MALAGA (spain)

málaga(6), spain 2008

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当直帰宅後に写真を延々とやっていて頭も回転していないけれど、 写真プリントの合間の一息に書き出してみる。ひとまず明日までに一通り個展用のプリントを終えようという目標をたてている。そうしないとできても一年に一度の自分にとって大事な発表の場の時間が、薄まってしまうのが嫌なのだろう。私の場合、期間中とかその直前に何が起こるかわからないこともあって、今くらいがちょうどいい。あんまり前にやっても集中しにくいし直前にあわててもよくない。文字通り忙しいけれど、環境はこれ以上ないだろう。ありがたい。

そして同時に、自分が大事と思うものを自分のやり方で自分の頭を使って、そして何よりよき他者の知恵と助けを借りて貫いてきた、そうしてきた自分にこそまず誇りを持たなくてはならない。そうした他者の知恵の言葉は、一体誰のどのような言葉だったか、思い起こしてみれば、私の場合、あまり目立たない人たち、たとえ社会的に上にいようがいまいが、影で何かを支えているような方々の言葉だ。私が生きる道を失っているとき、私を信じて本気で心配してくれていた人たち、私にそうではいけない、そうではない、それでいいとささやくように語りかけてくれた人たち(言葉を持たない他者も)、そういう方々の親身の言葉たちに私は支えられて生きている。これからもそうだろう。そうだから、たとえどんなことが起こったとしても、少なくとも自分自身の納得しうる最低限のことを始まりそして終わるまで精一杯しないといけない。

たまたまここに生まれた、たまたま生まれたからこそ無限の生の重みを持っているはずの自分が生きてきたこと自体が、よくよくしてみれば奇跡なのだ。人はそれぞれ誕生し、死んでいくまでにその人の生としか言いようのない時を生きる。 字面の感傷に甘んじるのではあまりにも茶番劇なのだろうが、人生という劇場の裏側にあって、それを支えている根底的な生そのものの哀愁、そういう思いをこの機会を通じて十分にかみしめることの方が断然、私の真実に近い。 人生劇場が下手をすれば茶番劇となり、上手くすればその劇場に花を添えることもあるのかもしれないような、いわゆる「作品」の善し悪し、他者の評価めいたものを得るか得ないかということよりも。

写真のために、音のために、その真実に再び分け入っていこうという思いで、今こうしている。




málaga(5), spain 2008

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途方もない毎日が続く

あまりに美しい光景
グラナダへの道は
まだ遠い

つもりつもった時間の蓄積
記憶を腹にためていく
そのような時間を大切にして
消化は違う身体で自然にする
といいたいところだが
身体は一つ

今週日本人ノーベル賞受賞で世間はにわかに騒がしかった
どなたかがインタビューに答えていた
文化としての科学を大切に
という言葉が印象にのこる

一つの権威をもって
近くにいる誰かに
遠くにいるかもしれない誰かに
のしかかるような重たい空気を
血の通わない冷酷な荷を
背負わすことのないように

聴く耳をもつことのできない
自己を顧みることのできない
腐食された権威をやりすごしつつ
通り一遍の成果主義から身を守り
通り一遍の能力主義に抗して
利己的遺伝子にまるごと支配されず
惰性に陥ることなく
他人の夢を我がものとせずに

生きなければならない技術をなくすための
生きるための技術を切磋琢磨すること

投げ出さずに闘い続けること




málaga(4), spain 2008

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バッハを繰り返し練習していてメモと反省。身体を労ることを怠らない程度に。まずは楽器を弾くこと。そうでなければ何も始まらない。

楽器を弾いてうまくいかなかいときにこそ、次なる段階が待っている。それは突然開けるから、何がどうあれすぐにあきらめない忍耐力は必要かもしれない。下手でも良いということではいけないが、うまく弾こうと思わなくともよい。いやうまく弾こうとすることのなかに大きな落とし穴があるといっても過言ではない。それでうまく弾けるようになったと思い込むくらいなら、下手であっても私が生きている内実をともなう方がよい。

音と音の真のつながりは音を聴くことのなかに生まれ、それは身体へと直結していく。そう書いてしまえば単純なことのようだけれど、大事なことを含んでいる。

音を流してはいけない。流している音のなかには自分の無意識があるのは確かだが、無意識を意識化するレベル、これはまだまだ浅いレベルなのだ。それに固執してしまうことも全く違う。

そんなレベルもやりすごしてまず音を流さないこと。流さないことのなかに(私の)問題点が浮き彫りにされる。それは楽器を弾く身体技術の問題点なのであって、意識無意識の問題ではない。できないことは閉じ込められやすい。できないこと、不可能なことを開放してやる技術が必要なのだ。それは「知の技法」ではなく、いわば「身体の技法」だ。




málaga(3), spain 2008

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写真はピカソ美術館の裏手にある大きな無花果の木
静かに佇んでいる

バックとカメラを預けてなかに入る
いい中庭

部屋に入ると
絵がそのまま額のなかにある
額縁はマットで縁取られていない
絵の周りの空間は
場をなしている

そして食い入るようにみる
ひいてみて眺める
みるみるみる
時間を最後まで惜しむように

そうしてもう一度
生まれたての筆づかい
ピカソがたった今書いたように
そこに絵がある
完結しない動き
あまりにも見事で感極まる

とくにひきつけられるのはデッサン
その筆に感じられる動きは
遠く深くあまりに人間的なために
完成されている状態その全貌をみることができない
細部のなかに
きっとさっと描いたに違いないその筆を感じ
一筆の数センチのなかに
さらに書き出しの
数ミリ単位の筆の
厚みと変化に感じ入るのだ
その筆と紙の接触のなかに
私の身体が入る
それはそう、


誕生

  色彩の
  形の
  物質の

  「アル」の

  音の


その筆は一気に円を描きモチーフを形作る
そこへいくあいだ
一人の人間の全存在が連なり
それはピカソの全身全霊を担った動き
意思と苦悩と
何時も何時も
生まれたての身体

創造と持続

昨日横浜美術館でみた源氏物語展
桃山時代の書の
筆圧と形のあまりの微細さと繊細さ
無論ピカソと同じではないが
両者を突き動かしているのは何か

人間であること

代表的な研究本は何冊か読んだことがあった
しかし私はピカソを知らなかったのだ
これまで何度もピカソの絵をみたが
本当には知らなかった
ということは
本当に感じてみていなかったのだった

今私はマラガの大気と光に囲まれている
ピカソの生誕地マラガ
歴史を背負った大気
生活の周りにある大気

ピカソはおそらく
他者を含み込んだピカソの生の現実すべてから学び
すべてをその絵に結晶し
ピカソを変化させてピカソを常に創造した

マラガ
他のどの地でみるよりもピカソの絵に惹き付けられるのは
多分あのピカソもまた一人の人間であったからだろう
ピカソの創造は文字通り
計り知れない

私はこの美術館で本当に幸福なときを過ごした





málaga(2), spain 2008

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夕方、初めて看護専門学校で講義をした。 必死に作成したスライド100枚を解説し、ひとまず役割を私は果たしたかどうか。講義の基本的知識に将来の実践がどこかで結びつくような、頭の片隅の片隅、記憶の端っこの末端にずうっとこびりつくような講義を心がけたけれど、私にとってはすぐに90分終了してしまった。学生さんたちには長かったかもしれない。再び記憶とはどのように形成されるのかと想う。学生さんたちは、熱意があっていい顔をしていて少し控えめ、そのような感じのよい方々が多い。なかには社会人を経て再度入学された方も多いと聞く。真剣なまなざしを数人から感じながらしゃべることは、自分によい緊張感を生む新鮮な経験で、我が初心を思い起こさせてくれた。

夜は看護師さんたちと勉強会をした。話しあって問題を共有し解決していくことが社会的実践においては求められている。 ほんの小さな勉強会も大きな意味と原動力を予備している。 医療には刻々と変化する現実に対応し、不確実な未来を予見予聴し、変化に身を投じ判断していくまさに「即興的」態度が求められている。さらに複数の人々が関わっているから、このような場には、人としてコミュニケーションをどのようにとるのか、それぞれの個人の信念と信念に裏打ちされた謙虚さ、他を想像し敬う心が大切であることは言うまでもない。 人間関係のあらゆるあり方を感じつつ模索することのなかに、自分に固執しつつも自分に固執せずにそこに身をおくことのなかに、 それぞれが中心でありながら中心がないような生きた運動の場を作っていくことが必要と思う。

私にとっての音楽や写真の実践は、一つには、社会的実践においてこのような場の形成を促す予備力としてあるだろう。 小さな勉強会もまたそのような場としてあるべきであるし知識の確認とはいえ、それは知り理解することのなかに一つの運動をもちこむことだ。それは人と人が対話することのなかの具体的身体であり、一人で本で頭に知識を貯える行為とはまた違う意味がある。




málaga, spain 2008

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飛行機着陸
乗客全員で
拍手
喝采
口笛の嵐

マラガの海
海のマラガ

そして、光
圧倒的な光
厚いのだが
どこか暑くはない光

大気と風は乾いている
そして光はどこかはかなく薄く暗い
カメラの絞り値も日本の日頃の感覚よりも半絞りは暗く出ているようだ
ギリシャそしてポルトガルでも同じ経験をして驚いたのだった

海面をちらつく光のハイライトは
光の反射そのもの
街の白壁をみれば
白色はゆっくりと変化する影ですらある
ここには光がある
光そのものが感覚にまず訴える

光は大気を身体としているのだった

白色の影
白色の含有する色が
白色のなかに変化して見えてくる
能面のように

全ての色を作り出すといわれる色の3原色RGB
そのような原色ではなく
ただただ人の手によってギトっと塗られている壁の原色
イモの葉の緑
生きた原色はひときわ眩しくみえる
そうしてずうっとそおっと眺めていると
原色が原色でなくなり
原色のモノクロがみえてくる
能面のように

光と地の身体である大気
その場所の大気はその場所の歴史を背負い流れる
大気を凝集する風土と時の流れのなかに
大気は循環しつつ停泊する

大気と身体の出会い
それは知と想像が感覚に移行する過程と
当地の感覚がさらに大気と相まみれて身体にしみ出し
光の身体すなわち大気を通り抜ける光と
私の身体が接することのなかに現出する
一つの摩擦である
その摩擦が既知の知と小さな想像力を揺るがし
時間をかけて知は心のなかに再び定着される
そうした心の反応はさらに身体へ降りてゆき
身体は内的に動く
その動きこそが見知らぬ土地との出会いだ
だが見知らぬというのは不正確だ
そこに私の意思がなければ
そうした出会いはない

マラガの大気を感ずること
それはマラガを知ることに等しい