夢枯記016 Branden Abushanab | The Dust Improvisations

contrabass solocd2010
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016Branden Abushanab

Yumegareki 016
It’s a record of improvisation that is similar to the trail of a mouse crawling the ground.  The sound of contrabass is heard from a place where no aesthetic or linguistic value can adorn.  Rather than the music created through breathing, it is the sound of inorganic dusts emitted with each breath, which seems to have a potential of creating an organic web in modern days. This music must be an essential piece of the current inorganic life.

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音楽の旋律のないとても地味で淡白に聞こえもするインプロヴィゼーションだけれど、どこかからうめき声のようなものがきこえてきて、こすり、たたき、コントラバスの胴体を打撃する音の瞬発力によって、何かが身体にひっかかってくるように伝わる。

Dustという言葉から連想するにしても、これは崩れやすい砂上の楼閣のような演奏でもないし、言葉による詩のイメージで固められているわけでもない。世界の塵としての質的な美を追求する意識はないように感じるし、路上の音楽といったふうな生活目線の強調され上部にあるものへの抵抗の視線も見いだすことができなければ、新しい芸術の方法やその呈示といった大それた思想もたぶんないだろう。あるいは、ある意味において非常に初歩的な音楽で、ブレンデッドウイスキーのように人間の手が十分に加わった熟成はなされていないとも言える。また、裸形の音楽という形容もあてはまらない。

重要に思われるのは、Brandenさんにとっての身体の即興の場があたかも地面をはう野鼠の動きのようで、美や言葉の価値によって飾られない場所、あるいは人間的修業という場所ともどこか離れた場所に音が必定、鳴っていることだろう。それをただ録音しているということ自体に現代的意味を逆に感じるのだが、そういう意味が意識されたとたん、音楽は生きたものではなくなるのかもしれない、そういう感触をもった。音の先にあらかじめイメージされる何ものかが明確ではないという点がこの音の記録を作品たらしめているようにきこえた。

一粒一粒の音が動物が素早く這ったあとに散乱する塵であって、分割されず規定もされないリズムが一粒一粒の塵の運動から立ち上がる。それはよく聴くと演奏者のある固有振動をなしていて、地面をはって舞い上がりまた地面に落ちてくる現実のほとんどみえない塵の動きがその身体を通じて瞬発的に散らばる音となってあらわれている。細かい手の動きやもたらされる音の感触とは対照的なところで、コントラバスという音のあらゆる質感が空間全域を埋め尽くしていくように思われる。コントラバスによって散らばった音のリズム、その粉塵がコントラバスという楽器に舞い戻って、まわりの空間を次第に発酵させていくように独特な世界の色艶が醸し出されていく。それは演奏技術や思想の問題とは無関係な場所で、ある種の音楽への態度が突き抜けているからこそできるのだろうし、録音する価値もあるということだったのではないだろうか。それにしても楽器はなぜ奏者を選ぶのだろう。そういうことを思い出していた。

自明の運動として排泄された有機物としての糞が分解されて塵のようになり、植物を維持するための無機物としての肥料としてはたらくように、呼吸運動を通して音楽的創造をするだけではなく、呼吸によって排泄されたような無機的にも思える音が実は現代においては非常に有機的であって、現代の無機的な生にとっても欠かせない重要な断片だということ、だから広く呼吸のあり方と音自体を磨かなければならないということ、そういうことを、この音楽をきいて少し時間が経ったいまは思っている。