八村義夫さんのこと

熊野 kumano (23) 2010




(つづき 10 )

静けさのなか、楽器の異様に良く鳴るこの乾いた寒さ、世界はその手のひらでおどっている人間の愚かさを沈黙のうちに超えて、悠々たるものにみえる。静寂のうちに、人間を抱え込んだこの自然はあるがままありのままに変化していく。人間も世界のわずかな一部であるというこの当たり前のことを強く認識しなければならない。無常は一つの常態であり、写真こそ無言であり無音であり無常である。

本日は書き出したらとめどもなくきりがなく次第に大きく外れたが、八村さんに諭されるように一区切りした気がしたので、いつになるかはわからぬが、次なる個展への布石を願いつつこの項はこれで終えることにしたい。

今年のこれからの半月の時間は自分の言葉を綴ることよりも、被災地への祈りに捧げ、厳粛な気持ちで来年をむかえたい。来年はまた違った形を求めたい。

春は花、夏ほととぎす秋は月、冬雪さえてすずしかりけり(道元)




熊野 kumano (22) 2010

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(つづき 9 )

たぶん細かい点で書き損じはあるが、そんなふうにして今がある。どのことがらからも強く影響されながら、自分なりに言葉を連ね、なるべく怠惰にならないように意識的に言葉のあり方を変化させながら、その都度ここへメモしてきた。

こうしたすべては、それが自分が生きるための根幹に近いところにあるからだが、臨床と音と写真をめぐっている。医療は真の即興的態度でやらなければならないということは強く思ってきた。即興あるいは音の教えは、当然のごとく人間と深いかかわりをもち、そのことは人間を含んでいると同時に人間を超えた世界からの人間への教えとして作用することをここに確認しておく。

音から医療へ何かが導かれることは大きく納得される。しかし反対に、医療の現実を直視しそれを重視することから写真というものを間接的に経由し、さらに間接的に音の意味を遠くに近くに計ることが、今後の私の大きな課題なのである。このことは考えてはいるものの、きっかけの入り口さえみつけられていない。それほどに医療の現実は激しく、生々しい。

何かを受容するというとき、音の受容、目前の場の受容としての写真、さらにさまざまな感情や不安や情念とそこから離れられない人間の現実(とその病い)、あるいは人間そのもの、各々をそのまま受容することには異なる感覚を要する。擬態のように同じ身体でありながら、個別に対応していく身体とならねばならない。

イメージとしては医療と音のあいだに写真があるのだが、音のきこえない写真をそのきっかけとしていくことは、みえにくいが重要なことかもしれない。音の聴こえる写真を求めたりすることはあまりに刹那的で写真の現実にそぐわない。そのためにはおそらく、八村さんの「主情」ということが写真や医療においてなにかということに、何らかのヒントがある。その経験的発見から音楽をもう一度みるべきなのであろうか。

いずれにしても私は昔から人間というものに興味を抱いているということである。それは無論自分自身のことでもあろう。本質にかえって人間のことをわかっていかなければ、世界の教えもまた到来することがない。本質論を嫌い目先の技術と利益、そして本質を離れた意識にとらわれていれば、人間が人間のなかで幽閉され窒息し、いずれ自らの首を絞めるように自滅する。

医療は医学的な技術や知識だけではないのは言うまでもないが、人としてのいたわりをいつも与えるものでなければならない一方で、私のいまここで知らない教えを、その場において人に教えるものでもなければならない。

そして反対に、各々の痛みが痛みとして死にむかっていく、その痕跡が音や写真に託され、痛みの断簡を呈しつつ写真と音が独立して発見の基礎としてふるまうことがあれば、なお生き甲斐もある。こうしたことは技術に還元されない医療の身体性の根源をもとめる態度であろう。

ここまでくればもはや、その両端に同時にたつことが課せられてくるだろう。しかしそれもまた一つの単純性に帰するだろうが、単純なるものはそうして螺旋をえがきつつどこまでも深く広い。




熊野 kumano (21) 2010

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(つづき 8 )

3
11日に大震災が起き大津波が東北沿岸を襲った。原発事故が生じほとんど何も実質、言葉にならない。知人の安否を気遣いともかく日々がすぎる。かつて三陸沖を写真にフィルム十数本のみとっていたが、いまだに見返すこともできない。いずれ発表するなら撮った全てのコマを等価にと今はとりあえず思っているのだが、それもまだ先のこと。わからないまま。

初めて知ることになった反原発の反骨の人、京大の小出さんが早くから言っていたようにこれを機に世界は変わってしまった。学者、あるいはサイエンティストとしての実践とプライドを捨てたらとたん、学問もあっという間に力を失う。

鴨長明「方丈記」のリアリティと震災の写真がかぶる。政治とマスコミの嘘、現状の科学、学問の限界、政治との癒着、作為としての近代化、市場経済とグローバリゼーション、環境問題の闇などなど、嫌でもどこかで考えさせられる。

大阪では中平卓馬の写真展が印象的。ユベルマンの著書も刺激的。時折東京へ。私の音楽の師である齋藤徹さんを軸としたコントラバス5人の共演(近日DVD化されるそうである)のライブや高橋悠治さんの「カフカノート」を聴きに出かける。

長く暑い夏をへて、秋にはその齋藤徹さんとミシェル・ドネダさん、ル・カン・ニンさんが我が家へうれしい訪問、有意義な話と非常に質の高い即興を間近で久々に聴く。質の高い音の洪水を久しぶりに享受し、音楽そのものに再び大きく触発される。

さらにとても身近でありながら遠かった作曲家、国立音大の文字通り有り難い企画により、親戚であった八村義夫さんが急激に、不意に身に迫ってくる。ここからの身体的影響は書ききれない。

とりわけ八村さんのことは全く否定のしようがなく、私の身体にとっての直接的で具体的な親近性とリアリティがある。義夫さんの兄弟だったデザイナーの邦夫さんからはかつて写真の指南を一度だけ受けた。二人とももういないが、間接的ではあったがどこかで大きな影響を受けていたのだろうか。それが今回、東京の国立音大から今に至るまで契機に呼び覚まされた。





熊野 kumano (20) 2010

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(つづき 7 )

しかるに私は東京を離れこちらで新たな生活を始めてからこの二年半、どのようにして過ごしていたのだろうか。単に振り返ってみても、つまるところ意味がないのだろうが、身体的な区切りにおいて一度俯瞰してもよいのかもしれない。途中で気になっても深められずに放っておいたものは山ほどあるのだが。

もう師走だが、今年は日本でいろいろな過酷なことが起き、今でも生じている。政治や資本主義というシステムはどこまで続くのだろうか。それほど長くないような予感すらする時代になってきた。松浦氏の折口論は政治性ということをやや意識してかかれたもののようだが、何かが私に腑に落ちたのもそういう点が関わるのかもしれない。

何よりもこちらへきて、大きな精神的衝動としてマイスター・エックハルトを知った。内なるものから最も内なるものへ。自己からの離脱、離脱からの離脱という過程と自らに充満される無の聖性。これは井筒俊彦の難解な著作「意識と本質」の記憶をよみがえらせる。都会の喧騒のなかではじっくりとはなかなかいかない。

人間と神性との合一など現実からかけはなれた狂気の沙汰ではあっても、なおエックハルトの離脱ということや、「内なるもの」そして「最も内なるもの」ということ惹かれるのは、本質を求めることの本質が、世界の本質を知るためというより、現実ではそうは簡単に表出されない何かが、ふと音連れるための契機となるということにあるのだろう。

近くの古美術の店が一つの思いもよらなかったきっかけとなる。古い浮世絵や掛け軸、歌川国芳と月岡芳年、そして若冲や岸駒を間近でみて、特に浮世絵の紙を直に触らせてもらったことは大きかった。上田秋成の雨月物語もその延長としての過程において大きな影響を受けた。幽霊と情念。墨の濃淡と筆触の凄み。人間の情念の文学的開示。

絵のなかの書ということにも次第に触れ、それが講じて東京の生活への反省、そして個展「凪風」への個人的な思いと反省そしてそこから離れるために、良寛への切なる心の旅が始まり、越後への旅。良寛からの必然として、とめどもなく深い道元へ。

釈迦に接近するには身体的な無理があまりに大きいにしても、良寛の無音の声を精神として聴くことは生涯かけての実践となるであろうし、道元の言葉のあまりの含蓄はその普遍的な時代を問わない斬新さにおいて類をみず、一生の発見の具体的な手ほどきとなる。

空海はほんの少しかじったが脇へおいておくことになった。だがこの年末年始には雪の高野山へ行ってみたいと願う。雪の永平寺との差異を感じとりたい。空海からは熊楠が垣間見えるが、言うまでもなくおいそれといかない。

曼荼羅、固定的な概念や体制ではない「動きを孕む象徴」としてのマクロ、音の結末としての宇宙ではなく、瞬間に凝縮される音の動きそのミクロの極まったマクロの形としての図。粘菌の描く見事な路線図。これはまだ先のこと。

ある概念や生き方死に方の定本ではなく、個人とその残したものとその都度向き合うということが、私の他なるものへの向き合い方であり、それは私の医への態度と共通するものである。マクロとしての統御にミクロを奉仕させることよりも、音のミクロの質感をはるかに重んじることによってマクロをミクロに宿す八村さんの態度とも合致するのではないか。




熊野 kumano (19) 2010

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(つづき 6 )

八村さんの自らに聴く音の形と時間性は、松浦氏の折口論のはじめに出てくる折口信夫の「斜聴」という概念にも類するものと思う。「折口信夫論」を目にしたとき、不意にではあるが、一区切りしたような気がする。言葉を経由せずに何かが納得されたような気配が身辺に漂い始めた。

なぜかは、はっきりとわからない。松浦さんの文章(たぶん批評に限ってだが)は妙にこれまでの経緯と符合して納得がいく。これによって言葉の膨張感が、いい意味でそろそろ私のなかで止まりつつあるのだろうか。

東京を離れて二年半、自ら選んだ道とはいえ、身辺の急激な変化についてゆく身体が様々な環境の変化の質を多方面に抱えながら、それらがひとつになっていくまでには多くの時間と労力を要した。差異と反復を重ねながら今もその過程にあるが、ここへきて私は、もう矢継ぎ早には進まぬ方がよい。かえってやっとのことで収束されてきた身体が分散していくように思う。(収束といえば昨日突然の原発の収束宣言、開いた口がふさがらない、困ったことである。)

だが、これまで考えてきたことは、身体的な器としての身の肥やしとしての意味を持つにすぎない。腐葉土の感触で身体が納得されたときのように、時間、その歴史と放り出されるべくして放り出される重なりとしての身体、その先端部にあるいまここがあるだけである。だがその密度が一つの形を呈してきたということだおろうか。

それにいくらかためておいても、行為へのきっかけの言葉は一語、あるいは一、二文くらいでしかない。常に時は流れる。そのときその場、行為は単純性に帰結するだろう。

写真や音にとって思想が邪魔になりうるが、言葉が脇に添えられることで身体の言葉としてその密度の極みとしての先端部が一つのおぼろげな境界としての意味として存することができる。境界ははっきりと前後をわけるものではなく、霧のようにおぼろげに存在をあらわす布地としてある。

行為へのきっかけとして無を一つの語句で言い換えることは自分自身への一つの身体的なけじめといってもよい。誰しもやっていることだけれど、それは同時に行為への契機でもあるので、これまでどおり象徴的な言葉を自分の内部のどこかに添えたい。

エックハルトのいうように、自己からの離脱が無であり、さらに無からの離脱が一つの言葉や音に転じるように発せられたとき、あるいはそうして写真が撮られようとしているとき、音や写真が自己をこえて何かがあらわれでる。

そこに聴き、観るものは自分にもまったく予測のつかないものであるが、生活の区切りや契機として重なりとしての自分をかけ、また放り出すことが可能であるための、時間の圧縮された言葉をまずはさがしていってもよいであろう。

たぶん結局はかなり単純なことがらになるだろうけれど、一つにまとまるというより、時間を経たのちにいま立ち止まることを要請されるような言葉、考えというものがあってはじめてできるものである反面、その考えから離脱しながらそこに表出されるものに委ねることが大切であろう。

逆にいえば考えたものをまとめて表現してもまったくおもしろくはない。言葉が身体に降り、さらにそこから離脱するとき、音や写真に何が映されるかという点が自分自身の興味を最もひく。

言葉といってもはっきりとはわからない身体、折口や松浦さんの言葉のような「言葉の身体」なのだろうか。本質をめぐっても本質など本当にはわからない、だが、少なくとも本質をめぐらないと現実に染み出してでてこないものは、はっきりとあるにちがいない。




熊野 kumano (18) 2010


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(つづき 5

八村さんの「アウトサイダー」の入っているCDの他の作曲家のものに折口の「死者の書」を題材とした作品があって、これをきっかけに家にあった松浦寿輝氏のコンパクトな折口論を、たったいまみていた。

なかなかおもしろそうで、八村さんの音から勝手にヒントを得たこととつきあわせてみている。このことについてはあたためて、あらためたいが、何よりも言葉の柔軟さと相手のことを相手に即して考え、さらに自分の課題として深めるという姿勢、そこで大いに問題となる言葉の繊細さが言葉の権力から逃れて、なおかつ重要なことを先取りして言葉に宿らせていく有り様は、非常に難しいことではあるものの、大いに参考にはなる。

折に触れておもうのは、どんなに生活態度や演奏を繊細できめ細かくやっている人でも、ある種の感情的な凶暴さをそなえていることであり(道元などまさにそういう感じがするのだが)、それを自覚しながら行為するというよりも、そういうどうしようもない瞬間がおとずれたとき、そういう狂気としての自己を理性が突き放した過程のなかに出来してくる何かが、みえていなかった一つの発見に結びつく。

本当の行為の質の高さというものはこういうところにあるようにも思うが、それは現実と狂気の接点で生じるようなものでもあって、社会的秩序とは相容れないのだろうか。だが、社会的失敗を抱え込んだそのような行為がまた、一つ一つの社会のみえない創造的行為でもあるだろう。




熊野 kumano (17) 2010

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(つづき
4

先日、家族をむかえに高速道路のかなり濃い霧のなかで二時間ばかり車を運転しながら、八村さんの音楽を聴いた。前日から何かが起こる予感すらしていたので運転は慎重だった。 初期の「ピアノのためのインプロヴィゼーション」は明らかにフリージャズとも質感がちがうな、とおもっていたところだったが、 すぐ先を追い越していった白い車が先の方でスリップしてクラッシュし、路肩のようなところに衝突した。怖い思いをしたが、運良く私は難を逃れた。運転手も無事でよかったがs狂気していた。その日は身の回りでその余波のような出来事がいくつか生じて、家についたときは安堵した。その日はそれから八村さんの音楽もやめたのだったが、、、。

宇宙からみれば人間はチリのチリさらにその末端にいるようなもので、はるか遠い未来には銀河と銀河が衝突しこの太陽系も消滅する。己のなかの最も近しい「情」というものは、だれしも本質的に宇宙の狂気に通じているのだろうか。濃霧の幽玄が、音をしてまったく大げさなことだが、そんなふうにも思わせる瞬間もあって、幻想的だった。疲労していると、映画にも出てきそうな時間だったしそういうふうにセンチメンタルに聴こえる。音と音の間を非常に引き延ばしてみてみれば、そこには無限の時間がいつも流れていて、こういうことはある条件が整うと、非常に鮮やかに感じ取れるものだ。

けれどもそれに酔いしれるとまではいかないが、音楽の夢(=狂気)からどこかしら目覚めると、その夢の残骸が、過去の私のまわりに生じていた現実の身体の残骸に染み渡っている。音は無垢なようでいて、人間というもののおどろおどろしさを浮き彫りにする。なぜかわからないが、車のクラッシュのあと、数年前の自分自身をいつしか思い起こしていた。それもノスタルジーだが、ノスタルジーに浸ることも発見の活路となることも多い。

どろどろして、人間の欲望とエゴと、悲しみとか喜び、凶暴さと繊細さ、生きていることのいろいろな情があり、東京での仕事というものは、個人の生からは本質的にはなれ、社会のなかの役割を演じ、役割のなかで人間と人間の情のもつれが、社会的現象としては表面にあらわれない穴のような場所でどうしようもなく動き、浮き沈みする劇場のような場所だった。だが、社会的劇場の裏で生きている場所、その穴こそが人間の生きる現実、そこに社会の実質があり、ねばねばとしたものや、恨みつらみを抱えた言葉、またそれを隠す言葉を様々な場面で感じれば感じるほど、いわば都会のみえない現実に生きることの過酷さを思い知った。

こうして「錯乱の論理」とともに動き出した現実と心の狂気は、やがてある場所に落ち着いて静まり返る。それが音のさったあとの沈黙であり、そういう狂気を世界が内包していると気づけばきづくほどに、理性がこれを押さえ込むのではなく、理性はこれをつきはなし、狂気は狂気でありながらはっきりした正気へと冷めていく。そうして音はより「主情」的に聴き取られ、それによって客観視されてくる。

この過程を経て、音は恐ろしいまでに何かを映し出す、それは確実に映像的でもある。写真はもうみなが何かしらの形でやっているに等しいが、人間にとっての情と、情を突き放す世界の冷酷さを、その過程をふまずともそのなかにあらわしてしまうさらに冷酷な媒体として、私にはいまうつっている。だがそれゆえに、人間は簡単に死(=写真)をみつめることもできない。




熊野 kumano (16) 2010

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(つづき 3

八村さんが「主情」というとき、「主情」とは、内部がそのまま音として外部へ放出する感情ではなく、内部が内部を通過して外部へと至る、負と負のかけ算としての正の運動の過程とその放出過程の音のエネルギー、そして音のエネルギーの無へと消え去る儚さそのものなのであり、その運動が他なるものへの糸口となるということである。

その音楽は、音色とそのつながり、無音(静寂)とその間による時の錯乱、音のイレギュラリティー(乱調)の誘発、「錯乱の論理」を通じた音の多面体(ポリフォニー)による音楽なのであって、表現主義ということではないようにきこえる。表現のもともと極まっていないところにそれを超える表現もありえないが、その個性はそのように表出するものではなく、その身体的な筋道(論理)とその音への凝縮のなかに必然的に表出されるものである。

こうしたことを書くのは当然のことながら、自分自身への課題にむけて書いているのだが、私はバッハ同様に、こうした多面体としての音楽/音とそのつながり、もたらしているものに強烈にひかれる。それはいま私が診療をしていることと決して無縁ではないとおもうし、オルガニストであったシュヴァイツァーがバッハ研究をしていたこともこれと無縁ではないように感じられる。

数多くの人を診るということは、第一義的にそれだけ外部との接触により病気や病因の解析データが増すこと(もちろん現状においては大事な方法であり実践なのではあるが)よりも、むしろ、内部としての自分自身を多面体にしていく実践として、私自身がそれをとらえているからだろう。

「一対一」という多数で複数の各々全く異なる質と場、その変化にその都度、この身体が土着的に向き合うこと。常に未来に何が起こるかを感じ、思いながら、そこから今なにをすべきかを思うこと。日本の現状とあいまって、そういうことをさらに意識させられる。




熊野 kumano (15) 2010

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(つづき 2

八村さんの幽霊と対話する日々。ニコンで初めて写真の個展をしたとき、振り返ればそれがたとえ浅いものであったにせよ、一瞬の呼吸感の持続ということが私にとっての大きな課題だった。それは八村さんの書いていることの一部によく似ている。

「ラ・フォリア」を読むと、会ってもいないこの作曲家にただならぬ親近感と自分自身への発見を次々と覚える。氏が死去されたときのすぐれた新聞書評がいくつか本にはさまれていたが(私の両親が切り抜いてはさんでおいたものだろう)、そのなかの気になる言葉「(八村の)すぐれた指摘は、なによりもまず指摘したもの自身にあてはまる」、「人は、自分自身を発見するようにしか他人を発見できないもの」であるのだが、、、。そして、その一つはショパンを引き合いにだしていた。超表現主義などともいわれるようだが、私はむしろバッハと対比したい思いにかられる。

あくまでも気力が充実しているときにその音楽を聴くと、ショパンよりも断然バッハ的に聴こえる。多面体(ポリフォニー)としての音の表出の両極がバッハと八村さんにあるように思えるからだろう。正反対に聴こえることは、両極をむすぶ線があるということでもあろう。 うまく言葉で言えないが、少し書いてみたい。

バッハをたとえ一曲でも何度も練習していると、一回ごとの味わいがある種の色として凝縮してくる。たとえばとてもうまくいく日は、今日は深青色の一曲、今日は薄墨色の一曲というように。バッハを弾くというのに不純でなにか汚い色の演奏もあるが、それでも納得いく場合とそうでない場合もある。

曲のなかでもポリフォニーの低音部、中音部、高音部がくっきりとした和音と旋律で見事に整然と分かれており、時折アクセントのように他の一色が加わってポリフォニー全体の和音の色の雰囲気が変わり、そうして音楽の動きが時間的に豊かにもたらされるようにできている。無論、一音の音色でずいぶん印象が変わるが、空間としてのポリフォニーの構築のなかにその変化があるという印象が全体を支配している。

八村さんの場合、音色がめまぐるしく変わる。一音という音の質感が基礎となっていて、その連なりが色の重なりを意味し、連なりと連なりの間にある無音は、音の連なりの混在された色の残響を残しつつ、それが消える。そして次の色の音、色のつながりがはじまる、その残響と音の開始が無音の間のなかで混在しているような印象だろうか。未来へと進んだ色の音色が、残響が瞬時に次の音色にまたがる。これが未来と現在の音の混在という印象をかもしだすのかもしれない。

その未来は聴き手にとってはおそらく単なる音の記憶なのであるが、たった今、数秒前にこれだけ鳴ったという過去形のなかに、矛盾をはらむように未来からの運動、あるいは未来への解放性(狂気のなかのぎりぎりの自由、釈迦の不自由に隣接する自由にも似ているだろうか)が生じる。そのすぐあとの音がその「未来としての音の記憶」をさらに印象づけ、新たな音のはじまりが今現在となって続く。

音が宇宙へと上へとのぼって希薄となり自由になるのではなく、音は地を這い回り、未来が地に練り込まれるのである。 私には常に音が未来からやってくるように聴こえるのが不思議だ、音が未来から過去へと流れているのだ。

こうした音楽の錯綜した時間のあり方を非常にひきのばして巨視的にみてみれば、 未来の音のあり方のヒントは、 古典を通じてもたらされうるということも理解される。過去をそのまま今に応用するのではなく、過去から他ならぬ未来を学ぶ態度がなぜ大事かということも同時にわかる。




 

熊野 kumano (14) 2010

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(つづき 1

譜面どおりとはいっても、作曲されたもののなかの演奏家の即興性も一つの大きな前提となっている。作曲行為ではあるが、演奏家との共同作業的な面が強く、それは作曲家としての質の高さは無論だろうが、演奏家の質の高さ、いいかえれば演奏家の音への普段からの態度がいかに密度が高いかによって、出現した音楽空間の密度がそのまま決まるように作成されているようにみえる。八村さんと対峙しながら何かを教わったり、曲に借りて自らを表現したりするというより、八村さんと一緒に音を進めるようにひくと、その作品の魅力が発揮しやすいのではないかと私には思える。

作曲家としての個とすべての演奏家の個のつきぬけた場そのものによって、場のなかに浮かび上がる音が多面体を呈し、作曲家と演奏家を超えて呼吸しだし、それが聴衆に自由に開かれることにより、聴衆が音をあらゆる方向からとらえることによって、時空が多様に変化していく。その作曲行為による音楽のあり方はそのような、まるで非常に熟練された即興の形と近接して位置するようにあるような作曲の方法であり、瞬間の持続的呼吸が印象付けられる。

八村さんのようなアウトサイダーから発見する何かは、音楽のジャンル分けをこえて、音と音の糸をつなぐということであり、それは個が異様な強度をもった個性となり個が個をつきぬけるとき、内部の音の糸が人間の糸をつなぐということであろう。八村さんは非常に寡作だったのも、異様な個性の表出への厳しさが作品数を抑制したということだろう。

個々の音が個々であることに、各々の人間が各々の立場で相互に注目することによって、ある重要な微細なサインおよび変化をみのがさないこと。それは量の論理が一つの質の個別性と特殊性を覆わないあり方であり、質の深みから糸を紡ぎ、どこかの未知の糸、あるいはいまここで私の知らない糸とを最良の形でつなげるあり方である。このことは臨床医学にも応用しうる。

医学の手法に言い換えれば、医学において何万人ものデータのエビデンスを基礎に普遍を結論づける手法よりも、たった一つの非常に特異な疾患と症例のふるまいから、眼には見えない病因の糸を探り当て、糸が糸をつなぐように現象の底にある普遍の生体の糸をさぐる方法を八村さんはとったということである。

過去の経験と分析を現在にあてはめて適応していく応用のあり方ではなく、過去を未来という未知、いわば過去の幽霊をひきだし、幽霊をいったん浮遊させ、その未来を現在にひきよせながら、現在を来るべき未来と混在させつつ実践していくあり方、過去によって規定される変動のなかに定まった未来を今が受け入れるというよりも、今の実践が、常に未来を変化させうるあり方。音は過去の積分ではない。だが、次の音は今の音の微分でもない。今の音にすでに未来が含まれている、というより未来が積極的に今の音に宿っているような音の印象だろうか。時間の錯綜が静寂を基調として漂う。

飛躍かもしれないが、たとえばそのあり方は、未解明の低容量の放射線被害による発癌が将来生じるまえ、あるひとつの特殊な症例からその影響の特色を呈する重大なヒントを見出し、すでに起こったことをもとにレトロスペクティブにあるいは確率論的に検証する(そのときはもう遅いのだ)まえに、事態の推移を微細に予知し、未来に生じるべき様態をあらかじめ察知する(そしてこの場合それを極力回避しうる)ようなあり方を導くことはできないだろうか。

それは科学的根拠の再現性を待たない行動であり、未来が現在にいながらにして現在を決定し、その現在がふたたび、過去へではなく未来へとかえされていくあり方ともいえる。それはたんなる予想や想定ということではない。科学が今後進化するとすれば、その実証的方法が身体感覚(道元ならば、いわば感覚の論理、八村ならば「錯乱の論理」 (八村さんの曲のひとつのタイトルである) といえよう)を言葉(脳)の論理と等価同質に、かつ連携的に扱うときである。

こうして未来と現在が整然とせず分別しがたく区切られないことによって導かれる、極力にまで高められた緊張と密度の身体ー「錯乱の論理」。その音楽が澄んでいて厳しいのは、その精神がこのあまりにも内的に透徹した過程によって貫かれているからである。(作曲行為は言うまでもなく多くの音楽的背景と考察を経ているのだが。)このコンサートの表題のようにもし八村さんにアジアをみるなら、こういう見方が私にはしっくりくる。それのどこがアジアかと問われれば、うまく答えられないのではあるが。

それにしても八村さんの自作自演がないものかと思いながらも、コンサートのラスト、八村さんの残した晩年の曲「Breathing Field」を聴いていた。パーカッションとハープの演奏が良かったので納得できた。この終わりはやはり氏の死を予感させる。

エッセイ集のなかのインタヴューで、今後何を題材としたいかと問われ、方丈記と雨月物語をそのなかに上げていた。帰りの新幹線のなかでこれをみたときには、八村さん自身の幽霊を我が身に感じた。今、八村さんが生きていたらどんなことをしていただろうか、思いはさらに募る。




熊野 kumano (13) 2010

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先日、作曲家の故・八村義夫さんの曲を初めて実演で聴くため、「八村義夫とアジア」と題されたコンサートを聴きに国立音楽大学へ行った。そのときに思っていたことをラフに書いておきたい。

八村さんは近い親戚だったが一度も会ったことがなく、私が中学生のときに若くして亡くなってしまった。母親の話によれば、癌家系で本人も癌で亡くなられたという。今回、三曲が披露された。行く前日に、演奏の水準も非常に高いと思われる代表的な三枚組のレコード「Breathing Field」を聴き、音大につくまでの電車のなかで二日かけて、死後にまとめられた八村さんのエッセイ集「ラ・フォリア」を読み返していた。

演奏が始まる前には、エッセイ集のなかに蓄えられている作曲家の魂が私のなかに強く響いていたので、音のイメージの輪郭は私のなかにはっきりとあったし、またそれが私のなかの音のイメージでしかないこともわかってはいた。だが八村さんの場合、私はそれで音を聴いてもよいと思っていた。そして聴きにいくのであれば、それぐらいの準備は最低でも必要だと感じていた。

ホール客席のど真ん中に座ったとき、今は亡きこの作曲家に会いたいという思いが強烈につのっていた。そういう感じだったから、いうまでもなく期待は大きかった。一部の正直で真摯な演奏家をのぞいて、実際の演奏は過度な期待感を差し引いても正直言えば決してよいと言えるものではなかったが、いま鳴っている聴こえてくる音から何かを得ようと思いながら音を聴いていた。

途中からは他の作曲家のもの、新進気鋭とされる作曲家の作品も含めていくつか演奏されたが、作曲家はともかく、演奏家は何をどう考えて音楽というものをしているのかということが、困ったことにいつしか、私のなかでその日帰宅するまでの最大の疑問へと変わりはじめていた。八村さんのことはおいても、日本の「現代音楽(ゲンダイオンガクと書いた方がよさそうだ)」というものは一体何のためにあるのかと思いながら、時はむなしくすぎた。コンサートが終わり、それはやがて私自身への問いへと広がっていた。

音楽にとって、作曲家よりもむしろ、今ここで音を奏でる演奏家とその聴衆のあり方が、音楽という経験そのものなのであり最も大事なのだということを理解していれば、演奏はあのような音の形にはならないのではないかと感じたのがはじまりだった。技術的に困難な面は大いにあるだろうが、作曲家の作品を演奏家がそれなりにうまくなぞって再現し披露する、それが作曲家の作品を奏でる音楽の目的だとすれば、明らかにむなしい。

作品と対峙している演奏家とそれを聴く聴衆の、そのときその場の音を聴くという身体的強度がなければ、その時空には何もおこらないに等しい。演奏は、この今に本当に対峙していたのか。思い入れの強い私にはそうは思えなかった。

八村さんは本人の合唱曲の作品の題名にも一部あるけれど、本人が「アウトサイダー」だったのだろうと私は思う。閉じこもった自己憐憫的な「ゲンダイオンガク」には距離をおき、音楽についての幅もジャンルということに分け隔てなく広く考察していて、何より言葉が的確であることはコンサートのパンフレットでも指摘されていた。音楽のアカデミズムにのっとった演奏の態度ではかえってその良さは出ないだろう。

その作曲の最たる特色は、多面体として提出された音のつながり、その呼吸感の持続というべきもので、はじまりから終わりまで音の密度が高く、多彩な意外性に富んでいる。久々に、あるいは初めて聴く場合、作品の終わり方が驚きである。無論、演奏の質にもよるが、ああここで終わったのだな、それは意外でもあり納得もされるような不思議な音の終末であり、呼吸は沈黙のなかをしばらく漂う。

音の最後は、音の死とはどうあるべきかという問いと向き合っているように今の私には聴こえる。死へと向かう錯乱と死そのものの静寂が混在している。未来と現在がともにここにあるという不思議な感覚におそわれるのだ。現在に出現した幽霊がー音に化身した過去の何かかもしれないー未来のなかを生きている、そういう感覚に。