由布院 yufuin(3)2009

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眼は思考を鍛え
風景は心に宿る
眼の束縛は思考をもたらし
心の解放は風景を解放する
そのような趣旨に感じられることを
一昨年少しばかり旅をしたポルトガルの
詩人フェルナンド・ペソアは
書いていた
そして感じることが
最も優れた知性であると
昨年少しばかり旅をしたスペインの
詩人ガルシア・ロルカに
教えられた

感じるためには
心のはたらきがなければならない
感覚を窓として世界を映し出すのが心ならば
心がどこにどうあるのか
心が私であるときも
心が私でないときも
心はどこかにただよい
存在している心からほうり出されては
心の存在に戻ってくる
私の心はいま
そう感じている

詩の善し悪しよりも詩人の生き様が
はるかに大事であるように感じるのは
ほうり出された心のあり様を言葉でつなぐ
心の存在をつなぎとめる言葉
生きた身体が言葉に実を結ぶ
言葉の響きと形が
心のあらわれた
生きるための詩であるからだろうか
詩人の推敲を重ねる心の時間に
私が心を砕くことは
生き様のなかに何かを学ぶための
私が生きるための行為
心は風景でなく私でない何かであり
感覚は心の
身体の窓である

古き良きものに身体を浸し追求していくなかにも
新しい問いに開かれたあり方を追求していくなかにも
詩が死をかけた生き様であるのと同様
変わらない場所があるだろう
その場所に
いつも耳を傾けるなら
どこかでみた風景も
まるでみたことのなかった風景も
いまここにおいて
離脱してはずれて回帰し
消え去っては再び迫りくる
心に蘇生していく
心の存在をつなぎとめる
風景でありうる
音でありうる

困難であるとしても
鮮やかな感覚
人間の知性の根幹
素晴らしくかけがえのないものごとは
心の感覚の
蘇生とともに
いつもある
そういう場所で
何か行為するなら
無花果のように
何か開ける