夢枯記018 Thomas Helton | Doublebass

contrabass solocdspin digital media2003
http://www.thomashelton.org/



018thomashelton

Yumegareki 018
It was quite interesting to feel that the music sounded different from the one I played before in terms of sound quality, concept, and motivation, although Track 3 seemingly resembled mine. The fact that music gives a different image even when it sounds alike seems to imply that each piece of music is coming from infinite memories. Listening to the music played by others is one of the great catalysts for me to evoke memories of precious sounds from the memories stored deep inside me. The reason why we play music is very important for every musician. But at the same time, improvisation appears to hold a promise of creating wonderful moments that go beyond the concept. And now, I feel the need for musicians to commit to infinite memories that have been untapped inside them and live to connect the sounds.

----------------------------------------------------------------------------------------------

数日前に聴いたものの、仕事の日常的疲労が濃すぎて全く言葉にできない感じで、書けなかった。この数日は何かをひきずっているようで異様に長かった。動きの少ないミニマルな繰り返しを基調としたソロベースのライヴレコーディングで、臨場感が漂っていた。数日たつとそのときあったはずの言葉から離れて、今度はぼんやりとした音の印象が空間のなかに浮かびだしてくる。こういう時間の開きは映像的なスペースを生じさせる。

思えばあまり音を動かさないで、沈黙や静寂の脇に音を紡いでいくと、音の闇のなかにどこかぼんやりとした光が差し込んで、何かが空間に想像されてくることがあるが、それは少ない音がもたらしているのか、それとも音の隙間に聴く側の意識が入り込んで視覚を刺激し、やがてなにかの記憶の映像にたどりつくからか。それがどのようにあっても、音楽を聴いたということが何かを触発しているのは間違いない。しかし、このアルバムの音楽の記憶だけではなくて、この数日間の日常的な音の無限の記憶が意識に様々な点火を生じさせているのがわかるし、その無限のなかからの主立った相当数のものたちが、記憶の中に残り蓄積されて、記憶の内部で火花を散らしているように感じる。なんだかそのこと自体も、この疲れた身体にはとてつもなく不思議に思えてきて、いったん枯れ切った夢が、まるで音楽のようにふたたび夢のような空間のなかで形を変えて生きかえるかのように思えて、やっと筆を起こすことができる。無限の可能性によって、今日書いているというこの有限が生まれているとしか言いようがない。

このアルバムの記憶から生じる今日の映像は、黒から白への無限のグラデーションのなかで、どこかの濃度が選ばれては瞬時にきえていき、次の濃度がすぐさまに立ちあらわれる瞬間の連続したスポットライト、空間をいろいろなモノクロの濃度に点滅させていく時間のイメージが一つ。もう一つは同じ濃度の画面のなかで、粒子の大きさとパターンが変化していくある断面に区切られたなかでの時間の推移だ。いずれも無限にパターンがあり得るからいつまでも続くように思えたが、二つのパターンの交差するような場所があって、その場所に自然に反復する時間が生じるところに身体の場所があって、この音楽が成立しているような感じを受ける。その身体にぶれがないのがいい。

さて、聴いたときはそれほど意識していなかったけれど、Track 3は解放弦のロングトーンで、僕が以前、個展でやったひたすら解放弦だけを弾く音楽とよく似ていた。僕の場合は、「微明」とこれを名付けて、この世に生まれてこなかった命へ向けて行為して、音にその命の声をきくこと、短く去来する命のあらわれ、そのことがひたすら大事だったし、それは今に続いている。トーマスさんの場合、動機はどうだったのだろうと想像する。音楽への動機が何かということは各個人にとってとても大事なことだろうし、全く同じ行為のやり方でも、音楽への動機が何であるかということで、しばらく時間がたつと全く違う映像を惹起してくる。その違いは音質に顕著にあらわれているし、やはりそれらは似て非なる音楽なのだ。

が、同じような音楽が、それぞれ一つの行為としての異なる限定的な姿をとっているのは、無限が音を支えているからにちがいない。また、異なるけれど両者に共通する即興性ということは、個々の動機をもこえる瞬間がどこかに訪れてくるところに一つの普遍的価値があるのだろう。深い思想や意思、祈りのようなものや、この身体的な切実な動機なくしてそういう素晴らしい瞬間も訪れないようにおもえる。音楽への動機は音楽の必要条件だけれど、十分条件ではないのかもしれない。十分条件があるとしたらたぶん、難しいことだけれど、無限である場所に身を委ねるという究極のところにしかなくて、アルバムを聴くときもそういう態度が必要だと思う。でも僕にとっては、アルバムを聴くときにはそれだけでは十分ではなくて、逆に無限に聴いている感触を自らの個の身体になんとか問い直さなくてはいけないと思っている。この場合はそれを言葉で書いているのだが、そこにいわば、多様であることを通じた普遍性への細い通路が、うまくいけばよりよく開けるように思われるからだ。

こうして表面的には同じやり方をしていても、音楽への動機の違いから生じる映像の差異をみて自らを確認し、差異を無限へとおろすことによって記憶をたどり記憶から音を掘り出すことはできないかと意識をうろつかせていると、もう半年以上もまえに偶然見ていたテレビ番組での、京都の伝統的な「樂焼」の火をおこすときの強烈な激しい火音を、僕のなかの記憶からいまつむぎ出していた。茶碗を生み出す動機、その切実な必要性を一生懸命になって無限という十全なるものに委ねているときの、人間の思惟と努力と手と、自然のあいだにある素晴らしい音だった。

Thomas Heltonさんのこの録音は、僕の意識と、僕の身体の音記憶のよき触媒であった。仕事の疲労も、音楽というよい触媒があれば脱力したよい記憶を生じさせるものだ。夢枯記は僕にとって音楽の勉強であると同時に、音楽への契機でもあるのだ。