自然の声に触れる
齋藤徹ワークショップ《寄港》によせて
I. 《寄港》に立ち寄る
1) はじめに
齋藤徹さんとの最初の出会いは、私が新宿で写真展を開催した二十年前頃だ。大学の農 学部を卒業後、医学部に再入学し、あと少しで国家試験というときだった。その後、高校 からベースをやっていたこともあり、徹さんに数年間、幡ヶ谷の自宅にコントラバスを習 いにいった。音楽のことはもちろん色々なことを学んだし、紹介していただいたベーシス ト、バール・フィリップスさんとの出会いも私の人生にとって大きなことであった。
私はいまは東京を離れ、地方の診療所で皮膚科医として働いているのだが、一昨年の秋 頃、徹さんがかなり大きな癌を十二指腸にかかえていることがわかった。診断を受けたは じめの病院で早々に手術が試みられたが、術中所見から癌を取り除くことができず厳しい 状況となり、セカンド・オピニオンで癌専門病院で勤めている友人医師を紹介させていた だいた。まず抗がん剤治療が行われ、半年近く耐えた甲斐があって病変部は順調に縮小し てきた。しかし、ミシェル・ドネダ、レ・クァン・ニン、齋藤徹《MLT トリオツアー》を 直前にして、その効果に歯止めがかかった。ツアー参加をキャンセルせざるを得なかった が、徹さんは手術を受けることを決意し、無事成功を果たした。治療プロセスをみても、 徹さんの心身からしても、手術へたどりつくまでの道のりはぎりぎりの線であっただろう。 二人の友人医師や医療関係者の方々に、この場を借りて深い感謝を伝えたい。
齋藤徹ワークショップ《寄港》は、このような経緯をたどった徹さんの癌闘病中に始動 した。不安定で先のよくみえない治療を背負っての命がけの試みといえる。ワークショッ プは、生死の境目で未知なるものに向き合っていた徹さんの身体まるごとの「祈り」でも あったのだろう。
2) 齋藤徹さんと音楽
命の危機をなんとか乗り越えたものの、徹さんはいま、抗がん剤の影響と思われるベー シストには過酷な手の痺れとともに、コントラバスを弾いている。だが、この一年の急激 な変化に対応するために、徹さんにとってなくてはならないものこそが音楽であり、また 音楽を通じた人々との交流である。
治療後の身体変化を受け、長年磨き上げたコントラバスの高い技術や方法というものか らむしろ距離をおいて、音楽という形さえも内的に超え出ようとする傾向が強まっている ようにもみえる。闘病のことを知らない聴衆にもその音はより肉薄し、新鮮な発見を与え ているようだ。「前のようには弾けない」という新たな身体的限界に向き合うことによって、 限界や弱さにこそ魂が宿るからだろうか、新しい命が演奏の形となって浮き彫りにされて くる。演奏技術をこえ、身体の限界に染み出す余剰が新たな次元の身体の波動となり、音 の震えによって、その「命」が伝わっている。痺れた手でコントラバスを弾く身体は、新 しい「手」を模索しながら、いまなお音楽に深い場所でつなぎとめられている。
徹さんは、生のノイズが渦巻く場所に身体を浸しながら、各ジャンルの表現者たちと深 い身体の次元で密接な関わりを継続してきた。ライフワークは「人と人、場と場をつなぐ こと」であるという。私は、癌発覚後にやり取りをするなかで、コントラバスという楽器 を通じて、音楽こそが徹さん内部の険しい葛藤を支え、心身の維持に最大限に寄与してい る、そう感じてきた。その力動が、まわりでサポートする人々にも波動をあたえ、場の呼 吸を「同期」させているように感じる。同期とは、最初はばらばらな挙動をしていた複数 のものが、近すぎず、離れすぎず、微弱に相互作用し自律的に動きだすと、次第にそのリ ズムや周期が歩調を合わせるようになる、そのような自然現象のことである。蛍の点滅や、 心臓の律動が生じる際の細胞群などにみられる興味深い現象だ。緩やかなずれや乱調を生 じながらも、次第に全体が同じような周期に収斂してうごき、ゆらぎだす。音楽はゆらぐ。 まさに音楽的な生命現象が周囲に波及するのである。何かを求める各々の身体が、自然に 呼吸を合わせるようにつながっていくのだろう。
とりわけコントラバスソロ演奏をきいているとき、音楽が齋藤徹という演奏家に乗りう つり、演奏家が音楽によって「生かされている」という印象を不意に抱くことがある。そ れは遠い彼方からやってくるようでもあり、至近距離から目の前に顕現してくるようにも 感じられ、その訪れはまさに「音連れ」であるかのようだ。演奏家個人の主張・表現を超 えた場所に、言葉に表現しうる領域を超えた出来事があらわれてくるのだ。演者と聴衆は ステージと客席に二分され対峙しているのではなく、いわば天と地という垂直軸のなかに もたらされてくる音の場に呼び込まれ、聴衆は、演奏者の身体から出てくる音を通じて、 何かに触れる。そして、居合わせた人々が大きな場を分かち合う。齋藤徹に音連れてくる 何ものか。その音の磁場には、「命とは何か」という根源的な問いが立ちあらわれるようだ。
3) 三つの言葉
私はワークショップ第 5 回に初めて参加したが、徹さんのこうした音楽との関わり方が 濃厚に反映され、様々な方法が提示されながら参加者とともに実践されていた。
前半は、ワークショップを象徴する言葉として、徹さんが掲げる以下の三つの言葉をめ ぐって話し合いがなされた。
「音を意識した生活」
「自分の体、心を所有しないこと」
「根を持つことと、羽を持つこと」
これらは、徹さんがとりわけ即興について強調するように、「常識」や「自分自身」を超 えた領域に接近し、広く深い次元に生じてくる出来事に触れることを通じて、人生をより 豊かなものにするための方法が、経験的に要約された提言であろう。
後半では、沢庵和尚の言葉が参考に示され、十数の身体行為の項目を連続して経験して いく興味深い実践があった。意識の奥に隠れている身体の記憶から生命の流れをつかみな おしたり、ふだんは意識されない音の世界に注意を向け、身体から引き出されてくる何も のかに出会い、心と身体を開放していく実に工夫された実践であった。最後に参加者で「即 興」の実践と、その実感を言葉にする「ふり返り」の時間があった。
簡単にワークショップをまとめてみたい。第一に、ワークショップは、自分がふだん我 がものとしている「心や身体」、つまり日常的に自分であると思い込んでいる自己同一性を 取り払ったうえで、自分自身をひらき、知らない自分に出会う場である。第二に、そうし た場を呼び込む契機として「音」があり、お互いに音をよく聴き、音を出し合って、生き た場を生起していくための方法として「即興」が重要な意義をもっている。第三に、各々 の身体を通じて同期的に場が創造され、意識のなかで区別されていた自分と他者が深い身 体的次元で交感しあうことを通じて「私の世界」が相対化され、次第に「世界のなかの私」 が立ち現れてくる。この自他を含み込む大きな世界に、命をふたたび新しく感じとること を通じて、「個性」を深い次元で再発見していくための機会となっている。第四に、個性が 生命の次元に支えられながら共振する場において、自分の「根」が他者の「羽」としても あること、自分の「羽」が他者の「根」にもつながっていることが実感される。
徹さんは「生き方」として音楽を選んだという。音楽と人生をつなぐ「生命」という大 きな次元に、「いま・ここ」でどのように自分が向き合うのか、この問いかけが「即興」を 支え、即興がワークショップを底辺で貫いていた。こうしたワークショップの現代的意義 について、この三つの言葉をめぐりながら、より深く考えてみたい。
II. 自然を想う
1) 生死
現代においては、医療技術の飛躍的な発展にともない、生死の様相が変化しつつある。 とりわけ西洋近代以降、犠牲を払いつつも人体を「見る」まなざしが人体の細部まで浸透 し、物質や構造に焦点を合わせることによって、様々な発見がもたらされた。現代に至り、 遺伝学や分子生物学などからも物質的な身体情報が大量にもたらされ、身体は、より詳細 で膨大な知のもとで管理されるようになった。そうした知を応用し活用しながら、医療は もっぱら個体としての生命を、生に対峙する死への意識からすくい上げるように、そのテ クノロジーを発達させ個体の寿命を延ばしてきた。臓器移植や再生医療、人工知能も駆使 し、死も定義し直される。それでも、死への不安が払拭されるわけではない。当たり前の ことのようだが、個々の生命はやがて死を迎えなければならないからだ。生死の様態が急 速に変化しつつある現代においては、根源的な「生命」という次元について、ふたたび問 うていく必要があるように思われる。
近年、科学の新しいパラダイムとして興隆している「非線形科学」の視点から少し考え てみたい。同期現象の研究者でもある蔵本由紀の『新しい自然学』を主に参照しよう。
非線形科学は、非生命体を含めた「生きた自然」を数理的に記述するという。イリヤ・ ブリゴジンは、エネルギーが出入りする「非平衡開放系」において、外部へとエネルギー が散逸していくなかに自発的に秩序が形成され、自己組織化しながら立ち上がる動的な構 造をとらえ、これを「散逸構造」とよんだ。地球のシステムは「非平衡開放系」で、何十 億年ものあいだ解消されることのない内外の温度差によって、地球外に熱を排出する巨大 なダイナミクス(動力学)が進行している。生命は、この地球の巨大な駆動力、大気や水、 マントルの熱対流の大循環のもたらす根源的ダイナミクスに支えられながら、地球の生ん だ最高度の「散逸構造」として自発的に生成され、再び大地に還っていく。生命は、外界 とのエネルギー交換や情報交換を通じて、環境の変化に対し個体の生存を一定期間保持し つつ、その死をまるで次世代に受け渡すように、自らを維持してきたと考えてもよいだろ う。
こうした大きな生命循環からみれば、個体の死は自然の摂理のなかにあり、この次元に おいては生と死は対立するものではないだろう。個々の人生にとって、命が意味のある形 で継続される意義は大きい。その一方で、現代においては、意識のなかで生と死を分け、 死を遠ざけるように延命をはかることとは異なる次元において、生死を包括している自然 の根源的次元を生のなかに感じ、深い生命感覚において意識の不安から死を相対化してい く必要があるように思われる。そして、意識によって対象化される自然のみならず、おの ずから生命を貫いて生じる力動、生成・消滅のプロセスとしての自然を深く感受していく ことは、生命を包括的に捉えなおすための大きな基盤となりうるだろう。
「根を持つことと、羽を持つこと」という言葉は、この生と死の関係のように、二つの 矛盾した事柄を同時に捉える別次元の地平に立ち、互いが相補的に支え合い、生かす方法 を見出していく「知恵」を象徴しているように思われる。知恵は、論理の「知」とは異な る身体感覚のなかで育まれる。死を意識せざるを得なかったであろう徹さんが、このよう な言葉をワークショップに掲げたことは、音楽が自然の深い次元に位置するものであり、 音のなかに生死を超越していくための大切な知恵を見出しうる契機がある、そのような祈 りにも似た感覚が、身体の深い場所に生起していたことを想像させる。「根を持つことと、 羽を持つこと」は、このような生死を包括した生命の根源的力動・循環において、感知さ れることだろう。
2) 「聴く、待つ、信じる」
『荘子』もまた、生命における深い自然を喚起してやまない。『荘子』の根幹ともいえる 「斉物論篇」の冒頭において、音と身体についての記述がある。「籟」とは「響き」のこと であるが、「人籟」「地籟」に言及した後、最も根源的な「天籟」について以下のような説 明がなされる。
「天籟」の風は、無数の洞穴にそれぞれの音を立てさせる。人間の喜怒哀楽といった感 情の背後にも何ものかの根源的存在があり、根源がなければ自分という人間も存在するこ とはできないし、逆に、自分という人間が存在しなければ、根源からこうした感情を取り 出すこともない。だからこの根源的存在と自分とは非常に近くにあるはずなのに、根源が どこにあるかは知ることができず、形跡さえ見つけられない。それでもなお、そのはたら きがあることは疑う余地がない。また、人間の身体の器官はそれぞれが独立した機能があ るが、目に見えない「真宰」によって統一されていて、その存在は厳然とした事実なので ある。
「天籟」や「真宰」には、人間の背後にある何ものかの根源的存在、言い換えれば生命 を広く深く貫いている「根源的自然」のはたらきが暗示されており、音や身体を自然の根 源において見つめ返してみることが、それらをより深い次元で感知するための出発点とな ることが説かれているように思われる。音にはたらいている根源的自然が、同時に個々の 身体を貫いているとすれば、音は身体の深い場所ではたらいている自然を呼び起こし、音 を深く聴くことを通じて、深い命の場所に触れる問いが身体から意識へと喚起されてくる だろう。音は、言葉の背後にある沈黙にその姿を隠しつつ、人間の身体を揺さぶりながら 人間の意識を照らす。音は動く鏡のようだ。
また、江戸に生きた僧侶で、道元や『荘子』に影響を受けた歌人・書家の良寛は、「没絃 琴」をうたっている。「没」とは「無い」ことを意味し、「没絃琴」とは弦のない琴のこと である。曹洞禅では「没絃琴」という言葉に、仏道の精髄が言葉によっては表現されえな いゆえ、経典からはなれ座禅に打ち込む経験の重要性を説いた「不立文字」の意が表され ているという。
静夜草庵裏 静夜 草庵の裏(うち)
独奏没絃琴 独り奏す没絃(もつげん)の琴
調入風雲絶 調べは風雲に入りて絶え
声和流水深 声は流水に和して深し
洋々盈渓谷 洋々 渓谷に盈(み)ち
颯々度山林 颯々(さつさつ) 山林を度る
白非耳聾炭 耳聾の漢にあらざるよりは
誰聞希声音 たれか聞かん希声の音
大意は以下のようである。「静夜、草庵にあって、ひとり無絃の琴を弾いている。その調 べは、天空高く風雲にまでとどき、その音は、流水に調和して深く、渓谷に満ち山林を渡 る。なんと微妙な琴の調べ、これを聞けるのは、無音の世界に住む聾の人よりほかない。」
現実には生じていない音を想像しながら、無限にあそぶ自由な良寛の境地がみてとれる が、この詩はいかにも音楽的である。自然をわたる広大な音の無限が、その裏側に想像さ れてくる。自由にその意をとれば、無音には無限の音が渦巻いていて、自然の微弱な一音 にすら、その背景に無限を宿していることが連想される。良寛の「無音」の世界を、生命 の生成・消滅を生み出す根源的自然に渦巻く巨大なエネルギーに満ちた宇宙と捉えてもよ いだろう。良寛は世間の喧騒からはなれ、一人ひたすら無音を奏でることによって、「無」 のなかにこそ広がる無限なる自然を無心に聴いているのではないだろうか。
人は自然を敬うことによって、生死という矛盾を超えた地点に立ち、魂を浄化すること で自らを落ち着かせたり、友人の回復を自然の力に託すことができる。そして人が願う行 為、祈る行為に音楽が欠かせないのは、音楽が、人間の願いや祈りを運びながら、自然と 交通する役割をもっているからだ。祈りの場においては、奏者の演奏が場全体の身体性を 担っている。徹さんの言葉、「聴く、待つ、信じる」ことは、静寂や沈黙のなかに無限なる 「無」を感じ取り、日常に隠されている大きな自然のはたらきを音を通じて場に呼び寄せ ることであろう。そして、「音を意識した生活」は、こうした感受性を日常的に培うことに つながる。
III. 個性を考える
1) 身体に聴く
「身体に聴く」というとき、「聴く」とは、身体に感じられる自発的力動や要求に素直に 意識を向け、その意識をふたたび身体に問うということだろう。この循環は「自分の体、 心を所有しないこと」の実践の一つといえる。「聴く」ことの良い点は、「見る」ことのよ うに身体を分析的に対象化し、言語化することからは遠く、対象に直接ピントが合いすぎ ず、身体のゆらぎを介した意識への干渉が大きくなることだろう。
たとえば、身体に聴きながら音を出していく行為においては、身体に宿る自然が音とな り、その音を聴きながらふたたび音を出すという丁寧な循環を通じて、音によって身体内 部のずれが緩和されていく。身体から音を出していく際には、自然な「呼吸」もまた重要 な意味をもつ。深い呼吸を介した身体と音の循環を通じて、音を物理的に調律していくの とは対照的に、音によって身体が調律されていくのである。調律された身体を基盤として、 生きている身体の波動がそのまま音の波動としてあらわれ、「小さな身体」という内部の自 然と「無限の宇宙」という外部の自然が、そのあいだに作られる音の皮膜を通じて交差し 始める。その皮膜に音を出している存在が映し出され、音を聴くことを通じて宇宙が身体 を貫いているように感じられてくる。そして、宇宙のなかに生きている存在の「かけがえ のなさ」が、おぼろげに意識されてくる。この存在そのもののあらわれこそが、深い次元 での「個性」といえるのではないだろうか。「身体に聴く」ことを通じた音の実践において は、個性は音の皮膜となって発現されてくる。
約四十億年といわれる生命史からみれば人間の歴史はまだ浅いが、人間の非常に複雑な ゲノム(遺伝情報の全体)からも想像されるように、人間の身体には、幾重にも重なる生 命の歴史と記憶が刻み込まれているにちがいない。個々の身体は、誕生から死に至る期間 において、生命の大きな自然と歴史を内部に受け継いでいる存在といえる。音は、身体の 生命記憶をその波動の中に連れ出す。
コントラバスの前身といわれるヴィオール奏者を主人公とした、パスカル・キニャール 原作の映画『めぐり逢う朝』にも描かれているように、死者たちや、この世に生まれてく ることのできなかった胎児の「すがたかたち」、その「おもかげ」を音楽は不意に呼び寄せ る。音の波動に満たされながら、生命の凝集した形のようなものが音楽の時間のなかで立 ち上がることがあるのは、音という皮膜を通じて、身体と宇宙を同時につらぬく根源的自 然が交差し、循環しながら、身体内部の記憶が場に呼び出されるからだろう。
生命記憶があらわれた「おもかげ」にこそ、死者を含んだ生命の尊厳が宿っている。個 性のかけがえのなさは、命の尊厳に支えられている。尊厳は言葉で定義されるものではな く、身体に聴き、自然の声に触れることを通じて感じていくものだろう。そのなかで、自 然の存在としての個性が、安易な意識や態度によって傷つけることができないということ が察知されうる。ここに他者への深い敬意が生まれる。
2) 「私」の世界
一方で、人間の歴史はその生存をかけて今をどうするか、そうした意識的判断の連続で もある。
白川静の「音」という古代文字の解釈によれば、古代においては、人間にとって「言」 は神への「偽りのない祈り」としてあり、これに神が答えるときのお告げとしての響きが 「音」であるという。さらに「音」と「心」でできている「意」という文字は、「神の心を おしはかる」こととしてある。この説に則れば、古代において「言」「音」「意」は、人知 を超えた神を介する一連の出来事として生じたと想像することができる。またジュリア ン・ジェインズは、大著『神々の沈黙-意識の誕生と文明の興亡』において、興味深い大 胆な仮説を立てている。意識誕生以前の人間は神々の声に従う「二分心」の持ち主で、幻 聴に基づいたまったく別の精神構造をもっており、「意識」はいまからたった数千年前に芽 生え、この頃に古代文明が創造されたというのである。古代における神の心をおしはかる 「意」が「意識」へと徐々に置き換えられたとき、神に代わって人間がその意識のもとで 人間自身の秩序を形成し、コントロールするようになったと仮説することもできるだろう。 このとき、「音」は神との関係性を失ったのかもしれない。
ジェインズによれば、意識の最も基本的な側面は「心の空間化」であるという。意識は、 志向対象を統合して「私」という空間を心のなかにつくりあげ、行動の中心に「私」がす えられる。「私」は心と身体を我がものとし、世界に対する自足的で自己完結的な「私の世 界」を獲得していく。私が私であるという「個人」あるいは「自己同一性」として「私」 が認識され、強固な「私の世界」が形成されるようになる。しかし、このことは同時に、 意識の向かう対象に「私」がかえって縛られることを意味してもいる。真木悠介は『気流 の鳴る音』において、「「私」とは、まず現実的に囲い込みであり、壁をめぐらすことであ る。それが成功すればするほど、それは世界の他の部分を排除することによって、逆にみ ずからを幽閉する城壁ともなる。」と指摘している。自然の無限の豊かさを秘めているはず の身体が、意識の裏側に隠されていく。
真木はまた、「自然とか宇宙のうごきにたいする感応の深さやゆたかさが、そのいくつか の質的な次元において喪われたとき、きりつめられ貧困化された理性と感性とは、それな りで自己充足的な明瞭さの空間を張って安住し、通常は喪われた諸次元について思いをは せることもない。」と述べている。人間は現在、「知」を応用して獲得したテクノロジーに 生活の多くを依拠している。この生活は幸福の形の一部としてあるのかもしれないが、そ の一方では、技術革新と並走する経済優先主義に巻かれ、生が硬直化し、所有や娯楽を介 した消費社会に隠れるように格差がもたらされ、閉塞感が漂っている。音楽もその歯車と なり、閉塞感の代償としての矮小な役割に追いやられているようだ。利便性の高い日常に 耽溺し、「私」は「知」のループする世界からなかなか逃れられない。
このように考えたとき、自他の関係性を支える理性的基盤を尊重すると同時に、日常や 「自分の世界」に安住し耽溺しない意思をどこかにもち続けること、そして「私」という 意識に支えられた自分を捉え返し、身体に深く聴きながら、一人一人の命という存在とし ての個性に立ち返っていくことは大切な視点だろう。「常識」から外れた個性が排除される のではなく、社会の歯車や、自己決定・自己責任からこぼれおちていく存在を受容する場 所が、社会のどこかになければならない。そして、各々が感覚を身体の内側から再生する ことによって常識が吟味され、新しい価値が柔軟に創造されていくような視点が維持され なければならないだろう。存在としての個性は、明晰な「私」として表現されるものでは なく、社会のなかであいまいにゆらいでいて、おぼろげで弱い「すがたかたち」にすぎな いのかもしれない。だが、ゆらぎのある個性を基盤とした関係性は、柔軟で息の通った社 会の母地となり、自他を支える思いやりをうながし、ゆっくりとした「自己実現」や「生 き甲斐」をもたらすだろう。
さらにこうした個性を感じていくことは、真木のいう「自然とか宇宙のうごきにたいす る感応の深さやゆたかさ」、つまり生き生きとした生命観・宇宙観へと視野をひらく。徹さ んは、南方マンダラ等の巨大な世界観を有する南方熊楠を研究しようとしていたときく。 また詩人、吉田一穂や、特に大震災を経たのちの宮沢賢治への志向性は、宇宙的な視野か ら世界をとらえ、個々の存在のなかに宇宙をみるコスモロジーへの関心を示しているとい えるだろう。
ワークショップは、実践を通じて自らを真剣に宙に遊ばせ、自然を身体に感じ、様々な 身体の可能性を考えたり発見することを通じて、生きた存在の形を見出し「個性」を感じ ていくための具体的なプロセスであった。そして、古代における神の教えとしての「音」 の役割が忘却されつつあるいま、「音を意識した生活」をすることは、宇宙的感覚を身体に 豊かに聴き取り、自分自身の存在を深く感じ取る契機として、「音」を捉え返していくこと でもある。
3) 無意識を意識する
人間の行動においてはその大半の部分が、意識にのぼってこない環境との無意識的な身 体反応として成立している。「個性」に深く目を向けるためには、より広い領域としての「無 意識」に立ち返ってみることは有用だろう。おそらく「無意識を意識する」ということは、 「身体に聴く」ということとほぼ同義であろうが、身体を介する出来事を意識的に言葉に 近いところで考えるというニュアンスが強いのかもしれない。いくつか例をあげてみたい。
身体は無意識の領域に、非常に奥深く複雑に入り組んだ感覚を宿している。たとえば皮 膚は無意識下で幅広い情報を処理している。皮膚感覚が意識よりも早く外界からの危険を 察知するように、意識を介さない感覚は、大脳を経由する知覚よりも身体的反応がはるか に早い。皮膚が音を聞き、光を見ている可能性も指摘されている。聾のダンサーである庄 崎隆志さんが実践しているという「nonverbal communication」(言葉を用いないコミュニ ケーション)についての話は印象的であった。人間の身体反応のうち、言語の占める割合 は7パーセントにすぎないと庄崎さんは語っていた。物理的には、振動によって空気の密 度の圧力差が生じ、これが波動となって音が伝わる。人間の可聴域は限られるが、耳だけ が音を受容しているわけではないのだろう。音は、より広くは媒質の圧力変化の移動であ り、音の波を運ぶ媒体は、空気だけではなく水や個体でもある。海の中が音の世界である のと同様に、大部分を水が占める人間の身体もまた音の世界であるだろうし、意識のまだ ない胎児は音にしっかり反応するという。聾の庄崎さんと徹さんのパフォーマンスは、耳 をほぼ介さない身体感覚を通じての高度なコラボレーションが、ほぼ完璧に達成されうる ことを実演している。表現が伝わるためには、何らかの力動と身体的認知が必要だろう。 存在自体が何らかの記号としてはたらき、何かを振動させて伝える波動を秘めているのか もしれない。
徹さんは無意識を意識した実践方法の一つに「ミラーニューロン」を取り上げている。 脳内ミラーニューロンは近年の重要な発見の一つで、自分がある行動をするときに活性化 するのみならず、他人がその行動をするのをみたときにも活性化する。たとえば他人が泣 いていれば直ちにその悲しみが理解されるのは、ミラーニューロンを介し、無意識的なレ ベルで他人の情動がシミュレートされるプロセスがはたらくからだという。ミラーニュー ロンは、他者がいかに理解されるかを説明するプロセスの一つであり、世界が自他に共有 されるための鏡として機能しているようだ。『ミラーニューロンの発見』の著者マルコ・イ アコボーニは、ミラーニューロンが「私たちが決して孤独ではなく、互いに深く連結する ように生物学的に配線」されていることを示すと語る。喜怒哀楽を超えた表現領域に達す る高度なコラボレーションや、聴衆と一体化した場の形成において、ミラーニューロンは 大きな意味をもつだろう。
また、マイケル・ポランニーが『暗黙知の次元』で示しているように、ある創造や発見 がもたらされるに際し、意識化されず明確に言語化されない領域において、複雑な制御を 行う知的なプロセスがそれ以前にすでに作動している。思考することは、言葉の合理性の 意識的追求であるばかりではなく、そのこと自体が無意識におけるポテンシャルを発揮さ せている行為なのである。したがって個性は、思考や言葉の表現においても反映される。 柔らかい思考は身体性を十分に引き出しているといえるが、思考の硬直化は身体の硬直化 でもある。
無意識を意識することは、形骸化された「常識」や、硬直し閉じられた「自分自身」を いったん解体し、個性のポテンシャルを柔軟に引き出す「気づき」を得るために重要であ るだろう。
4) トンネル掃除
身体に聴くこと、無意識を意識していくことは、「自分の体、心を所有しないこと」の出 発点としてあり、「私」が支配する日常を捉え返し、存在としての「個性」に立ち返ること につながる。その意識的な鏡でもあり身体的媒介となっている重要な要素として「音」が ある。
徹さんは個性を「トンネル」にたとえている。その形状は人それぞれ多様に違っている が、「日ごろからトンネル掃除をしておく」ということは、「常識」を疑い、「自分自身」を 見つめ直し、個性が発現されるための通路を日々新しくしておくということだろう。この ことによって、個性を通じた表現に自由度がもたらされる。ワークショップはこのような 個性から発現してくる表現を考え、実践するための場であった。そして、その基本的かつ 重要な方法こそが、ワークショップを貫いていた「即興」というあり方である。「常識」や 「自分自身」を対義語とした「即興」の諸様相について、最後に考えてみたい。
IV. 即興に生きる
1) 「いま・ここ・わたし」
即興は、時間と空間を同時に含む「現在」を、「個性」が動的に生き続けることによって もたらされてくる「場」と考えてよいだろう。それだけに、個性が置かれている「現在」 の様相が、即興を通じてみえてくるともいえる。ここまでの立場からすれば、個性とは「か けがえのない存在」のことであり、個性を生み出しているものは「根源的自然」であった。 したがって即興は大きくいえば、かけがえのない多様なすべての存在が、自然の力動を通 じて、「現在」を共有しながら自然に交わって生成される場といえる。
「現在」には意識や無意識の感覚が多様な形で入り込んでいるが、微細にみれば、この 「現在」の場は、意識のなかの「私の世界」の入る隙間が最小限であるような「一瞬」と しての「いま・ここ」へと凝縮される。意識のなかの「私」に対して、意識を前提とせず、 一瞬一瞬に変化する知覚や感覚を介して場にひらかれる「身体性」を「わたし」と記して みよう。
神経科医でもある V・V・ヴァイツゼッガーは、生体が生存を保持するために、刻々と変 化する環境との接触面において、内部をその都度組み替えながら環境との関わりを維持し ているような生体と環境との流動的な関係性を「相即(Kohärenz)」と名付けている。「い ま・ここ」は、時計の時間や数学的な座標軸とは無関係にあり、この「相即」にも似て、 生きている「わたし」が場との接触面で絶えず生成・消滅を円環する行為において発生し ている。他の捉え方をすれば、「いま・ここ」は、写真を撮っているときのように「わたし」 が場に出会う一瞬の身体的「記憶」とも考えられる。いずれにしても微視的にみれば、即 興は「わたし」が「いま・ここ」を生きるプロセスを通じて、一瞬一瞬、変化しながら表 現される場の生成であり、「いま・ここ・わたし」は即興の中核をなしている。
さて「即興演奏」は、即興のプロセスを音を媒介として時間的に行うことである。音楽 における時間は、時代や文化・様式、個人の演奏家・作曲家を含め多様にとらえられうる が、音は内的な時間を起動させる契機であり、また音は「聴く、待つ、信じる」こと、「身 体に聴く」ことを介して自然の力動を呼び込み、身体と宇宙をつなぐ。したがって即興演 奏の場では、凝縮された「いま・ここ・わたし」の時間的持続によって、次項にもみるよ うに「根源的自然」が発現されてくる。「いま」という時間軸においては過去の記憶や未来 の想起を、「ここ」という空間軸においては様々な「すがたかたち」を呼び込み、「わたし」 という身体性は個性を通じて多様な形となってあらわれる。そして「いま・ここ・わたし」 の純度を深め密度を高めることができれば、広く深く時空を自由に行き来することが可能 になるだろう。根源的自然へと回帰する密度の高い「一瞬」が持続し、場に刻々とひらか れ続けることを通じて、「いま・ここ・わたし」は「いまでもない・ここでもない・わたし でもない」時空へと跳躍していく。逆にいえば、多様な時空が「いま・ここ・わたし」に 飛来し、「現在」に到来してくるということになる。
さらに深めるなら道元の「有時」のように、存在することが時そのものであり、場その ものであるような未分化な時間は、刻むこともなく過ぎ去ることもない。写真に永遠の時 間が定着されているようにみえるのと似て、こうした次元の時間には、はっきりとした始 まりも終わりもない。非生命も含め、存在の交差自体が時間であり場であるような時空で は、音の有無にかかわらず、音の鳴る前からすでに即興状態のなかにあるということがあ りうるし、終わりもまた同様であろう。
このように即興の時間が成熟していくとき、場との相互作用が刻々と微細に変化しなが らも、「いま・ここ・わたし」が場の背景に重なるように蓄積し、場が広大な時空へとひら かれ、日常的な存在感覚が深く変容した「現在」があらわれだす。即興において、誰が誰 の音を発しているのか、演奏者さえもがわからなくなるような状況は、「現在」の深まりを 反映しているのかもしれない。また、日常をも即興そのものとして生きている表現者は、 即興演奏の初期状態からこの巨大な「現在」に身を置くこともできるのだろう。
2) 「無」に還る
異なる視点からみれば、「いま・ここ・わたし」においては、過去と未来、心と身体、意 識と無意識、主観と客観、精神と物質、能動と受動、部分と全体、自己と他者、生と死な どの、日常的意識において二分され対立してとらえられがちな事象が、未分化のまま感覚 に混在している。したがって、即興演奏が「いま・ここ・わたし」の高い密度を持続しな がら場が深まるにつれて、日常的意識において矛盾している諸要素が、身体的次元におい て深く解消されていく可能性がある。小林昌廣は『病い論の現在形』において、哲学者、A・ N・ホワイトヘッドの「時成」あるいは「時間化とは実現である」という言葉を引用し、「生 体は来るべき未来をも孕んでいることで、永遠に動き続ける“ちから”を与えられているのだ。 その“ちから”の源泉、トリガーとして時間が位置づけられている」と述べ、さらに、時間が 与えられることによって、物質のあらゆる振る舞いが内部へ、そして外部へ爆発し、生命 をめぐる様々な二項対立が侵食し合い、奪い合い、与え合うカオティックな世界へと発散 するとしている。
非線形科学からふたたび言葉を借りるなら、生命活動の根源には未来予測のできない「カ オス」が存在し、カオスから新たな創造が創発される。生体は極めて複雑な運動を呈する 「ゆらぎ」にあふれており、環境からの影響に対して、ある範囲内でゆらぐ状態を保つこ とによって柔軟に対応している。即興演奏では、音によって駆動された時間のなかで、音 の波動にゆらぎ続け、場の変化に柔軟に反応し合う身体を通じて、日常的に分断されている意識のあり方が渾然一体となってカオスへと包容されていく。ここでカオスを「根源的 自然」と言い換えることもできるだろう。
そして、即興のプロセスが自然に反復し、場の変化と充溢を経て時間が十分に熟成され、 「いまでもない・ここでもない・わたしでもない」世界に場が十分に満たされ、意識の矛 盾を一切に引き受ける根源的自然へと場が十分に導かれたとき、音は沈黙し自然に還って いく。音の帰還の様相もまさに自然のうちにあって、場全体において音の終わりが察知さ れる。音の背後に蓄積し、充満してきた純度の高い根源的自然が、音の波動の余韻、音の 余白に残されるように感知される。このとき場の「現在」は、音の無い無限の世界、あえ て言い換えるなら「無」の充溢した波動のなかに揺れている。静寂のなかで「無」がうご めきながら、音の聞こえない音楽を奏でている。徹さんの言葉を借りれば「音楽は音楽が 終わったときにはじまる」のかもしれない。音の無い「現在」が「無」と同化し、日常の なかの「私」が「無」のなかへ還っていく。あたかも演奏後にあらわれた何かを感じるた めに即興演奏がなされた、そういう感触が残る。意図できるものではないが、このような 「無」の出現と感知によって、心や身体の矛盾や葛藤、あるいは、無意識にあった差別感 覚すら氷解するのかもしれない。
重要な例を一つあげるならば、心と身体を独立の実体として捉える二元論的な考え方は、 とりわけ西洋近代以降から現在に至るまで、生活のなかに知らず知らずのうちに浸透し、 心と身体、あるいは精神(主観)と物質(客観)は、切り離されて意識にとらえられがち である。思考にとっては好都合な場合が多いが、実際には、心と身体は互いに様々に大き く影響を与え合っていることは十分に実感されるため、心と身体は切り離すことはできな い。こうした「心身問題」を乗り越えようとする思想は、古今東西様々にみられるし、量 子力学によっても、主観性から完全に独立しているような客観性が否定されつつある。自 然は論理の言葉では説明しきれないのだろうが、即興演奏においては、完全な「心身合一」 や「解脱」ではなくとも、日常的意識において分離され、あるいは「私」に所有されてい る心と身体が、あるがままの心身の自然へと還っていくプロセスを感覚的に実感しうるの ではないだろうか。一時的な自己発散やカタルシスではなく、心と身体の様々な矛盾や葛 藤が「カオティックな世界」、つまり「無」においてむしろ透き通るように一体化する。
ここまでをまとめれば、即興演奏においては「いま・ここ・わたし」の時間的成熟を通 じて「いまでもない・ここでもない・わたしでもない」場が出現し、意識において分断さ れた世界がその本来的な故郷、つまり未分化な根源的自然へと誘われる。「いま・ここ・わ たし」を音にひらきながら生きることによって、「現在」には日常では思いもよらないほど の広大な領域があること、「現在」が深淵な時空において生起していることが実感され、心 身の矛盾や乖離が「無」のなかで大きく緩和されうる。こうして、即興を通じて「根を持 つことと、羽を持つこと」を実感することが可能になる。
3) 身体をひらく
即興行為の実践において基本的に問われることは、何よりも「自然」と「現在」を介在 している「個性」を十分に発現させるために「身体をひらく」ということだろう。すでに みたように、三つの言葉は「自然」や「個性」に密接に関わっている。日頃から音を身体 的感覚を養う契機として意識し、心と身体を所有している「私」から離れ、矛盾をこえた 根源的自然において、自分自身を捉え返していく実践をしておくことは、「わたし」すなわ ち「即興的身体性」を日常的に養っておくことに等しい。先にも述べたように、ワークシ ョップはこの流れに沿うように、はじめに言葉で大事な点を考え、次に、その考えを身体 に降ろしながら身体から何かを発見する、つまり「身体に聴く」こと、「無意識を意識する」 ことを通じた実践を行ったのちに「即興」が行われていた。即興の実践の前に、深い場所 で自然と身体を交通させ、身体的ポテンシャルを引き出し、「身体をひらく」ために必要な アプローチがなされていたといえるだろう。
では、即興のあとの「ふり返り」はどうだろう。先に述べた『荘子』の音に関する記述 においては、師が「机にもたれて天を仰いで大きな息を吐き、呆然として、いっさいの相 手の存在をわすれている」状況に対し、弟子がなぜそのようなことができるのかと問い、「わ れを忘れていたのだ」と師が答えることに続いて、根源的自然のはたらきとしての「天籟」 の教えが説かれていく。思えば、既成意識にとらわれず、心と身体を空しくして、ただた だ自然のなかに身体が夢中になっているような場において、身体がひらいていたと後から ふと意識されることがある。それができていたかどうかは、後に自分自身をふり返ってみ たときに初めて、あいまいに追認されることだろう。即興行為を最後にふり返ることは、 内容の言語化だけではなく、単純に良し悪しを感覚的に追憶することにおいても大切なの である。
即興の実践は、うまくいくとは限らないし、実際うまくいかないことも多い。「身体をひ らく」ことは、身体をひらこうとする意識によって拒まれることもある。「身体をひらく」 ということは、正確には「身体がひらいている」ということであり、心身とその表現が渾 然一体であるような自然状態が、場にもたらされていることだろう。「あるがまま」は簡単 そうにもみえるが、自分や他者を過度に意識したり、場を過度に対象化すれば、場が「私」 に支配され、「わたし」という身体性がひらかれる場は狭くなる。たとえば「自分の世界」 「技術のための表現」「意図的な効果」のような表現行為は、表現者の意識によって場が歪 曲し分断される可能性があるし、個性の自由度が遠のくことによって、「いま・ここ・わた し」が希薄化し、場の「現在」が萎縮するかもしれない。即興が、あらかじめ何らかの「即 興イメージ」に縛られてもよくないこともあるだろう。即興は「先鋭的であること」や「破 壊的であること」とは全く次元が異なる行為であり、即興をあらかじめ形容することもで きない。こうして語ること自体が、即興を何らかのイメージに囲い込む意味において矛盾 している面もあるだろう。難しく考えないことが大事なことも多い。うまくいかなくとも、 実際に試していく中で、体得していくことが大切なのだろう。
即興はもちろん音楽だけにあてはまるものではない。即興表現を真摯に行ってきたダン サー、矢萩竜太郎さんの身体表現を久しぶりに拝見したが、そのダンスは快活で生き生き としていた。即興の探求をしつつも、即興という枠に個性が安住せず、技術の有無や意識 のあり方を超えた身体性としての「わたし」を保ち続けているようだ。即興の実践の積み 重ねが「生き生きとした歓び」、そして大きな「生き甲斐」につながっていると感じた。
生命感覚を生き生きと実感し新鮮なものにするためには、横方向の自意識に縛られるこ となく、意識を無意識から垂直方向に立ち上げ、身体的記憶を意識のなかに引き出し、そ れらを再び身体に降ろしながら、身体の「知恵」としていく往復運動が必要なのかもしれ ない。楽器を演奏するときにも重力は大きな意味をもつが、重力の場において身体を立ち 上げることは、生への意思としての身体表現であるし、垂直に立っているということは、 少し体が傾けば自ずから体が動き出す場の生成起点でもある。そして、自然の宿命に抗す る人間の表現として、「立つ」ことは基本的な身体的力動であろう。野口三千三は『原初生 命体としての人間』のなかで、立つことには広い意義があるとした上で、「より解放するこ とによる、より新しい可能性の獲得」にその重要な意味を見出している。
生きている身体の軸や重心を感じながら、天地を行き来する往復運動を介し、縦方向に エネルギーを循環させていくこと、その動きにひらかれ、個々の身体を通路として表現さ れてくる形にこそ、人間の内的な力動としての自然が表出された個性があらわれてくるの かもしれない。ダンサー、岩下徹さんの「新しいものはなく、ひらき続けるしかない」と いう言葉は重い。自然のなかで自らを十分にひらきその形に正直になることは、目新しさ を追求することや、他者との表面的な差異を競う自意識を高めることよりも、はるかに深 く個性を発現し、表現するだろう。
即興においては、いまここにある身体の直接性を介し、その深みにおいて身体をひらき 続けていくことによって場に新鮮な波動を与えていくこと、同時に場の波動を感受してい くことが重要であろう。
4) 存在の交わり
私の行っている日常診療において、時々ではあるが、自閉症の患者さんが皮膚の問題で やってくる。学ぶものは大きい。診療していると、横方向のコミュニケーションに関して は、その身体に社会性という外套を横から装着することによって、むしろ交通しにくくな るような感じを受ける。言葉による伝達が不得手であるとしても、存在はむしろ決して閉 じてはいない、あるいは閉じることができないという印象を受ける。直接的で強い存在感 が、そのまま個性となって場にひらかれるように発現され、場を介したコミュニケーショ ンへの意思を感じることも多い。その身体の場にひとたび入ることができれば、身体的な 交感が少しずつ可能になる。しかし場に入るためには、私自身が身体をひらき、相手を信 じて、自らの存在としての個性を場に十全に発揮できていなければならない。言語的コミュニケーションを意識的に取り戻そうとすることによってではなく、私が言葉で呼びかけ たり、相手の気持ちを読み取れるかどうかという意識経験とは異なる次元において、言語 的確証や裏付けのないまま、“nonverbal”に「ただ感じる」ことを通じて場が共有される。 存在どうしの触発を通じて、伝えたいことが伝わっていることが納得されるのだ。そして コミュニケーションがうまくいっているという実感は、診療の回数を重ねるごとに徐々に 確信されてくる。「いる」という存在そのものの交わりは、場の密度が集中して高まり、深 い「現在」があらわれる点において即興的であるように思われるし、コミュニケーション とは何か、伝わるということはどういうことなのかと考えると、言葉には還元しえない根 底的で感性的な次元が、どこかで作動しているように感じられる。
また、かつて自閉症の人の描いた絵画を前にしたとき、極めて即興的な印象を受けたこ とがある。全体をみながら部分を配置していくのではなく、細部の構造化が集中的に反復 され全体に自由に広がり、一枚の絵画という場が生成されていくような印象をもったから だろうか。即興は構造化の手前の領域にあって、コンポジション(作曲)への通路そのも のなのかもしれない。動的な生成過程における一時的で静的な定着がコンポジションであ り、コンポジションを足がかりとした即興性も当然あるだろう。医学的症状を観察する際 においても、見立てや診断という医学所見の構造化のまえにある「暗黙知」の次元におい て、即興的身体は、自他の交わる場を生成し、患者内部に生じている何らかの「ずれ」、そ の声に触れるための大きな通路となっている。生体は、常に即興を生きながら変化し続け ている多次元の存在である。見立てや診断は、生体の「現在」をあたかも写真のようにと らえ、医学的な介入の必要性を見極めるために設置される仮の足場の一つなのである。
即興を日常的に変化する「生」そのものの交わりとして考えれば、即興の照らし出す世 界は広く、音楽やダンスにとどまらないだろう。存在が交わるとき、どのように場がひら かれるのか、あるいは場が閉ざされてしまうのか、即興は、そのような交差のあり方を肌 で感じ取る「身体的倫理性」を帯びた行為といえる。即興を意識していくことのなかに、 社会道徳や常識とは次元の異なる倫理的価値を見出し、生活の場に生かすこともできるだ ろう。教義的な倫理ではなく、身体に密着する具体的な倫理性を即興は培う。ワークショ ップは、自他の身体的関係性のあり方を自然に体感し、学ぶための機会でもあったように 思われる。
5) 匿名性の世界
個性と個性が接触する即興の場は、存在における「対等」な身体的コミュニケーション の時空である。この意味では、いわゆるプロもアマも「同格」といえるのだろう。表現者 と聴き手、場の全存在が、個性を発揮しながらコミュニケーションに参画しているといえ る。即興の場においては、身体表現における交差が、意識の衝突ではなく身体的な「発見」 の契機として、お互いの意識の矛盾を受け入れるような場にひらかれている。「私」という自意識が揺るがされて、「私」に規定されない新しい側面、ふだんの自分自身とは思えない ような何かが身体感覚に発見され、自他の境界がぼやけはじめる。そのなかに新しい個性 が立ちあがってくる。互いが新鮮に通じ合うような「出会い」の可能性に場がひらかれ、 個性の出会いが自他の境界を曖昧にしながら、互いの身体感覚を交差させていくのである。 こうして生きた個性が深く「交感」し合うプロセスを通じて、次第に生命が「共振」する 次元へと場全体が導かれていく。
即興がこのようなプロセスをたどるとき、もはや個々に閉じた主張・表現において場が ばらばらに分断されているのではなく、場自体が生き物と化し、全体として「同期」し、 何ものかが場を導いていくような感覚が生じてくる。徹さんが画家、小林裕児さんととも に続けてきたライブ・ペインティングにおいて、「絵画を聴き、音楽を観る」というような 通常では意識されない感覚が生じてくることも、こうした深い身体の交感や共振、場の同 期を介して知覚にのぼってくる事象なのかもしれない。
さらに、このように自意識が相対化されながら次第に消滅していくなかで、「私」のいな い「匿名性の世界」がもたらされる。匿名性の世界は、人間が名をもたない、生まれたば かりの豊かな根源的自然を宿している。即興の大きな醍醐味の一つは、こうした「生まれ たての世界」の経験にあるといっても過言ではないだろう。
だが一方で、匿名性の世界は、むき出しの自然の力、音の巨大な力が無条件に渦巻いて いる際どい世界でもあるだろう。即興が生の積極性を保ちながら「無」へと帰るのではな く、そうした強い力によって場の破壊、つまり場が「死」へと向かう可能性がないとはい えない。「無」が「生死」を含み込むのに対し「死」は「生の否定」ともいえる。即興とは 「なんとかすること」だというサックス奏者、ミシェル・ドネダさんの提言もまた重い。 即興においては、身体を状況に応じて制御する意識をどこかに残すことによって、場の倫 理性を身体感覚からその都度発掘し、うっすらとした意識にのせていくことがどこかで求 められている。刹那的な「いま・ここ・わたし」を、より幅と奥行きのある「現在」にお いて、場をおぼろげに広く捉え返しながら意識していく必要が生じる。こうした意識と無 意識の間にあるいわば「半意識」は、「いま・ここ・わたし」を音の巨大な力に拮抗させ、 場の矛盾を交差させ、逆境をチャンスに変え、厳しくも自由な通路へと場を切り開くため に重要なのである。
《MLT トリオ》京都公演では、無意識に近い「半意識」を感じた。ありのままの身体行 為としての演奏なのだが、「聴くこと」が無意識的な身体反応を直接呼び寄せると同時に、 非常におぼろげな意識の皮膜を場に形成している。決まりごとでもなく、予定調和を目指 すこととも全く異なる自然の倫理そのままに、「いま・ここ・わたし」を基盤とする動的な 音の場において、音の自発的な秩序形成と消滅が繰り返されながら、「現在」が変化し深ま って、音が根源的自然へと還っていく。音は「無」のなかに生きつづけ、その場に参加で きず不在であった徹さんがみえてくるのだった。
徹さんは「半眼微笑」ということを実践方法として取り上げている。徹さんが敬愛する詩人、吉田一穂の論考『黒潮回帰』のなかの「半眼微笑」と題された文章において、一穂 はこう記している。「微笑は微笑を誘う。(中略)微笑は熱情の力の中心部に触れて、他人 の苦痛をも癒してやる。しかるに半眼は冷視であり、きびしい。それは疑念であり、拒否 でさえある。この微笑と半眼の矛盾を、一如の面とした仏顔の秘密こそ、藝術の制作原理 となる」。「半眼」とは目を半開きにし、特定の部分に焦点をあわせない「半意識」として の空間全体へのおぼろげな制動性を示し、「微笑」は、たとえば先に言及したミラーニュー ロンを介し、柔らかい身体性を場に生じさせる。「半眼微笑」は、半意識的な身体性を介し て、矛盾を同時に行う倫理的実践方法を示す言葉として興味深い。こうした実践の反復は、 即興における質の高い身体的倫理性を培うだろう。
6) 人生
すでにみたように即興は、相反し矛盾しているような意識を、理性的解決とは別様に深 く緩和しうる。この意味において、即興は、「私」のかかえている矛盾を超え出る「自由」 をもたらす。また即興は「いま・ここ・わたし」、そして自他に共有される「場」を通じて 根源的な自然の声に触れ、大きな自然の摂理としての命、社会に生きている自分自身を感 じ取る行為でもある。この意味において、即興は、有限なる命、人間の生の諸条件を深く 感知しながら、人生において自由とは何であるのかを問い、生きるための「自由」を真摯 に求めていく生の倫理を含みこんだ行為といえる。即興は「いかに生きるか」を問うので ある。
また、即興においては、大きな自然を背景として場が生成されていくプロセスにおいて、 人間の小ささや弱さへの自覚が促される。自然に「生かされている」身体から滲み出る、 かけがえのない存在としての個性が身をもって感じられ、存在への「敬意」が自然に実感 されてくるのだ。ダンサー、ジャン・サスポータスさんがゆっくりと歩いている、ただそ れだけのことなのだが、生の肯定感に満ちたその姿は、豊かな自然と命の尊厳に満ちてい る。自然のはたらきのなかに生みおとされ、死すべき宿命をもつ存在であり、またその存 在が深い生命に根ざしているからこそ、人は、個々の生命がはかないものであり、貴重な 存在たりうると感じとることができる。即興は深く「命」を喚起する。
このように、即興は、「人生」を深い自然において感じとるための契機なのである。
7) 出づる場
徹さんの掲げた三つの言葉で即興をあらためて表現すれば、「音を意識した生活」を通じ て身体性を培い、「自分の体、心を所有しない」実践を通じて、「根を持つことと、羽を持 つこと」を実感するプロセスということができる。
意識のなかに「私」を純化させ深めれば深めるほど、逃げ出したくなるほどの孤独におそわれることがある。孤独に追い込まれるような社会の現実もあり、孤独に輝く表現の世 界もあるだろう。しかし即興は、新鮮な場を生成し、場を共振し共鳴させながら自他の境 界を緩和し、根源的自然への接触を通じて存在をひらき、人々の個性を多様に引き出す。 そして個性の「出会い」を契機とする交感を通じて人々を創造的につなげ、生き生きとし た「生き甲斐」をもたらす可能性を秘めている。自然に即した倫理性を含み込む即興を実 践し、匿名性に輝くかけがえのない存在として新鮮な自分自身を再発見し、人生の豊かさ を感じながら生きることができるかもしれない。徹さんの話を聞いていると、命の共鳴を 支える即興が結晶化した一つの形が、「うた」であるようにも思えてくる。
闘病中の徹さんを貫いた力動がひらいた大きな即興の場、それがワークショップ『寄港』 であった。だからこそ「いずるば」で何かが生起し続けたのだろう。何かが出づる場から フィードバックされた新しい「わたし」を「いま・ここ」にふたたび生きていく、そうし た螺旋的な生の軌跡が「いずるば」に刻まれた。即興における「実感」は、私の言葉の理 解よりもはるかに豊富であることは言うまでもない。ワークショップは、それぞれの参加 者に様々な形で伝わり、それぞれが何らかの根源的な問いを発見する大きな契機となった にちがいない。
最後に、アンドレイ・タルコフスキーは『映像のポエジア』のなかで、「芸術の目的は、 人間に死に対する準備をさせる事であり、人間の魂を開拓し、柔軟にし、人間が善に目を 向けることを可能にすることにあるのである。」と書いている。音楽をはじめとする芸術は、 死を鏡とした際どい領域に人間を照らし出しながらも、その小さく弱い魂に、生死を超越 した勇気と希望を与える。芸術の役割は大きい。
2018年4月某日
南谷洋策
【参考図書】 本文に引用したものの他、執筆にあたり参照した文献を列記する。
『非線形科学』蔵本由紀、集英社新書、2007
『新しい自然学』蔵本由紀、ちくま学芸文庫、2016
『混沌からの秩序』I・プリゴジン/ I・スタンジェール、伏見康治/伏見譲/松枝秀明訳、1987
『医学への招待』川喜田愛郎、日本看護協会出版会、1990
『死のレッスン』石田秀実、岩波書店 、1996
『臨床医学の誕生』ミシェル・フーコー、神谷美恵子訳、みすず書房、1969
『荘子』森三樹三郎訳、中公クラシックス、2001
『無絃の琴』良寛/野呂昶編、すずき出版、1984 『皮膚-自我』ディティエ・アンジュー、福田素子訳、言叢社 、1996
『皮膚』クラウディア・ベンティーン、田邊玲子訳、法政大学出版局、2014
『胎児の世界』三木成夫、中公新書、1983
『生命とリズム』三木成夫、河出文庫、2013
『めぐり逢う朝』パスカル・キニャール、高橋啓訳、早川書房、1992
『常用字解』白川静、平凡社、2003
『神々の沈黙』ジュリアン・ジェインズ、柴田裕之訳、紀伊國屋書店、2005
『気流の鳴る音』真木悠介、ちくま学芸文庫、2003 『自我の起源』真木悠介、岩波現代文庫、2008
『驚きの皮膚』傳田光洋、講談社 、2015
『音のなんでも小事典』日本音響学会編、講談社ブルーバックス、1996
『森は考える』エドゥワルド・コーン、奥野克巳/近藤宏/近藤祉秋/二文字屋脩訳、亜紀書房、2016
『ミラーニューロンと心の理論』子安増生/大平英樹編、新曜社、2011
『ミラーニューロンの発見』マルコ・イアコボーニ、塩原通緒訳、早川書房、2011
『暗黙知の次元』マイケル・ポランニー、高橋勇夫訳、ちくま学芸文庫、2003
『時間の本性』植村恒一郎、勁草書房、2002
『ベルクソン=時間と空間の哲学』中村昇、講談社選書メチエ、2014
『正法眼蔵(二)』道元、水野弥穂子校注、岩波文庫、1990
『正法眼蔵の哲学』田中晃、法蔵館、1982
『音楽的時間の変容』椎名亮輔、現代思潮新社、2005
『若き古代』木戸敏郎、春秋社 、2006
『からだ・こころ・生命』木村敏、講談社学術文庫、2015
『ゲシュタルトクライス』ヴィクトーア・フォン・ヴァイツゼッガー、木村敏/濱中淑彦訳、みすず書房(新 装版)、2017
『病い論の現在形』小林昌廣、青弓社、1993
『心の哲学』信原幸弘編、新曜社、2017
『時』渡辺慧著、河出書房新社(復刻新版)、2012
『黒い言葉の空間』山田慶児、中央公論社 、1988
『原初生命体としての人間』野口三千三、岩波現代文庫、2003
『「自然」の中の「反-自然」』大橋良介、文明と哲学5、こぶし書房、2013
『自閉症の現象学』村上靖彦、勁草書房、2008
『レヴィナスコレクション』エマニュエル・レヴィナス、合田正人編訳、ちくま学芸文庫、1999
『多としての身体』アネマリー・モル、浜田明範/田口陽子訳、水声社、2016
『人間の条件』ハンナ・アレント、志水速雄訳、ちくま学芸文庫、1994
『吉田一穂全集 II 』吉田一穂、小澤書店、1982
『映像のポエジア』アンドレイ・タルコフスキー、鴻英良訳、キネマ旬報社、1988