GRANADA (spain)

granada(19), spain 2008

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かつての恩師に
心を静かにして
手紙を筆で書くことのうれしさ

恩師は師であり
先達であり
私より多くを生きた友人である

過去に出会い
そこから私を何かへと導いてくれた人
もういない人も数人はいる

過去にさかのぼることはできないが
初めて出会ったその時の様相は
形を少しずつ変えつつもじっとしている

昨年の個展の序文にこういう内容を書いた
「今ここを基軸として時の発露に還る」と
そのような時間が手紙を書くあいだにずっと流れている

広い「今ここ」にある私のなかのすべてから
一つの問いを見て聴きたい
それ以外に何ができるだろう

なぜこれを撮ってこうプリントしてこう選んで展示したのかということは
身体に私なりに厳しく向かうことによって終えている
展示した空間での楽しみや意義は
そこにあって私を離れた写真と私との対話そのもので
そこからやっと問いが生まれてくる
そのために写真を展示して
自分だけではなく他の方々の視線や聴覚にふれてやっと
写真は自由となり写真は故郷にかえる
音が消え去るように写真も消え去る
その方が良い面もあるかもしれない

コラボレーションといわれるものが難しいのは
どちらかがどちらかを表現しては台無しだということだ
逆に言えば両方の生きる身体が同じである
または拮抗しているということだけでよい
それだけに厳しい

写真に添える言葉も今は正確なことはわからない
あらかじめ写真の意図や写されたものを言葉にすることは難しい
身体を宿した言葉が必要だ

展示された写真そのものとの対話
写真の故郷から発せられる
その日々の問いを受けて音は変化するだろう
問いといっても言葉ではいえない
言葉で写真や音を限定できないことと裏腹に
あえて言えば
言葉と手がなければそこに写真や音も生まれてはこない
身体は知っているのだが
日頃は覆い隠されている問い
日常に直結する身体の奥深くを見つめることだ
厳しい面もあるが毎日演奏するのがよい
そして音のなかに言葉を聴くことだ

問いを見つめるためだけに
生きているなかに一時でも
個展のような静かな時間の流れがいる
私は東京を来年離れようとしている
できることなら静かな時間のなかに
しばし身を置きたいと思う




granada(18), spain 2008

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微かに明るい
影の夢




granada(17), spain 2008

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あまりに巨大なために見えなくなる
あまりに微細なために聴こえなくなる

日常のことをほんの20分だけ
本当に見て聴こうとするだけなのに
日常があまりにも豊饒だから
それはまことに困難なこととしてある

ジャコメッティがたしかエクリに書いたように
試みること、それが全てだ




granada(16), spain 2008

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フラメンコ

写真にうつっているこの踊り手の方を
いかに絶賛しても言葉が追いつかない
確かに観光客の多く入るグラナダのお店
だがそうだからこそということ以上の
完璧な自負に満ちていた
絶対的な私
だからこそ無限な可能性を秘める私
型のなかに自由をさらに変化させ
私の、私ではない全ての生を踊りに込める

壁には踊り手の写真が飾ってあって第一人者のようだったが
私はその方の名をその場で知りたくなかった
今も知らない
手元に写真が数枚あるだけだ
それほどの時間だった
写真中央の既に踊り終わった他の踊り手の眼差しは
真剣そのものだ

踊り手はある観光客に踊りながら突如
NO VIDEO!!と叫び注意を喚起する
一瞬場が静まる
ギターは平然と演奏を高め
踊り手はその叫びをも身体にこめる
叫びは肉体化されその意味を失うことで場が新しくなる

ここにはいわば通念としての倫理ではなく
得も言われぬ生の必然へと向かう倫理がある
このような生の倫理はどこへいってしまったのか
このような場において自らをまず顧みらなければならない

何かものすごいものを発している人に
真正面からカメラを向けて写真に写すのは
非常に労を要することはよく知っている
このとき写真を撮ったエネルギーは
かつて演奏を終えたエルヴィン・ジョーンズを楽屋で撮影した際の一瞬に通ずる
ものすごい緊張感を踊り手と私の間に感じていた
そして踊り手の身体のテンションは私のそれをはるかに上回っていただろう

私は私自身のために
数枚の撮れるか撮れないかの写真を通じて
この時間と対峙することがどうしても必要だった
撮ろうとしている私と撮っている間の私
そして踊りが終わって会場を出てからの私の心の変化が最も大事だった
自分を東京から遠くはなれたこの最高の撮影舞台で試したかったのである
たかが一人の観光客に過ぎない私のことすら
踊り手は最初から知っているかのようだった

店を後にし
アルハンブラ内のホテル・アメリカへの坂道を上った
夜は深まるだけ深まり
風の音が遠くから聴こえてくる
厳かな大気に包まれて
はじめて月光がここまで明るいと気づいた
心は自然に高揚し涙が出るような夜
そして心はとても静かだった

もう行くことはないかもしれないが
グラナダは永遠に身体にしみつき
記憶されるだろう




granada(15), spain 2008

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当直で病院で過ごす
夜明けに記すことをそのまま

正直楽器を弾けずもどかしい
身体がうずうずしているが
そうも言っていてはいけない

合間に個展の時間に向けて
改めてフェルナンド・ペソアの「不安の書」を読む

はじめから読むのではなく行き当たりばったりの方がよい
これだと思う文章はいくらでもあるが
そういうものはむしろわかりすぎておもしろくない
そうではない文章のなかにペソアを読むより多くの楽しみがある

この文書は教訓をたれているのではなくで自白であり
ペソアの人生そのものである
そして世界はペソアとは別なところにある
本質的に他者に見せる必要性はなかったのだが
彼の中の他者がどこかとても遠くのところで
他者にたいする他者すなわち別なペソア自身を必要としている
その渦の中に文書が記されあらわれることが必然だったのだろう
ペソアはおそらくそうしなくては生きることができなかったのだ
「私は臆病である」というような自覚をどこかで書いているが
それもまた単に臆病であるわけではない
背後に聴き取られるこの苦しみと悲哀は何だろうか

ペソアの書くことと私自身の想いと相当異なる面もあるが
それは言葉の意味の表面上の話にすぎない
たまに重たい倦怠に包まれるが
あらさがしをするような文書ではないし
逆にペソア特有の視点を見つけ出そうとしても無駄に終わる
ペソアに「私」が何かを求めてしまっては
全く読み方が違ってくるだろう
ともすればペソアそして私への腹立たしさと自己矛盾にしかなるまい

世界の倦怠が倦怠となりつくしても
倦怠と疲労として終わらない様相
そこには全く別なあり方への発露があるように感じる
彼は自らを真に生きたのだ
そして生は理解できないということへの信頼がある
そして彼は彼でないことをよくよく知っている
だから矛盾だらけで脈絡があるようでない
どう読みとくかではなくそのまま読んで感じればよい
それで十分だろう
読む側が私の何かにとらわれていては本当に感じることすらできない
そして私が引きずられるように
受動的に何かを感じとると思っていてさえ
この文書は読めないということすらできる
ペソアもまた「私の感覚すら私のものではない」とどこかで書いていた
異名を使っているからといって疑うことはなにもない
そのままでよいのだ

写真は写真で歩めばよい
音は音で歩めばよい
言葉は言葉で歩めばよい
医は医で歩めばよい
そして私は私で歩めばよい
疲労を疲労そのものとして

すべてはすべてであり
私は私であって私ではない

疲労するのは今の社会が疲弊しているからではない
疲労は身体の疲労そのものだ
私を受け入れるなかに
ペソアはより現実的な夢として訴えかけてくる

そのような「私」に意図されない交差のなかに
全く予測すらつかない偶然への発露がある
その偶然こそが真の必然である
全ては私という限定された心と身体を通じている
本来それで十分なのである

そのような心と身体のあり方
最後はそのことだけがある
何を弾くかということも大事だが
私にとってはるかに大事なのはどう弾くかである
その都度違うということをどこまで大事にして受け入れられるか
そのために何らかの空間が必要だ

端的に言えば
ある空間的限定のなかに
どのように時間的流動性を実らせ
音を自由にさせることができるか
そのおそらく基本的なことすらまだまだできていない
当分はこの修練の繰り返しをしていかなければならないだろう
そしてその先があるだろう

ペソアは十分にペソア自身を生きた
そのことだけが確信された一夜




granada(14), spain 2008

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太陽は沈み
月が昇る

淀みない大気を
音がわたる

混沌は混沌となり
もはや混沌はない

木は影に沈み
風の音は木の音となる

もうひとつの私の
私ではない人生

光も闇もない記憶
あらわれ
音はただ彷徨う




granada(13), spain 2008

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昨日は斎藤徹さんと瀬尾高志さんとのベースデュオを西荻窪アケタの店に聴きにいった。今、瀬尾さんのもとにあるベースは、かつて私が弾かせてもらっていたベースだ。それも、もとはというと徹さんが弾いていて、ガン&ベルナーデルというライオンヘッドのベースがきたときに、徹さんから譲り受けたベースだった。瀬尾さんはお名前の通り「志が高い」演奏でベースも喜んでいるようでうれしかった。この、その昔手元にあった、今は瀬尾さんのそばにあるベースもすばらしいベースだが、徹さんのガンベルはよほどすばらしいベースである。バール・フィリップスさんとのガンベルどうしの楽器交換のときを思い出した。そのときのフィルムを徹さんの娘さんの真妃さんが奮闘して現在徐々に編集している。フランスの楽器職人やバールさんへの身近な視点のインタビューもあって、貴重なフィルムのようだから、最終的にどのような交換の物語になるか非常に楽しみに待っている。そしていつも大変お世話になっている鶴屋弓弦堂の鶴田さんと河原さん、クレモナで楽器製作中の鈴木さん(この方もおもしろいことに名は「徹」さんなのだ、この楽器職人さんにもきっと将来大変なお世話になるだろう)にも会って楽器についての話ができた。昨日はそんなベースの関わりもあって、楽器は奏者で音が変化し、奏者は楽器によって育てられる、そして色々なことが楽器を通じて受け継がれ、新たにあらわれてゆくということが身近にわかって理解できる時を過ごした。

さて、昨日今日とかなり集中し、色々と楽器でやってみて思い知る。「微明」こそ私にとって必然なのであり、根本をいじる必要はないのだった。変奏すらかなり意図的になることをよくふまえることだ。どう弾くかが最大の問題であり、もう一つ二つの局面を生じさせるために少し工夫をすることでさえ、その弾き方と音の揺れ方は大幅に異なる。構造的な変化を最小限に抑えて、その抑えたとはいえ少し変化を加えるなかに、心を新たにすることが肝心なのだ。その最小限の変化のなかに最大を圧出するよう密度を高くすることが、この一年という必然ではないかと思う。そして焼いた写真をよく見て、そしてよく聴くことをふまえることだ。しかし、それはもう穴のあくほど眺めた。しかしそれにしても、やっと形にはなってきたが、バッハの技術がまだまだ追いつかない。昨年、徹さんに同じ曲(バッハ)を一千回やったら?と教えられたことを思い出す。もうあれから一年経つのだ。


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(追記)
またベースを弾きだしてみる。日々変化する時間と音、そして言葉。思考することは一つの原動力となるが、ものの存在のあり方が未だにわかっていない証でもある。だがわからないものごと、死に向かって日々が過ぎていくことに最大の喜びと哀しみがある。最近は記憶と混沌ということを掲げてみたが、昨年の「微明」の演奏もまさにそのようなものだった。この態度をあくまで崩さないようにして、今回展示するポルトガルの写真の光景とその記憶につらなる音を何とか探り当てたい。そのためにここまで心を大事にひっぱってきたのだ。昨年は5年から10年溜めていた必然性があった。その必然をさらに1年分押し出し、かつ昨年秋に訪れたポルトガルの記憶に降りていくような音を奏でたいと思っている。フェルナンド・ペソアの本も昨今繰り返し読んでいる。その全体が非常に全体として奇妙なる文書であり一つの矛盾であり、かつ非常に魅惑的なこのペソアからどの言葉をひこうか、どの言葉も光に照らし出された表とその裏にある影を同時に映しているかのようだ。しかしその影は多様で、一つの言葉を抜き出したとしてその言葉がすべてを語ろうとしない点がペソアの魅力である。ただペソアにとっても「夢」ということが最も重要な言葉の一つとしてあるように感ずる。ポルトガルの夢。




granada(12), spain 2008

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どう演奏するべきだろうか
思案する

「微明」を基軸に変化を加えて
音を2弦でだぶらせてみる
不協和音かそうでないかという区別は度外視にしてとらわれずに
空間を無理に作ろうとせず
少しづつもやもやと配置して
楽器と弓から引き出されるように音をみつつ
その余白のなかに時間を聴く
ただし時間を体内に引込んで聴こうとせずに
時間の流れをただただ見るように
音は始まる前から連続してありのままに聴く
ある程度そのままやりすごし
ある局面があらわれたところで
意思を注入し思いのままにまかせる
思いは思いでなくなり
ふと混沌があらわれるならば
あとは身を任せるだけに
終点もまたもやもやと思い描くのみとし
場にゆだねて音の終わりの後の静寂の時空まで聴く

そしてその時空間からまた
身体にしみ込ませた一つの夢を弾く

という過程を絶大なるイメージとしてではなく
あくまでデッサンとして線的に描く
人間の所有するイメージなど小さい
実際やってみることの方がはるかに大事だ
だがそううまくいくとも限らない
だがあえてその過程を踏んでみることが大事だ

そう、やはりうまく行かないが
あるところまでくると
バッハをいかに弾くかという課題がこの期に及んで残る
それが先決かもしれない
その修練と収斂として「微明」の過程は過程として存することが可能となるのだから
その両者を入り交えておき
その交叉から両者を深めることが必要である

まずは集中度を高める
身体と心も休ませつつ
しかも腕の力の抜き方と力の入り方に対処できるだけの訓練を施す
今からそれが可能か
だが例えば本番まで時間がないというのは全く本質的なことではない
時間がないのではなく
すべては心と身体の問題なのであるから
間に合う間に合わないとはまた別のところで生きることが肝要だ
そのなかに何かがあるのを身体と心が知っている
それでよい

仕事は仕事で真っ当なことを全開でいかなければならない
そうすることのなかに本当の身体と心が培われるのだから
絶対に無視できない

だけれど、
それにしても肩が張らないようにも骨の折れる作業
逆境の過程を踏んでこの機会を大いに楽しむことが肝要
逆光のロゴスならぬ逆光のパトスをもって





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granada(11), spain 2008

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彼方へと消え去った音、音が消え去る

記憶されねばならないのは
そこに生まれた音ではなく音の経験でもない
あった音が真に自由なることと表裏をなしている
そこに生まれなかった音たち

選ばれなかった写真のために
写真は選ばれる




granada(10), spain 2008

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精神的にも肉体的にもリミット間近
ふってかかるハプニング色々
冷静な判断力とスピード大事
ここぞというときエナジー最大限
しつこいくらいパッション注入
すべてをオープン化

帰宅して高橋悠治さんの「Yuji plays Bach」に聴き入る

火は火を燃やすことはできない
影のなかにそっと映っているものたちを
そのままそっとじっと見つめじっと聴く
得体の知れない混沌に向かって




granada(9), spain 2008

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「あらわれ」とはどのようなものごとなのか。 あらわれとは無論、みえているあらわれのことだけではない。さしあたりではあるが、「みること/みえる」ことと「聴くこと/聴いている」ことを上げてみる。みえるものごとのなかに、ものごとの変化を変化としてどのように聴くことができるか。聴いているなかに、ものごとはあらわれ、それは見えてくるか。その両者が渾然一体としている地点から、何かを感知していく態度はありえないだろうか。

「写真を聴く」ということをあまりに無邪気に書いてきてしまっていた感があるが、それは見ている感覚を通じて、聴く感覚におろしてそれを見ること、見る感覚を鍛えて見尽くすこと、あるいは同時にただただ見えていることのなかに、見ることがふと消滅していく過程にふとあらわれてくるような聴いている感覚を身体のうごめきの中に見い出し、聴く感覚によって写真を、そしてものごとを見ることである。

では、音を聴くことのなかに音を見ること、聴き尽くすこと、もしくはただただ聴いていることのなかに音が音でなくなり何かを見るというような感覚もまた可能だろうか。いわば光としての明るみの知を主軸としてきた世界を、もし大きな意味での現代における反省点として捉えるならば、光ー闇という対抗軸ではない場所、すなわち現代において「聴くこと」は必要だ。だが、一方で聴くことをことさらに強調することもまた同じことに陥ってしまう危険性を孕んでいる。

聴いて見る、見て聴く、聴くことと見ることがそもそも一体となっているような行為、聴くことと見ることが区別される以前の様態に身体を開放することは、記憶が記憶としてあることにより近い感覚だろう。両者は何も眼と耳という人として完成されたと思われている器官によって、外部の視点から隔てられて考えられとらえられすぎなくともよい。 正常に発育した器官としての完成系という捉え方、確立された器官とその連携という観点よりも、いわば発生段階でのうごめく身体の変化、そのような変化そのものが死を迎えるまで、さらにその後も持続し続けるという、視覚と聴覚が渾然一体となった「混沌」としての眼と耳のあり方に眼を開きかつ耳を傾けること、翻ってその「混沌」から「あらわれ」る世界を見て、聴くことという手法をとることはできないだろうか。抽象的なようだが、現実感覚としての「あらわれ」の感覚は、むしろそういった、ある種ほとんど脈絡を欠いた言葉を寄り添わせることによってより先鋭的となるように思える。

記憶を特権化してはならない。記憶は生死のはざまを常に漂っている。そして生と死の記憶を記憶としていくことは、(他者の)死によって(私の)生が支えられていることへと、それはさらに自他の問題へと直結し、対話を生み出し、そのことが生き方としての倫理へとつながる。そして記憶を記憶としていくことには、見ることと同時に聴くことが不可欠であり、さらには聴くことのなかに見ることを聴き、見ることのなかに聴くことを見ること、そして両者の「混沌」としての感覚から「あらわれ」を感知する身体を磨くことが現代に必要な一つの手法かもしれない。ちなみに「荘子」においては「混沌」は、眼や口や耳などの感覚器としての穴がない何かであり、混沌はそこに穴をあけたら死んでしまうような根本的で、形がなく、もやもやとしていて万物のはじまりのような位置づけである。

音を聴くことのなかに音を見ること。バッハの時空間はそのような点からもほぼ完璧にできていると感じるが、現代においてバッハの音楽をどのように弾いたとしても現代を語り得ないことが何かあると感ずる。(そのことを時代が違うという点において当たり前とする観点はまず退けられるべきだが)、それは音の響きが、常にある固着した理性を備えていることだ。理性のなかにもあまりにも豊かな詩的な響きがあるのだが、その響きは必ずその理性のなかに返還されてしまうような様相をバッハは帯びている。これを脱するための手段はないとはいえない。それはその一つの固着した様相に対し理性的であり、かつ理性的でなく弾くことだろう。裏返せば理性的でもなく理性的でなくもない演奏の方法を、その「対照軸」となるバッハの固着した理性の様相によって、まさに現代的に学ぶことができるということになる。それはバッハの音楽が現代に「あらわれ」ることに他ならないだろう。その演奏方法の実現は相当に難しいが、それは私が現代を生きているということに忠実になることから始まる以外にない。翻ってそのことを可能としているバッハとは一体何ものなのかと驚嘆する。しかしそれでもなお、現代においてバッハの音楽をどのように弾いたとしても現代を語り得ないことが何かあると感ずるのはなぜだろうか。やはり少しづつバッハを弾いていけばそれでいいということではないのだ。

ではそのバッハに語り得ないこととは何だろうか。それはバッハの理性の固着の様相が決して「揺れない」点にあるだろう(揺れようとして弾くとかえってまずいことにもなりかねない)。聴くことと見ることの「混沌」は混沌である点においてもやもやとし、形がなく揺れている。バッハには常に形があるように聴こえ、ある空間を見ることが要請されており、そのことを「対照軸」とすることによって鏡としての現代(私)があるのだった。過ぎ行く、揺れていく一つの音と一つの音をどのように思い、意思していくか、あるいは形を崩しつつもどこかに局面を見出し、さらにその音の空間を見つつ、そこからさらに揺れる音を聴きだしていくような方法をいかに創出できるか。それは、今にこだわり続けることそのこと自体によって、今を脱していくような混沌の「あらわれ」を聴き、見ることであり、作曲したものではなく、完全なる即興でもない手法のなかにあるのかもしれない。それはどのように可能なのか。

先ははるか遠い。頭の中に浮かんでくることが早すぎて文章が追いつかない、 ましてや経験も全くと言っていいほど追いついていない、今は、と言っておこう。明日はまた違うことを考えているだろうし、さっきは次々と考えが浮かんできたというのに。だが文章にしてみると、決定的なひらめきや具体的な演奏へのちっぽけなイメージが消え失せ、何か当たり前のようなことに読めてくるのが少々辛い面もあるが、書かなくては消えてしまうのだ。 このようなとき、言葉は何らかの詩を必要としている。言葉の詩の側面から得たちっぽけなイメージを今ここで演奏に役立たせよう。




granada(8), spain 2008

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記憶についてこのごろ思いを巡らせていた私は、10/17に「記憶は一つの倫理性を帯びている」と書いていた。私は大学時代に倫理学で高橋哲哉先生の講義をよく聴いていた。学生時代に読んだことがあった高橋氏の「記憶のエチカ」(岩波書店)を急に思い出し今日ひも解いてみた。この本は ホロコーストと関わりつつレヴィナスやハンナ・アーレント、京都学派などの抱える問題点を浮き彫りにし、記憶について書かれた高橋氏の初期の論文集である。スリリングかつ真摯な高橋先生の生の授業を学生時代に真剣に聴いていたのも、もう十数年前になる。「記憶はある倫理性を帯びる」とほとんど自然に書くことができたのも、この授業あってこそかもしれない。「われわれのすべての能力の中で最も危うく気まぐれな記憶」を少しでも鮮明なものとするために、改めて読んだ同書からいくつか引用しておくことにしたい。

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*もともと<記憶>や<証言>の本質には、<死者に代わって>ないし<不在の他者に代わって>という構造が属している

*たしかに生者のあいだには「希望」が残る。死(者)の記憶を保持し、死者に代わって証言しつつ、生の「希望」を育むよりほかに途はない

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ひとつもない
声たちーひとつの
晩いざわめきが、時ならぬ時、おまえの
想いにさずけられる、ここで、はじめて
呼び起こされるーひとつの
目の大きさの、深い
刻みめのある果葉、それが
脂をしたたらす、傷口は
癒えようとしない

*(パウル・ツェラン「声たち」から)




granada(7), spain 2008

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私はつまるところ大学時代から、音というものの倫理についてどこかずっと思っているのだと、今更になってわかる。

学生時代、私にとって哲学や倫理の授業で講義がおもしろかったのは、昨夜すぎてから書いた、当時は新進気鋭であった高橋先生くらいだった。高橋先生には哲学特有のおごり高ぶった匂いが全くなく、語り口がとてもよかったのだ。そして机上の空論という感じが全くしなかった。レポートは自由課題で自分をぶつけるように音の倫理性について書いた。他にも気になる人はいたけれど、よく聴けば、寄せ集めの倫理や哲学の解説、あるいはセンチメンタルかつナルシスティックな領域を超え出るものではなかった。

医学にも生きた倫理が必要だと感じていたことに間違いはない。医者がどんな職業かは何となくではあるが想像できていた。学生の頃、それを身体に具現化する役割を担うのが私にとっての音楽であったが、なかなかうまくいかなかった。写真も同じく、挫折感もあった。医学では生命倫理学というものがやっと導入され始めていたが、その倫理には本来的な生がなく、大きく捉えれば、結局は医学の内部に閉じた形式的な匂いを多分に感じていた。(医学的技術開発とその所持自体が一つの権威となり、権力集中を促して経済と結びつくその構造自体に、生死とは「どう定義され、どうあるべきか」というような外側からの概念化された屍の論理が絡んでいく契機が、内側からの生きる身体としての生死そのものが疎んじられる契機があるだろう。)

そして十年以上の時が経った今、私は何をどう為すべきなのか。その間、色々な他者から様々に影響されつつも、同じようなことについてずっと考えているのがわかる。ただ、医者になって働いていること、そして音を出そうとしていること、写真を撮って展示しようとしていること、これらは全てが通じ合って、互いが互いを照らし合いつつ影を生んでいる。

2つであれば相手の影は隠れて見えないことも多いかもしれないが、3つであることは影を間接的にみたり聴いたりすることが可能で、互いが互いの落とし穴を見張るような関係性を保つのには適しているかもしれない。医学は医学の内部からのみでは十分に捉え考えられないと同じように、音楽も写真もそのようなものとしてある。単に3つを時間をかけて深めていけば良いということではなく、そうしつつも互いが互いの見えない影を照らし出し、その影を気づかせるような役割を担うことが大事なのだ。だがどれにも通底している問題として、現代ということ、倫理ということ、生死ということが避けられないだろう。




granada(6), spain 2008

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先日亡くなられた俳優の緒方拳さん

今朝NHKの追悼番組を起きるなりやっていて、布団のなかでそのままみていた。8チャンネルのドラマ「風のガーデン」今週はみれなかったことに気づく。木曜日は何があったのかすら思い出せないほど疲れていた。それでもブログをこんなにも書いていたのかと自分に唖然とする。

今朝の番組の録画の最後に、緒方拳さんがこのようなことを言っておられた。
ほどよい疲れの残る身体にしみじみとして、その言葉とインタビューに答える表情とが入ってきた。

演技することは演技しないことにつながってくるのですよね
最後は「思い」だけなんです
「あいつはほんとうに下手だねー」といわれることが最大の賛辞なんですね

人の「思い」ということにすべてがあるように聴こえた。私はそのことを昨今「意思」と捉えているのかもしれない。けれど私のその意思はこの年になってまだ始まったばかり、ごつくて固いものにすぎないのだろう。緒方拳さんが最後にやっておられたという一人舞台は(今日の録画をみたにすぎないけれど)、ほんとうに底の深いやわらかいものを感じた。




granada(5), spain 2008

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ただあらわれるということ
空しい心に

気と記憶への意思すらもつことなく、とも断ずることもできずに、ただやればよいのでもなく、あらわれる何ものかをひたすら大事に

あらわれる自然が、あることを感ずるため、自然を身体が知るために

心を空しくするためではなく、心が空しくなることに導かれるための場を心にかけて

だが身体の功利主義という身のまわりの現実の空虚さに浸されつつ、心と身体に対する経済的な、効率的なあり方に対処するために、私が私であることを決してやめることがもはやできないことをも同時に覚悟しなければならない

なぜなら私は今まさにそうした現実と日常のなかに生きているからであり、どっぷりとそれに浸かって心と身体が動いているからである

それはある意味において無垢であり、ある意味において無垢から遠くかけ離れた、一つの社会的現実に著しく制御された心と身体なのであるが、その両刃の身体を身体そのままに、引き受けることから始めるのが、この期に及んでもやはり一つの方法と思う

意思とは意志によって何かを特別に志向することではなく、身体の思考に押し出されてただ心に思うこと、思考することもまた身体の一部に過ぎないとしつつ、思考の過程をそのまま身体の知におろすこと

心を空しくする特別な技術があるわけでもなく、ある心理的な技術によって心が空しくなるわけでもなく、それはある道としてあるだけだ

今の現実がある種の虚構的な空虚の上にあるとたとえ断ずるとしても、私の個という一つの外部から私自身を俯瞰しないために、今の身体を引き受けることは不可欠なのであり、それは言い方をかえれば、今を生きる責務だ

きわどくバランスを保っている身体を引き受けることのなかに、何かがあらわれてくるかもしれない
そのあらわれを聴くことができるかどうかが、今年の個展の意味かもしれない
昨年は総じて、聴こうとすることにやはり終始していたのかもしれない
聴こうとすることではなく、聴くことそのものが新たに課せられている

何かしらのきわどい均衡のなかに音と写真を聴くこと、たとえば即興か作曲かということでもなく、音に対して一歩づつ深くなるための、身体の道と過程をそのまま踏むことである

こんな手始めのようなことでよいのだろうかと思いながらも、その微かな過程そのものが「明」であると信じ、音の糸口は脈絡のないような脈絡において意思していくことのなかにふと生まれて、糸が音となっていく過程を、そして日常の問いそのもの、問いに対する回答ではなく問いが発せられる速度の変化と過程を、大事にすることから、最初からまた始めよう

休息をできうるかぎり大事にして、残された日常を何よりも生きることだ


******************
追記

日常の私を疑うということは常に必要だ。まして個展の前だからそういうことは不可欠である。まだ一ヶ月前だから、あるいは一ヶ月前というのに漠然としている何かが大いにある。個展にあたって、あって当然ともいうべき技術が追いつかないという面もあるが、それ以前の根本的問題がある。雑多に忙殺されざるをえない毎日ではあるが、弦を一年半ぶりにかえたことが個展に向けて考える契機となった。それは個展にむけて、どこかに渦巻いていて最終的にたどり着かないような何かを、身体が感じ取るための契機だった。たどり着く目的地を求めるのではなく、その契機のなかに根本的な問いが眠っている。

ブログは、その日に即して何かを考えるための訓練の場としてあるが、結果を第一義的に求めない点が良いし、時折は恥を忍びつつもどうにか、とにかく実直に書き連ねてきている。個展もそのようなものとしてありたい。ポルトガルの詩人、フェルナンド・ペソアがブログを知っていたらどう使うだろうか、滑稽で使わないのだろうかと時々想像してみる。会場に、今の私には過分かもしれないが、何かしらのペソアの詩を添えたいと思う。私と私のまわりにある現在のために。

昨日ガレリアQにおもむき、今回の個展のダイレクトメール作成を牟田さんから紹介いただいた佐原さんにお願いした。佐原さんは十分な時間をかけて写真をみてくださって、久々にこれほど自分の撮った写真をみてくれた方がいたということに心を動かされた(無論どの方にもそうしていらっしゃるのだろう)。終電ぎりぎりまで中身のある話をして楽しかった。昨年もそうだったが、こういう場は私にとって本当にうれしく大事な場である。

スリリングであるはずの写真という場が、なぜどこかしら軽薄なものになってきてしまっているのか。写真という一枚の紙の向こう側にみえるものまでをも、みようとするのもまた大事ではないか。そこには撮影者と世界との関わりと対話が必ずある。撮影者とは何ものなのか、何ものでもないのか、世界はその撮影者に対してどのようなものごととしてあらわれてくるのか。その対話のなかにやっと、写真は写真であることができる。




granada(4), spain 2008

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日常のマンネリ化は知らず知らずやってくる
マンネリ化した日常は、淡々と日々を送る日常や、一定のリズムある日常とはまた異なるところにある

弦を張り替える
弓と松脂を色々試す
音は変化し
弓をもつ手の感触と耳の肌触りは揺れては落ち着く

これだけで日常のマンネリ化がいかなるものか感じ取ることができる
楽器を大事にすること、そして音を大事にすることだ




granada(3), spain 2008

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観光地として名高いアルハンブラ宮殿には、いわば記憶の水路が巡らされているように感じられた。それは気の漂流とも似ている。気は科学的物質とは完全に無関係に働く充溢と拡散の運動である。気を免疫機構や細胞のアポトーシスをあげてその運動を比喩しうるかもしれない。だがそれは気の実態ではないだろう。

記憶は体内に固着しつつも底辺で静かに変化し続ける時間であり、気と記憶は異なるレベルを有しているように思われるが、両者は死によって生がもたらされるという揺るぎない事実から成立し、両者は心と身体に宿って次なるもの他なるものへと繋がってゆく。

現代においては、気や記憶もまた一つの消費として扱われる。気は科学的分析を施されその実体のなさを冷笑されることすらある。そして記憶は形骸化されヴァーチャルに消費される。

アルハンブラの滞在は、ヴァーチャルではない記憶そのものの実体が滲み出た時空間を心と身体にしみ込ませる夢の経験としてあった。記憶の持続と変化がそこにあった。 このとてつもなく多くの観光客が訪れるアルハンブラで、現代にはある確固とした意思が求められているのだと感じる。 気と記憶の実体を感じ増幅した欲望との均衡をたもつために、正常と異常を分けずにはいられず、みなが正常であろうと思わなくては生きれないような正常の強迫観念という空虚な現実に、実体のある気の通り道を通すための一つの風穴をあけるための意思。死を死として位置づけ、みつめることを恐れないための、記憶を風化させないための意思。

悪しきシステムのなかにどっぷりとつかってはいても、気は充溢と拡散を止めず、記憶は蓄積される。この空虚な現実につかりながらも、そうした気と記憶を身体と心のなかに宿し、意思をもってその均衡をたもつつべく医に向き合わなければならない。それは、 西欧の方法を単に否定することではなく、西欧的な概念として身体を捉える分類に従って、正常と異常を区別するあり方の負の面を意識した上で、死そのものに対する身体と心の感受性をもう一度養うこと、そして気と記憶への意思を医学に正当に持ち込むことである。




granada(2), spain 2008

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記憶は深い時の眠りだ

記憶は意識でもなく無意識でもなく両者より奥にあって
記憶は音でもなく写真でもなく両者より前後にあるが
記憶は意識と無意識そして音と写真に寄り添うようにある

記憶はイメージでもなく夢でもなく両者より時間的で
記憶は海馬でもなくヒトでもなく両者より非生物的であるが
記憶は生物時間に寄り添うようにある

身体に依拠した記憶があって心に依拠した記憶がある
記憶に依拠した心と身体があって記憶は心と身体の臍の緒となる

記憶は命そのものでもなく死そのものでもなく
記憶は
存在から非存在への
非存在から存在への
架け橋である
記憶は存在と非存在のあいだに溜まった
時間の眠りからやってくる
記憶は非存在からの音と光景のない呼び声である

記憶そのものは音や写真によってあらわすことはできない
記憶はじっとしてあるが記憶を何かであらわそうとしたとき既にそれは記憶ではない
音そのものは音の記憶とは異なるが
記憶そのものは音であらわすことができない
音の記憶によって次の音が導かれるのではなく
記憶そのもののうごめきのなかに音なき呼び声を感じる
その結晶が音と化すのだ
だがその音はもはや記憶そのものではなく
その音を音として聴くことが
記憶への愛となる
記憶を探るように表現するのではなく
記憶に寄り添うイメージないし記憶の夢を音とし写真とするのではなく
記憶の眠りそのものの結晶が音となり写真となる
記憶の結晶はいわば記憶なき記憶からしか真にうまれ得ないのだ

記憶は意思によって愛がそれに介在するような
一つの倫理性を帯びている
身体とはどこか違う場所からやってくるようで
心とはどこか違う場所からやってくるようだが
記憶の呼び声の木霊を心と身体のなかに感じることだけが
許されているように
記憶はある
記憶はそのような場所で
連鎖し点滅し消滅してはまた眠りから醒め
微かに異なる様態を帯びてあらわれる

記憶は哀しみ喜びを死へと誘い
心と身体を微かにゆるがし
死から次なる命が宿るその場所で
別なる心と身体へと受け継がれる
時の眠り




granada, spain 2008

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記憶は埋もれている

停止した時間のなかに動く
ミトコンドリアの詩

死によって受け継がれる命
身体の海底で眠る命

記憶の眠りを
呼び起こすでもなく
待つでもなく

記憶はやってくる
記憶は命と死の愛