating sounds.

Our bodies always send something to the world and engage in creative activities. If this is true, the awareness of being myself and the consciousness of my sound are detached from me when I close my eyes and try to listen. Then some unexpected association and miracle may happen through my body. The sound carrying the invisible miracle doesn’t exist in the sound I made. Nor does the sound have me inside. I wonder whether listening to the wind of nature, exposing myself to the big wave of inaudible sound, facing our own death and asking about it, can be the art of creation. Asking about “Being” may go beyond the boundary of improvisation, continue to create "being" and exist as the source of creation.


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残念なことに、いま腰痛があって、仕事に出かけてかえってくるのがやっとの体だ。身体を休息するための休みは貴重だと感じる。ときどき身体を動かす度に痛みが水を差すようにおとずれ、聴くのに最低限必要な身体感覚すらをも妨げてくる。いまは身体に不要な音をできるだけ聴きたくはないとどこかで感じているらしい。あるいはそれはまた、いま何かを聴こうとできる状況ではないということなのかもしれない。ただ救われるのは遠くから聞こえてくる近所の自然な音だ。無理をして聴くという行為がせっかくの音楽自身を死なせてしまうこともあるだろうが、こんな状況でも一枚のベースソロアルバムを聴こうとする自分がいるのもまた、いまの僕自身の自然なのだと、なんとか無理をして言ってみたい。

荘子の有名な『渾沌』の項にあるように、そこにある作品に外部から不要な穴をあければ、その作為によってあるがままの作品は死んでしまうだろう。「Being」(ジャケット自体には刻印はないが、透明なジャケットカバーのビニールに書いてある)と謳うライブ演奏録音に対し、肯定否定の言葉を尽くすことは、おそらく意味をなさないことだろう。荘子が思い起こされたのもこのタイトル名からで、荘子も言葉というものを疑っている。もとよりこの録音をひたすらきくことしかない。夢枯記は、はじめから演奏者や音楽の分析をしてその作品に余計な穴をあけないように配慮しつづけながら、それでも言葉を一気に綴っていくという矛盾をはらんだ出来事である。

岡本かの子は、流麗な文体をもって『荘子』を短い小説仕立てで描写し、荘子の核を射抜いている。ここにもあるように、学者であった荘周は、人生の最後には「Nature」と「natural」の渾然一体となった世界にその身体を踏み入れ、書物も書かず、本も読まず、ただ畑を耕し茶をすすっていただけだったのかもしれない。学者あるいは人間としての人生を捨てたといっても、通り一遍の隠遁主義や虚無主義では無論ない。人生は現実でさえなく人生は夢であるとする胡蝶の夢、いや夢と現実が一体となった「一」なる世界のなかに<Being:ある>ということへ、ついに荘周自身が、言葉の観念から放たれ、世界へと放り込まれたという事態が生じたのではないだろうか。

数人の異名をもつポルトガルの詩人、フェルナンド・ペソアも同じようなことを詩に託しているが、自分と他者の区別はもはやなく、生きている自分があるとともに死んでいる自分があるのだ。鳥も夢をみるという。それならば言葉の想像力でさえ人間にとって非常に原始的で、ボルヘスの言葉ように時間の止まった写真のような普遍的世界と、ゼーバルトの言葉のようにずれてどこまでも展開する音楽のような時間が交差する場も期待してもよいのかもしれない。恍惚に立ち止まる身体と、痛みの持続し緩和するプロセスが交差する場が、荘子にかかれているような大いなる相対性をもってすれば、そこにあらわれてきてもおかしくはない。

このアルバムの即興演奏ライブを聴きながら、一方では痛みと音の関係や荘子についての妄想を巡らせるという渾然一体となった不思議な事態が、今日は進行していたようだ。荘子のようにすぐれて相対的な、人間どうしの小さな差異のなかに閉じこもることのない視野に本当に立たなければ、僕自身、この録音は本当には聴くことができなかったのかもしれない。また逆に言えば、僕自身の体調面のみならず、それだけ自分の自然な感覚とこのライブ演奏は差異があったという側面もあった。

70分ほどのライブ即興ソロ。最初はチェロとのduoなのかと疑ったが、途中から気にならなくなった。いまネットで少しみてみると多分このライブのときも、弦が7弦あって高音も鳴るのだろう。おそらく比較的大きなホールだったのだろうか。はじめは細かい微妙なニュアンスが聞こえにくいアンプを介しての音の作られ方がこの耳にきつい感じがしたが、音量を上げて聴き込んでいくうちにPaulさんのベースの躍動感や身体性に次第にこの身体も引きずり込まれていく部分が出てきた。Paulさんを通じたあるがままの<Being>がベースに展開されているゆえのことだろうと思う。

フェスティバルというしつらえられたホール空間で演奏するという行為自体が自明な作為に基づいていて、しかもその録音されたものをアンプを通して聴いているという疑似のライブ感や、僕自身の腰痛への意識的な足かせから逃れながら、この音楽のなかに入り込んでいくのには時間を要した。アンプでホールに響かせるとき、あとで録音を聴くと音は平たくなっている。細部の表現は粗くなり捨て去られ、細部の音の聞こえの要求する沈黙が欠如することによって音を待てなくなり、概して表現は前のめりになり、大きな表現はより大げさにも聞こえてくる。そこに生の躍動感を垣間みることはできても、死の匂いを直接感じることは難しかったように思う。

演奏が終わると拍手喝采がきこえてくる。拍手のあり方、あるいは拍手のない沈黙の深さや度合いは、演奏がいかにあったかということ、聴衆のあり方、聴衆がどのように音楽を聴きとったか、あるいは何を聴き取らなかったのかをものがたっているように思われた。最後の10分ほどの音、もっといえば終わったあとの拍手のあり方のなかに、この演奏の言葉にならない真髄が立ち上がるように聴こえてくる気がした。胡蝶の夢とはいかなかったが、一瞬でもいまの体の状況といまここにいるという自然の一部として、この音楽に少しでも入り込めたのは幸せな時間であった。まさにその時その場の即興演奏の持続がよかったのだが、僕は<Being:ある>ということのむつかしさが誰のうちにもあるのだという人間の性のようなものを、最後の拍手や喝采のなかに、そして僕自身のなかに感じていた。

単なる腰痛という勝手な自分自身の事情ではあるが、治ることへの意識的な欲望と、痛みを受け入れながら音楽を聴くための寛容な身体をつくることのはざまで、この即興演奏は前者を駆り立てるには効いたが、後者を広げるにはどこか不足気味だったという感じが正直残った。ここにも音楽における生死の問題が端的にあらわれているように感じる。

はたして人生とは何だろう。パスカル・キニャール氏は「芸術家は誰であれ、人生を捨てることに同意しなければならない」と書き、「公衆の面前で演奏すること、創造すること、自分を晒すこと、死ぬことができること、それらには区別がない」と書いている。面前での演奏の覚悟が問われているだけにとどまらず、こうした感触を深くもった人間はこの時代には合いにくいし、実際、人前で本当に演奏できなくなること、あるいは音が全く出せなくなることもあるかもしれない。そんなことでは演奏家といえないのだろうか。

いや、このキニャールの言葉を真摯に受け取るなら、生死の感触をもつ人間こそ演奏するに値するといえるし、演奏なき演奏が可能なのであるとさえいえるかもしれない。何をもって演奏とするのか。ケージの「4分33秒」とは違った意味で、その場において音を出すことができなければ演奏とはいえないのか。面前で楽器を構えいつまでたっても音を出さない演奏家自身もまた覚悟をもった人間、自然の一部であるかもしれない。いつものことながら、演奏するものとしてはけわしい道ではあろうが、生死という場を演奏に際して心得ることは、あらためて重要であると感じる。聴く側、あるいは音楽を批評する側にもそれだけの覚悟が必要だと言うことでもある。

ちょっとした痛みの感覚のなかにふとおとずれてくるノスタルジアと悲哀は、身のまわりの自然音とともにやってくるように思われる。身体を横にして休息を取りバッハを聴いているあいだに、遠くから車のエンジン音や鳥の声や子供の遊ぶ声が聞こえてくると、次第に筋肉の痛みと意識との間に隙間ができてくる。<natural>な音というのはこうして空間を回り込んでどことなく入ってきては、身体のツボのようなところに音にしみ込んだ何かが染み渡り、痛みがやがてやわらいでいくのを経験する。これは理路整然とは説明できない不思議な身体反応だ。

音を出そうとして意図した身体の音を疑うのは、私の音を原始的で身体的な世界への創造と錯覚していないかという怖れがあるためかもしれない。「公衆の面前で演奏することが、死ぬことができることでもある」ということは、死に対する意識、怖れる心をもが自然の深き畏れのあらわれと感じながら、音をつむいでいくということだろうか。そのあり方も、言葉や意識や論理を経由するあり方なのではなく、感覚的な自然さを経由する日常的な方法があるはずである。音やノイズを出しつくすという方法と裏腹に、音のない音をたてるために。音がでなくなるという病理を迂回しながら。

身体は意識せずとも常に創造している。こうした意味では、このアルバムはまさに<Being>たりえているのではないだろうか。だから70分間とおしてきくことができたのだろう。一方で、このアルバムの即興演奏のあり方とは対照的に、腰痛で寝ているときにわずかに出されている音、布団のかすれる音や歯ぎしりの音もまた、それがたとえ音楽といま呼べないにしても、面前で聴くことの耐えうる音に近い音であるとはいえないだろうか。そういうことも同時に思わずにはいられなかった。

70分の即興演奏を聴きながらも、身体を動かした時に生ずる痛みのおかげで良くも悪くもアルバムの音に集中し切らない。オリヴァー・サックス氏の『ミュージコフィリア』を連想してみたり、さらに『レナードの朝』の奇跡はたぶんこんな日常の、そこここにもささやかに生じているのだろうと思いをめぐらす一方で、アフリカのエボラ熱のことや、世界で希望を捨てずに必死に生きている子供たちの今の<Being>をおもっていた。決してわかりはしないだろう他者の痛みに、鳥のみる夢のような思いをよせた時、痛みが自分の痛みとして感じられなくなることもある。

Paulさんのだす音を遠くから聴くような相対的な聴き方をしていたにしても、このアルバム自身も今日の僕自身の身体的自然の流れのなかにある聞こえとしてあったとは思う。音のもたらす良質な身体的効果を体験し得るかどうかは、音の自然さと同時に、<nature>でありかつ<natural>であるような、偶然にそこにあるがままに出来した出来事の受け入れ方に大きくかかっているだろう。聴き手の身体が今日も問われていたようだった。

さらには日常的な音の聞こえに、たとえそれがみえなくとも生死が映しだされた世界の濃密な質感のようなものが、肌に直接的に感じ取ることができるようになれば、聴く心得と同時に、演奏するための心得も自然とついてくるのではないだろうか。弾き手も形の見えない荘子のいう<天籟>の風を聴き取るための身体を磨かなくてはいけない。<天籟>の風は無数の洞穴にそれぞれの音をたてさせるという。だが風そのものには音はないのである。洞穴こそ演奏者自身だ。演奏者の生が盾となり、死の風を受け止めるところに音が生ずるのである。その音を聴く者にも、相応の身体がいる。

眼を閉じて人生を捨てようとしたときにこそ聴かれてくるもの、そこに思わぬ出来事の連関や奇跡が起こる可能性がある。その確からしさを信じたい。いや何かを信じることすらもあやうい世界のなかでは、そこにしかもはや信じるものはないのかもしれない。そのみえない奇跡をのせている音は自分の出した音のなかにはない。音のなかに自分自身というものはない。荘子のいう<天籟>の風をきくこと、きこえない音の大きな波に自分自身を晒すこと、己自身の生死の際にそれらを深く問うていくこと自体がそのまま創造なのだ。<Being>を問うことは、即興という枠を超えて、現在進行形の創造、その源であり続ける。