熊野

熊野 kumano (23) 2010




(つづき 10 )

静けさのなか、楽器の異様に良く鳴るこの乾いた寒さ、世界はその手のひらでおどっている人間の愚かさを沈黙のうちに超えて、悠々たるものにみえる。静寂のうちに、人間を抱え込んだこの自然はあるがままありのままに変化していく。人間も世界のわずかな一部であるというこの当たり前のことを強く認識しなければならない。無常は一つの常態であり、写真こそ無言であり無音であり無常である。

本日は書き出したらとめどもなくきりがなく次第に大きく外れたが、八村さんに諭されるように一区切りした気がしたので、いつになるかはわからぬが、次なる個展への布石を願いつつこの項はこれで終えることにしたい。

今年のこれからの半月の時間は自分の言葉を綴ることよりも、被災地への祈りに捧げ、厳粛な気持ちで来年をむかえたい。来年はまた違った形を求めたい。

春は花、夏ほととぎす秋は月、冬雪さえてすずしかりけり(道元)




熊野 kumano (22) 2010

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(つづき 9 )

たぶん細かい点で書き損じはあるが、そんなふうにして今がある。どのことがらからも強く影響されながら、自分なりに言葉を連ね、なるべく怠惰にならないように意識的に言葉のあり方を変化させながら、その都度ここへメモしてきた。

こうしたすべては、それが自分が生きるための根幹に近いところにあるからだが、臨床と音と写真をめぐっている。医療は真の即興的態度でやらなければならないということは強く思ってきた。即興あるいは音の教えは、当然のごとく人間と深いかかわりをもち、そのことは人間を含んでいると同時に人間を超えた世界からの人間への教えとして作用することをここに確認しておく。

音から医療へ何かが導かれることは大きく納得される。しかし反対に、医療の現実を直視しそれを重視することから写真というものを間接的に経由し、さらに間接的に音の意味を遠くに近くに計ることが、今後の私の大きな課題なのである。このことは考えてはいるものの、きっかけの入り口さえみつけられていない。それほどに医療の現実は激しく、生々しい。

何かを受容するというとき、音の受容、目前の場の受容としての写真、さらにさまざまな感情や不安や情念とそこから離れられない人間の現実(とその病い)、あるいは人間そのもの、各々をそのまま受容することには異なる感覚を要する。擬態のように同じ身体でありながら、個別に対応していく身体とならねばならない。

イメージとしては医療と音のあいだに写真があるのだが、音のきこえない写真をそのきっかけとしていくことは、みえにくいが重要なことかもしれない。音の聴こえる写真を求めたりすることはあまりに刹那的で写真の現実にそぐわない。そのためにはおそらく、八村さんの「主情」ということが写真や医療においてなにかということに、何らかのヒントがある。その経験的発見から音楽をもう一度みるべきなのであろうか。

いずれにしても私は昔から人間というものに興味を抱いているということである。それは無論自分自身のことでもあろう。本質にかえって人間のことをわかっていかなければ、世界の教えもまた到来することがない。本質論を嫌い目先の技術と利益、そして本質を離れた意識にとらわれていれば、人間が人間のなかで幽閉され窒息し、いずれ自らの首を絞めるように自滅する。

医療は医学的な技術や知識だけではないのは言うまでもないが、人としてのいたわりをいつも与えるものでなければならない一方で、私のいまここで知らない教えを、その場において人に教えるものでもなければならない。

そして反対に、各々の痛みが痛みとして死にむかっていく、その痕跡が音や写真に託され、痛みの断簡を呈しつつ写真と音が独立して発見の基礎としてふるまうことがあれば、なお生き甲斐もある。こうしたことは技術に還元されない医療の身体性の根源をもとめる態度であろう。

ここまでくればもはや、その両端に同時にたつことが課せられてくるだろう。しかしそれもまた一つの単純性に帰するだろうが、単純なるものはそうして螺旋をえがきつつどこまでも深く広い。




熊野 kumano (21) 2010

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(つづき 8 )

3
11日に大震災が起き大津波が東北沿岸を襲った。原発事故が生じほとんど何も実質、言葉にならない。知人の安否を気遣いともかく日々がすぎる。かつて三陸沖を写真にフィルム十数本のみとっていたが、いまだに見返すこともできない。いずれ発表するなら撮った全てのコマを等価にと今はとりあえず思っているのだが、それもまだ先のこと。わからないまま。

初めて知ることになった反原発の反骨の人、京大の小出さんが早くから言っていたようにこれを機に世界は変わってしまった。学者、あるいはサイエンティストとしての実践とプライドを捨てたらとたん、学問もあっという間に力を失う。

鴨長明「方丈記」のリアリティと震災の写真がかぶる。政治とマスコミの嘘、現状の科学、学問の限界、政治との癒着、作為としての近代化、市場経済とグローバリゼーション、環境問題の闇などなど、嫌でもどこかで考えさせられる。

大阪では中平卓馬の写真展が印象的。ユベルマンの著書も刺激的。時折東京へ。私の音楽の師である齋藤徹さんを軸としたコントラバス5人の共演(近日DVD化されるそうである)のライブや高橋悠治さんの「カフカノート」を聴きに出かける。

長く暑い夏をへて、秋にはその齋藤徹さんとミシェル・ドネダさん、ル・カン・ニンさんが我が家へうれしい訪問、有意義な話と非常に質の高い即興を間近で久々に聴く。質の高い音の洪水を久しぶりに享受し、音楽そのものに再び大きく触発される。

さらにとても身近でありながら遠かった作曲家、国立音大の文字通り有り難い企画により、親戚であった八村義夫さんが急激に、不意に身に迫ってくる。ここからの身体的影響は書ききれない。

とりわけ八村さんのことは全く否定のしようがなく、私の身体にとっての直接的で具体的な親近性とリアリティがある。義夫さんの兄弟だったデザイナーの邦夫さんからはかつて写真の指南を一度だけ受けた。二人とももういないが、間接的ではあったがどこかで大きな影響を受けていたのだろうか。それが今回、東京の国立音大から今に至るまで契機に呼び覚まされた。





熊野 kumano (20) 2010

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(つづき 7 )

しかるに私は東京を離れこちらで新たな生活を始めてからこの二年半、どのようにして過ごしていたのだろうか。単に振り返ってみても、つまるところ意味がないのだろうが、身体的な区切りにおいて一度俯瞰してもよいのかもしれない。途中で気になっても深められずに放っておいたものは山ほどあるのだが。

もう師走だが、今年は日本でいろいろな過酷なことが起き、今でも生じている。政治や資本主義というシステムはどこまで続くのだろうか。それほど長くないような予感すらする時代になってきた。松浦氏の折口論は政治性ということをやや意識してかかれたもののようだが、何かが私に腑に落ちたのもそういう点が関わるのかもしれない。

何よりもこちらへきて、大きな精神的衝動としてマイスター・エックハルトを知った。内なるものから最も内なるものへ。自己からの離脱、離脱からの離脱という過程と自らに充満される無の聖性。これは井筒俊彦の難解な著作「意識と本質」の記憶をよみがえらせる。都会の喧騒のなかではじっくりとはなかなかいかない。

人間と神性との合一など現実からかけはなれた狂気の沙汰ではあっても、なおエックハルトの離脱ということや、「内なるもの」そして「最も内なるもの」ということ惹かれるのは、本質を求めることの本質が、世界の本質を知るためというより、現実ではそうは簡単に表出されない何かが、ふと音連れるための契機となるということにあるのだろう。

近くの古美術の店が一つの思いもよらなかったきっかけとなる。古い浮世絵や掛け軸、歌川国芳と月岡芳年、そして若冲や岸駒を間近でみて、特に浮世絵の紙を直に触らせてもらったことは大きかった。上田秋成の雨月物語もその延長としての過程において大きな影響を受けた。幽霊と情念。墨の濃淡と筆触の凄み。人間の情念の文学的開示。

絵のなかの書ということにも次第に触れ、それが講じて東京の生活への反省、そして個展「凪風」への個人的な思いと反省そしてそこから離れるために、良寛への切なる心の旅が始まり、越後への旅。良寛からの必然として、とめどもなく深い道元へ。

釈迦に接近するには身体的な無理があまりに大きいにしても、良寛の無音の声を精神として聴くことは生涯かけての実践となるであろうし、道元の言葉のあまりの含蓄はその普遍的な時代を問わない斬新さにおいて類をみず、一生の発見の具体的な手ほどきとなる。

空海はほんの少しかじったが脇へおいておくことになった。だがこの年末年始には雪の高野山へ行ってみたいと願う。雪の永平寺との差異を感じとりたい。空海からは熊楠が垣間見えるが、言うまでもなくおいそれといかない。

曼荼羅、固定的な概念や体制ではない「動きを孕む象徴」としてのマクロ、音の結末としての宇宙ではなく、瞬間に凝縮される音の動きそのミクロの極まったマクロの形としての図。粘菌の描く見事な路線図。これはまだ先のこと。

ある概念や生き方死に方の定本ではなく、個人とその残したものとその都度向き合うということが、私の他なるものへの向き合い方であり、それは私の医への態度と共通するものである。マクロとしての統御にミクロを奉仕させることよりも、音のミクロの質感をはるかに重んじることによってマクロをミクロに宿す八村さんの態度とも合致するのではないか。




熊野 kumano (19) 2010

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(つづき 6 )

八村さんの自らに聴く音の形と時間性は、松浦氏の折口論のはじめに出てくる折口信夫の「斜聴」という概念にも類するものと思う。「折口信夫論」を目にしたとき、不意にではあるが、一区切りしたような気がする。言葉を経由せずに何かが納得されたような気配が身辺に漂い始めた。

なぜかは、はっきりとわからない。松浦さんの文章(たぶん批評に限ってだが)は妙にこれまでの経緯と符合して納得がいく。これによって言葉の膨張感が、いい意味でそろそろ私のなかで止まりつつあるのだろうか。

東京を離れて二年半、自ら選んだ道とはいえ、身辺の急激な変化についてゆく身体が様々な環境の変化の質を多方面に抱えながら、それらがひとつになっていくまでには多くの時間と労力を要した。差異と反復を重ねながら今もその過程にあるが、ここへきて私は、もう矢継ぎ早には進まぬ方がよい。かえってやっとのことで収束されてきた身体が分散していくように思う。(収束といえば昨日突然の原発の収束宣言、開いた口がふさがらない、困ったことである。)

だが、これまで考えてきたことは、身体的な器としての身の肥やしとしての意味を持つにすぎない。腐葉土の感触で身体が納得されたときのように、時間、その歴史と放り出されるべくして放り出される重なりとしての身体、その先端部にあるいまここがあるだけである。だがその密度が一つの形を呈してきたということだおろうか。

それにいくらかためておいても、行為へのきっかけの言葉は一語、あるいは一、二文くらいでしかない。常に時は流れる。そのときその場、行為は単純性に帰結するだろう。

写真や音にとって思想が邪魔になりうるが、言葉が脇に添えられることで身体の言葉としてその密度の極みとしての先端部が一つのおぼろげな境界としての意味として存することができる。境界ははっきりと前後をわけるものではなく、霧のようにおぼろげに存在をあらわす布地としてある。

行為へのきっかけとして無を一つの語句で言い換えることは自分自身への一つの身体的なけじめといってもよい。誰しもやっていることだけれど、それは同時に行為への契機でもあるので、これまでどおり象徴的な言葉を自分の内部のどこかに添えたい。

エックハルトのいうように、自己からの離脱が無であり、さらに無からの離脱が一つの言葉や音に転じるように発せられたとき、あるいはそうして写真が撮られようとしているとき、音や写真が自己をこえて何かがあらわれでる。

そこに聴き、観るものは自分にもまったく予測のつかないものであるが、生活の区切りや契機として重なりとしての自分をかけ、また放り出すことが可能であるための、時間の圧縮された言葉をまずはさがしていってもよいであろう。

たぶん結局はかなり単純なことがらになるだろうけれど、一つにまとまるというより、時間を経たのちにいま立ち止まることを要請されるような言葉、考えというものがあってはじめてできるものである反面、その考えから離脱しながらそこに表出されるものに委ねることが大切であろう。

逆にいえば考えたものをまとめて表現してもまったくおもしろくはない。言葉が身体に降り、さらにそこから離脱するとき、音や写真に何が映されるかという点が自分自身の興味を最もひく。

言葉といってもはっきりとはわからない身体、折口や松浦さんの言葉のような「言葉の身体」なのだろうか。本質をめぐっても本質など本当にはわからない、だが、少なくとも本質をめぐらないと現実に染み出してでてこないものは、はっきりとあるにちがいない。




熊野 kumano (18) 2010


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(つづき 5

八村さんの「アウトサイダー」の入っているCDの他の作曲家のものに折口の「死者の書」を題材とした作品があって、これをきっかけに家にあった松浦寿輝氏のコンパクトな折口論を、たったいまみていた。

なかなかおもしろそうで、八村さんの音から勝手にヒントを得たこととつきあわせてみている。このことについてはあたためて、あらためたいが、何よりも言葉の柔軟さと相手のことを相手に即して考え、さらに自分の課題として深めるという姿勢、そこで大いに問題となる言葉の繊細さが言葉の権力から逃れて、なおかつ重要なことを先取りして言葉に宿らせていく有り様は、非常に難しいことではあるものの、大いに参考にはなる。

折に触れておもうのは、どんなに生活態度や演奏を繊細できめ細かくやっている人でも、ある種の感情的な凶暴さをそなえていることであり(道元などまさにそういう感じがするのだが)、それを自覚しながら行為するというよりも、そういうどうしようもない瞬間がおとずれたとき、そういう狂気としての自己を理性が突き放した過程のなかに出来してくる何かが、みえていなかった一つの発見に結びつく。

本当の行為の質の高さというものはこういうところにあるようにも思うが、それは現実と狂気の接点で生じるようなものでもあって、社会的秩序とは相容れないのだろうか。だが、社会的失敗を抱え込んだそのような行為がまた、一つ一つの社会のみえない創造的行為でもあるだろう。




熊野 kumano (17) 2010

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(つづき
4

先日、家族をむかえに高速道路のかなり濃い霧のなかで二時間ばかり車を運転しながら、八村さんの音楽を聴いた。前日から何かが起こる予感すらしていたので運転は慎重だった。 初期の「ピアノのためのインプロヴィゼーション」は明らかにフリージャズとも質感がちがうな、とおもっていたところだったが、 すぐ先を追い越していった白い車が先の方でスリップしてクラッシュし、路肩のようなところに衝突した。怖い思いをしたが、運良く私は難を逃れた。運転手も無事でよかったがs狂気していた。その日は身の回りでその余波のような出来事がいくつか生じて、家についたときは安堵した。その日はそれから八村さんの音楽もやめたのだったが、、、。

宇宙からみれば人間はチリのチリさらにその末端にいるようなもので、はるか遠い未来には銀河と銀河が衝突しこの太陽系も消滅する。己のなかの最も近しい「情」というものは、だれしも本質的に宇宙の狂気に通じているのだろうか。濃霧の幽玄が、音をしてまったく大げさなことだが、そんなふうにも思わせる瞬間もあって、幻想的だった。疲労していると、映画にも出てきそうな時間だったしそういうふうにセンチメンタルに聴こえる。音と音の間を非常に引き延ばしてみてみれば、そこには無限の時間がいつも流れていて、こういうことはある条件が整うと、非常に鮮やかに感じ取れるものだ。

けれどもそれに酔いしれるとまではいかないが、音楽の夢(=狂気)からどこかしら目覚めると、その夢の残骸が、過去の私のまわりに生じていた現実の身体の残骸に染み渡っている。音は無垢なようでいて、人間というもののおどろおどろしさを浮き彫りにする。なぜかわからないが、車のクラッシュのあと、数年前の自分自身をいつしか思い起こしていた。それもノスタルジーだが、ノスタルジーに浸ることも発見の活路となることも多い。

どろどろして、人間の欲望とエゴと、悲しみとか喜び、凶暴さと繊細さ、生きていることのいろいろな情があり、東京での仕事というものは、個人の生からは本質的にはなれ、社会のなかの役割を演じ、役割のなかで人間と人間の情のもつれが、社会的現象としては表面にあらわれない穴のような場所でどうしようもなく動き、浮き沈みする劇場のような場所だった。だが、社会的劇場の裏で生きている場所、その穴こそが人間の生きる現実、そこに社会の実質があり、ねばねばとしたものや、恨みつらみを抱えた言葉、またそれを隠す言葉を様々な場面で感じれば感じるほど、いわば都会のみえない現実に生きることの過酷さを思い知った。

こうして「錯乱の論理」とともに動き出した現実と心の狂気は、やがてある場所に落ち着いて静まり返る。それが音のさったあとの沈黙であり、そういう狂気を世界が内包していると気づけばきづくほどに、理性がこれを押さえ込むのではなく、理性はこれをつきはなし、狂気は狂気でありながらはっきりした正気へと冷めていく。そうして音はより「主情」的に聴き取られ、それによって客観視されてくる。

この過程を経て、音は恐ろしいまでに何かを映し出す、それは確実に映像的でもある。写真はもうみなが何かしらの形でやっているに等しいが、人間にとっての情と、情を突き放す世界の冷酷さを、その過程をふまずともそのなかにあらわしてしまうさらに冷酷な媒体として、私にはいまうつっている。だがそれゆえに、人間は簡単に死(=写真)をみつめることもできない。




熊野 kumano (16) 2010

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(つづき 3

八村さんが「主情」というとき、「主情」とは、内部がそのまま音として外部へ放出する感情ではなく、内部が内部を通過して外部へと至る、負と負のかけ算としての正の運動の過程とその放出過程の音のエネルギー、そして音のエネルギーの無へと消え去る儚さそのものなのであり、その運動が他なるものへの糸口となるということである。

その音楽は、音色とそのつながり、無音(静寂)とその間による時の錯乱、音のイレギュラリティー(乱調)の誘発、「錯乱の論理」を通じた音の多面体(ポリフォニー)による音楽なのであって、表現主義ということではないようにきこえる。表現のもともと極まっていないところにそれを超える表現もありえないが、その個性はそのように表出するものではなく、その身体的な筋道(論理)とその音への凝縮のなかに必然的に表出されるものである。

こうしたことを書くのは当然のことながら、自分自身への課題にむけて書いているのだが、私はバッハ同様に、こうした多面体としての音楽/音とそのつながり、もたらしているものに強烈にひかれる。それはいま私が診療をしていることと決して無縁ではないとおもうし、オルガニストであったシュヴァイツァーがバッハ研究をしていたこともこれと無縁ではないように感じられる。

数多くの人を診るということは、第一義的にそれだけ外部との接触により病気や病因の解析データが増すこと(もちろん現状においては大事な方法であり実践なのではあるが)よりも、むしろ、内部としての自分自身を多面体にしていく実践として、私自身がそれをとらえているからだろう。

「一対一」という多数で複数の各々全く異なる質と場、その変化にその都度、この身体が土着的に向き合うこと。常に未来に何が起こるかを感じ、思いながら、そこから今なにをすべきかを思うこと。日本の現状とあいまって、そういうことをさらに意識させられる。




熊野 kumano (15) 2010

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(つづき 2

八村さんの幽霊と対話する日々。ニコンで初めて写真の個展をしたとき、振り返ればそれがたとえ浅いものであったにせよ、一瞬の呼吸感の持続ということが私にとっての大きな課題だった。それは八村さんの書いていることの一部によく似ている。

「ラ・フォリア」を読むと、会ってもいないこの作曲家にただならぬ親近感と自分自身への発見を次々と覚える。氏が死去されたときのすぐれた新聞書評がいくつか本にはさまれていたが(私の両親が切り抜いてはさんでおいたものだろう)、そのなかの気になる言葉「(八村の)すぐれた指摘は、なによりもまず指摘したもの自身にあてはまる」、「人は、自分自身を発見するようにしか他人を発見できないもの」であるのだが、、、。そして、その一つはショパンを引き合いにだしていた。超表現主義などともいわれるようだが、私はむしろバッハと対比したい思いにかられる。

あくまでも気力が充実しているときにその音楽を聴くと、ショパンよりも断然バッハ的に聴こえる。多面体(ポリフォニー)としての音の表出の両極がバッハと八村さんにあるように思えるからだろう。正反対に聴こえることは、両極をむすぶ線があるということでもあろう。 うまく言葉で言えないが、少し書いてみたい。

バッハをたとえ一曲でも何度も練習していると、一回ごとの味わいがある種の色として凝縮してくる。たとえばとてもうまくいく日は、今日は深青色の一曲、今日は薄墨色の一曲というように。バッハを弾くというのに不純でなにか汚い色の演奏もあるが、それでも納得いく場合とそうでない場合もある。

曲のなかでもポリフォニーの低音部、中音部、高音部がくっきりとした和音と旋律で見事に整然と分かれており、時折アクセントのように他の一色が加わってポリフォニー全体の和音の色の雰囲気が変わり、そうして音楽の動きが時間的に豊かにもたらされるようにできている。無論、一音の音色でずいぶん印象が変わるが、空間としてのポリフォニーの構築のなかにその変化があるという印象が全体を支配している。

八村さんの場合、音色がめまぐるしく変わる。一音という音の質感が基礎となっていて、その連なりが色の重なりを意味し、連なりと連なりの間にある無音は、音の連なりの混在された色の残響を残しつつ、それが消える。そして次の色の音、色のつながりがはじまる、その残響と音の開始が無音の間のなかで混在しているような印象だろうか。未来へと進んだ色の音色が、残響が瞬時に次の音色にまたがる。これが未来と現在の音の混在という印象をかもしだすのかもしれない。

その未来は聴き手にとってはおそらく単なる音の記憶なのであるが、たった今、数秒前にこれだけ鳴ったという過去形のなかに、矛盾をはらむように未来からの運動、あるいは未来への解放性(狂気のなかのぎりぎりの自由、釈迦の不自由に隣接する自由にも似ているだろうか)が生じる。そのすぐあとの音がその「未来としての音の記憶」をさらに印象づけ、新たな音のはじまりが今現在となって続く。

音が宇宙へと上へとのぼって希薄となり自由になるのではなく、音は地を這い回り、未来が地に練り込まれるのである。 私には常に音が未来からやってくるように聴こえるのが不思議だ、音が未来から過去へと流れているのだ。

こうした音楽の錯綜した時間のあり方を非常にひきのばして巨視的にみてみれば、 未来の音のあり方のヒントは、 古典を通じてもたらされうるということも理解される。過去をそのまま今に応用するのではなく、過去から他ならぬ未来を学ぶ態度がなぜ大事かということも同時にわかる。




 

熊野 kumano (14) 2010

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(つづき 1

譜面どおりとはいっても、作曲されたもののなかの演奏家の即興性も一つの大きな前提となっている。作曲行為ではあるが、演奏家との共同作業的な面が強く、それは作曲家としての質の高さは無論だろうが、演奏家の質の高さ、いいかえれば演奏家の音への普段からの態度がいかに密度が高いかによって、出現した音楽空間の密度がそのまま決まるように作成されているようにみえる。八村さんと対峙しながら何かを教わったり、曲に借りて自らを表現したりするというより、八村さんと一緒に音を進めるようにひくと、その作品の魅力が発揮しやすいのではないかと私には思える。

作曲家としての個とすべての演奏家の個のつきぬけた場そのものによって、場のなかに浮かび上がる音が多面体を呈し、作曲家と演奏家を超えて呼吸しだし、それが聴衆に自由に開かれることにより、聴衆が音をあらゆる方向からとらえることによって、時空が多様に変化していく。その作曲行為による音楽のあり方はそのような、まるで非常に熟練された即興の形と近接して位置するようにあるような作曲の方法であり、瞬間の持続的呼吸が印象付けられる。

八村さんのようなアウトサイダーから発見する何かは、音楽のジャンル分けをこえて、音と音の糸をつなぐということであり、それは個が異様な強度をもった個性となり個が個をつきぬけるとき、内部の音の糸が人間の糸をつなぐということであろう。八村さんは非常に寡作だったのも、異様な個性の表出への厳しさが作品数を抑制したということだろう。

個々の音が個々であることに、各々の人間が各々の立場で相互に注目することによって、ある重要な微細なサインおよび変化をみのがさないこと。それは量の論理が一つの質の個別性と特殊性を覆わないあり方であり、質の深みから糸を紡ぎ、どこかの未知の糸、あるいはいまここで私の知らない糸とを最良の形でつなげるあり方である。このことは臨床医学にも応用しうる。

医学の手法に言い換えれば、医学において何万人ものデータのエビデンスを基礎に普遍を結論づける手法よりも、たった一つの非常に特異な疾患と症例のふるまいから、眼には見えない病因の糸を探り当て、糸が糸をつなぐように現象の底にある普遍の生体の糸をさぐる方法を八村さんはとったということである。

過去の経験と分析を現在にあてはめて適応していく応用のあり方ではなく、過去を未来という未知、いわば過去の幽霊をひきだし、幽霊をいったん浮遊させ、その未来を現在にひきよせながら、現在を来るべき未来と混在させつつ実践していくあり方、過去によって規定される変動のなかに定まった未来を今が受け入れるというよりも、今の実践が、常に未来を変化させうるあり方。音は過去の積分ではない。だが、次の音は今の音の微分でもない。今の音にすでに未来が含まれている、というより未来が積極的に今の音に宿っているような音の印象だろうか。時間の錯綜が静寂を基調として漂う。

飛躍かもしれないが、たとえばそのあり方は、未解明の低容量の放射線被害による発癌が将来生じるまえ、あるひとつの特殊な症例からその影響の特色を呈する重大なヒントを見出し、すでに起こったことをもとにレトロスペクティブにあるいは確率論的に検証する(そのときはもう遅いのだ)まえに、事態の推移を微細に予知し、未来に生じるべき様態をあらかじめ察知する(そしてこの場合それを極力回避しうる)ようなあり方を導くことはできないだろうか。

それは科学的根拠の再現性を待たない行動であり、未来が現在にいながらにして現在を決定し、その現在がふたたび、過去へではなく未来へとかえされていくあり方ともいえる。それはたんなる予想や想定ということではない。科学が今後進化するとすれば、その実証的方法が身体感覚(道元ならば、いわば感覚の論理、八村ならば「錯乱の論理」 (八村さんの曲のひとつのタイトルである) といえよう)を言葉(脳)の論理と等価同質に、かつ連携的に扱うときである。

こうして未来と現在が整然とせず分別しがたく区切られないことによって導かれる、極力にまで高められた緊張と密度の身体ー「錯乱の論理」。その音楽が澄んでいて厳しいのは、その精神がこのあまりにも内的に透徹した過程によって貫かれているからである。(作曲行為は言うまでもなく多くの音楽的背景と考察を経ているのだが。)このコンサートの表題のようにもし八村さんにアジアをみるなら、こういう見方が私にはしっくりくる。それのどこがアジアかと問われれば、うまく答えられないのではあるが。

それにしても八村さんの自作自演がないものかと思いながらも、コンサートのラスト、八村さんの残した晩年の曲「Breathing Field」を聴いていた。パーカッションとハープの演奏が良かったので納得できた。この終わりはやはり氏の死を予感させる。

エッセイ集のなかのインタヴューで、今後何を題材としたいかと問われ、方丈記と雨月物語をそのなかに上げていた。帰りの新幹線のなかでこれをみたときには、八村さん自身の幽霊を我が身に感じた。今、八村さんが生きていたらどんなことをしていただろうか、思いはさらに募る。




熊野 kumano (13) 2010

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先日、作曲家の故・八村義夫さんの曲を初めて実演で聴くため、「八村義夫とアジア」と題されたコンサートを聴きに国立音楽大学へ行った。そのときに思っていたことをラフに書いておきたい。

八村さんは近い親戚だったが一度も会ったことがなく、私が中学生のときに若くして亡くなってしまった。母親の話によれば、癌家系で本人も癌で亡くなられたという。今回、三曲が披露された。行く前日に、演奏の水準も非常に高いと思われる代表的な三枚組のレコード「Breathing Field」を聴き、音大につくまでの電車のなかで二日かけて、死後にまとめられた八村さんのエッセイ集「ラ・フォリア」を読み返していた。

演奏が始まる前には、エッセイ集のなかに蓄えられている作曲家の魂が私のなかに強く響いていたので、音のイメージの輪郭は私のなかにはっきりとあったし、またそれが私のなかの音のイメージでしかないこともわかってはいた。だが八村さんの場合、私はそれで音を聴いてもよいと思っていた。そして聴きにいくのであれば、それぐらいの準備は最低でも必要だと感じていた。

ホール客席のど真ん中に座ったとき、今は亡きこの作曲家に会いたいという思いが強烈につのっていた。そういう感じだったから、いうまでもなく期待は大きかった。一部の正直で真摯な演奏家をのぞいて、実際の演奏は過度な期待感を差し引いても正直言えば決してよいと言えるものではなかったが、いま鳴っている聴こえてくる音から何かを得ようと思いながら音を聴いていた。

途中からは他の作曲家のもの、新進気鋭とされる作曲家の作品も含めていくつか演奏されたが、作曲家はともかく、演奏家は何をどう考えて音楽というものをしているのかということが、困ったことにいつしか、私のなかでその日帰宅するまでの最大の疑問へと変わりはじめていた。八村さんのことはおいても、日本の「現代音楽(ゲンダイオンガクと書いた方がよさそうだ)」というものは一体何のためにあるのかと思いながら、時はむなしくすぎた。コンサートが終わり、それはやがて私自身への問いへと広がっていた。

音楽にとって、作曲家よりもむしろ、今ここで音を奏でる演奏家とその聴衆のあり方が、音楽という経験そのものなのであり最も大事なのだということを理解していれば、演奏はあのような音の形にはならないのではないかと感じたのがはじまりだった。技術的に困難な面は大いにあるだろうが、作曲家の作品を演奏家がそれなりにうまくなぞって再現し披露する、それが作曲家の作品を奏でる音楽の目的だとすれば、明らかにむなしい。

作品と対峙している演奏家とそれを聴く聴衆の、そのときその場の音を聴くという身体的強度がなければ、その時空には何もおこらないに等しい。演奏は、この今に本当に対峙していたのか。思い入れの強い私にはそうは思えなかった。

八村さんは本人の合唱曲の作品の題名にも一部あるけれど、本人が「アウトサイダー」だったのだろうと私は思う。閉じこもった自己憐憫的な「ゲンダイオンガク」には距離をおき、音楽についての幅もジャンルということに分け隔てなく広く考察していて、何より言葉が的確であることはコンサートのパンフレットでも指摘されていた。音楽のアカデミズムにのっとった演奏の態度ではかえってその良さは出ないだろう。

その作曲の最たる特色は、多面体として提出された音のつながり、その呼吸感の持続というべきもので、はじまりから終わりまで音の密度が高く、多彩な意外性に富んでいる。久々に、あるいは初めて聴く場合、作品の終わり方が驚きである。無論、演奏の質にもよるが、ああここで終わったのだな、それは意外でもあり納得もされるような不思議な音の終末であり、呼吸は沈黙のなかをしばらく漂う。

音の最後は、音の死とはどうあるべきかという問いと向き合っているように今の私には聴こえる。死へと向かう錯乱と死そのものの静寂が混在している。未来と現在がともにここにあるという不思議な感覚におそわれるのだ。現在に出現した幽霊がー音に化身した過去の何かかもしれないー未来のなかを生きている、そういう感覚に。





 

熊野 kumano (12) 2010

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他なるものを感じ想像する心は、動物の慈悲ほどに尊い。釈迦尊の動物への言葉は、なんともいえず、感慨深い。なんともいえない。

先日テレビを疲労を紛らわすようについついみていたら、ある番組で紹介されていたナショナル・ジオグラフィックのシーンが心に残った。ヒヒに捕まえられ、いまから食われる子鹿の眼はすべてを悟り、動じずあまりにも澄んだ眼で死を受け入れる。ヒヒとの決戦に勝ってヒヒを食べたヒョウはヒヒのおなかの赤ん坊を見つけ、枝にのぼりかくまって慈しんだ。だが赤ん坊はその夜、凍え死んだ。哀しさのなか動物は淡々と生きる。食物連鎖や生態系(それも人間の側の言葉に過ぎないのだ)をみだりに乱す人間の欲のおこがましさ、思い上がり。カメラは冷静で冷酷にもすべてを捉える。はるか遠い未来の人間は慈悲や思いやりを世界の価値観とするだろうか。

釈迦尊のことばを少しよんでいるとこの身はどんどん小さくなって、なくなってしまいそうになる。意識が意識を凌駕するというより、意識はどんどん小さくなる。ジャコメッティの小さな歩く男はちょうどそのようにしてできたのではないか。残るのは動きつづける魂のような、それもどこか弱々しくだからこそ芯のある存在のことば。脱力の発する巨大な力のような。

いま書きたくても書けないという状態、いまそうであってもこうしてなにか書き出せば、どこかにつれていかれる。書きたいことではなく、書いて何かわかることがある。整合性はなくともそういうものの方がやはり自分にはあう。言葉の論理が身体をしばるのに長く耐えることができない。出すべき音がわからず、音がでてこない、そういう生みの苦しみも、何か音を出してみれば知覚の新しい窓が開け、苦しみが苦しみでなくなることもある。それは言葉の論理ではない。人々が苦しみから離れるためにどうすればよいか、釈迦尊が求めたのはそのことである。近代の学問は釈迦という人に適さない。いやそうではなく、堕落した学問が釈迦の言葉を覆い隠し、忘れた。

釈迦尊の言葉は澄み切っている。何とも言えない滑らかな質感の水を湛えているような。道元に何かを感じるとき、無にうずまく音から力が湧き出すように手を振りかぶって書くこともあるが、釈迦尊においてはそもそもはじめからそういうことはない。釈迦の本質は釈迦のまわりに虚構を創造したり想像したりして描こうとすることができない。だから釈迦についてついに何か言い得て妙を書くことはできない。それなら釈迦の言葉をなぞるのがよい。言葉をなぞるように書く。弾く。はかない音のもつ強さは、動物のしなやかな動きの繊細さと、眼の無垢さ、その誰をも寄せ付けないほどの美しさにたとえてもよい。だがはじめの音が定まるまでは遠い。力を抜き、意識の欲をなくすまでの時間の流れを経て、でてくる音の力の密度はます。それが音に出る。弦をなぞるように。脱力という力。

釈迦のさまざまな言葉の問いに答えられるかー だがついに、「心さらに答ふることなし(長明/方丈記)。」さらにつづいて長明のことば「ただ、かたはらに舌根をやとひて、不請の阿弥陀仏、両三遍申してやみぬ」。方丈記の最後、舌根ということにずっとどこかでひっかかってとれない。エスキモー(いまはイヌイットといったほうがよいのか)のとある音のあり方に身体がひっかかっているように。仏教、多神教、アニミズム、遺伝子他の生物学的事象、それらの移動と混在としての日本とは、民とはどこか、なにか。全ての接点がこの身体にある。 釈迦尊もその一人に違いはない。 欲という腕力の脱力にその接点はあるだろうか。

方丈記の終わりは、長明にとっての正反合の合か、そうではない。正と反とが合わさらない言葉、身体はそもそも合を知っているのに、正と反による合のついに出ない言葉、それなのに納得される不思議な言葉が突如として最後にでてくる。心さらに答ふることなし ーただ見事という他ない。言葉の質感は言葉の導かれた過程を想像するをはるかに超えて、ますます重い。鴨長明という人は方丈記で心の内景ではなく周辺の有様を書いた。そして唯一の自問についに答えられない長明は魅力的だとおもう。

音自体の行方に正と反と合はない、舌根は音と言葉の分離するまえ、音のまえに存する元本か。舌は触覚、味覚、そして聴覚でもある。正は正のまま、負は負のまま、ともにそこにあって、たった一文でプラスマイナスから飛ぶようにゼロが出現するこの脱力のマジックはどうしてなしうるか。

意識は若いようでも身体は刻々と衰えてくる。身近なもので事たれりという、ある脱力した感じを本当に身体がもってくるときたぶん、奥底に眠っている音はその闇の静けさのなかからまるで幽霊のように出てくるだろうか。自らの脱力を次への大いなる力として。脱力させられて歪まされるのとは逆。釈迦と道元を摘みつつ、遠ざかる、その繰り返しのなかから、方丈記(や、私にとっては上田秋成の雨月でもよいのだろう)に何度も何度も近づいてみてもおもしろい。言葉の動きが示す身体に、固執するなら固執して。




 

熊野 kumano (11) 2010

Pasted Graphic 16

人口が70億を超えた。黙する自然から言えば遷移にすぎないだろうが、これだけで人間にとっての環境への影響は計り知れない。そして人口が減少に転じることはしばらくはないといわれる。世界のなかで、国の内部で生じていることとおなじように、地球全体のなかにおいても押し付けられた価値のもとで大きな格差が次々と生まれている。宇宙へ居住空間を拡大したとしてもさらに格差は広がる一方だろうことは想像に難くはない。

熱帯雨林でさえ適切に人間が管理しなければならない時代、市場経済は地球に蔓延し、すでに一部では自己破壊を迎えるほどにまで成長した。膨張した風船はそうしているうちに割れ、世界は割れた風船の破片が飛び散るように多極化し、混乱するにちがいない。その先にはどういう事態があるのだろうかと考える。

人口減少と宇宙への居住空間の拡大、それが現実的困難ともない人類にとって最善の道でないとすれば、第三の道、すなわち余裕のある場所に生きるものたちが、他者の為に自己の自由を制限するという道、自己の自由を獲得するための人道としての作為のベクトルは、これから本質的にこうして他者へと向かう方向へと転じ、逆向きとならなければならない。いまの日本にはそういう本質的な契機と動きが、もしかするとあるのかもしれない。

際して、原発事故というとりかえしのつかない失態を経験したこの国は、明治以降の脱亜受欧を根幹とする近代化の行き過ぎへの反省とそれへの単純な自己否定、あるいは都合の良い自然への回帰主義と茫漠たる感情移入をもってしては、現在をやはり乗り越えられない。現在の自然との関わりの実体を見据えながら、自然観を正直かつ謙虚に見直すとともに、現実にはびこるように生じている人間中心の功利主義を真正面から捉え、持てる技術と知恵を人間と自然のために、自然を尊重しつつも自然に最善な形で介入しなくてはならない。

政治は政治的人道として、自ら育てた優れたあらゆる民間の技術を、とりわけ未来を担う子らの命と、自然への作為の方向転換のための知恵として着実に現実に運用すべく、基礎的な情報公開を率先してすべきである。出来事の記憶は風化し忘れ去られ、歴史は旧態依然とした作為としての人道によって今後も書かれるおそれもある。次の時代への責任を少なくとも負うために、勉強し考えなければならないことは山ほどある。しかしながら人生はあまりにも短い。


このようなことを雑多におもいながらも、道元に方法を学びながら、ブッダのいいのこしたことを少し文庫で読んでいる。ブッダは政治から距離をおいている。非常に巧妙にあたかも正論かのごとくやってくる悪のささやき、それは一見正しいようでいて、おそらく一つの落とし穴をもつようなものなのだが、そういう何かを感知し、それを逃れ克服もしながら、自己の道を貫いている。そして悟りを開いてからもその格闘は続く。道元とみているもの聴いているものはやはり異なるように思える。

言葉はとてもやわらかく、その音は非常に豊かで具体的であるようにきこえる。風が具体的な音を木々とともに奏でるように。現代語訳にもよるのだろうが、道元の静寂と沈黙のダイナミックな運動と静止から生ずる音のあり方、風そのものののなかに入るということとは対照的に、風が木々とともにそよぐ音を、ブッダは言葉につぶやいているように聴こえてくる。

道元は無音という音のあり方と直に連関する一方で、ブッダはいまここに流れている決してやまない音楽であり、それは永遠に吹き流れ続ける音、そういう感じが強くある。それは音や音楽を超えた世界に染みわたる声であり、沈黙と静寂をも包み込み、変化し続けるという不変を示しているように思える。

与えられた見せかけの自由をもてあそぶこともなく、 自己の求める自由をも超えて、ブッダの言葉の時空にはそうした根源的な自由、不自由と表裏一体のぎりぎりの自由だけがただ、広大にただよっている。それも自己と密着することによって自己からはなれ、自然と他者への慈しみに満ちて、具体的であるように聴こえる。ふと口からもれた、そういう言葉としての声。

音を奏でることの意味が、ブッダの言葉によってわかるのではないかとほのかな期待、ありもしない空想を、どうしようもなくいまここに寄せる。だがそれは自分勝手な絵空事とも思われない。私にとって自分が音を出す意味は何か、そのことをどうしても、生きているあいだに大きな意味において納得したいがため。

音を出すことの背景を知ることのない限り、私は真に私ではいられない気がいつもいつもするのだが、そうしたものは以前のように自分自身への焦燥感としてはあらわれないようだ。こういう状況であっても、過去から未来を学ぶことによって、いまここに生きていることへ微かな希望をいだいているのだろうか。ブッダという人はあたかも未来からやってくるようだ。




熊野 kumano (10) 2010

Pasted Graphic 17


人間は環境の一部であり、環境を条件づける。少し現実に返って、日頃のもう一つどこかでずっと考えている自然についての輪郭を書いてみようと思う。

道元は自己と環境との一体の経験を重視していると考えても無論良いが、環境破壊の理由を西洋のデカルトなどの起源に求め、日本において大きく広まり、発展を遂げたと言ってもよいであろう大乗仏教などの輪廻や、すべての生けるものや鉱物にまで宿る仏性をもちだして、こうした東洋的、日本的な観点を現代にふさわしいとことさらに強調する向きもいまだにある。

しかしながらすべてに仏性が宿るということの過程、すなわち自らもまたその一人であることの自覚への過程を踏まずに、その過程が飛ばされ、結果としての情報とその享受のみを授かり、これがある固着した定義を抱えだす時、すべてのものごとはそもそもそのまま安易に肯定される、疑うべきものではない、そのような一種の怠惰で生死に対して淡白な距離しかもてないような、生死への消極的な世界観を生み出しうる。

それは人間にとっての未来への理想、それにたいする積極的な意志、その力動をむしろ妨げる方向に働く。自己肯定は自己否定の否定としてあるのであり、そこに負と負のかけ算による反発力が生じるのにたいし、結果としての正のみが強調されそこによりかかる結果、過程としての負の状況に自らを置く、あるいはそこに置かれることの意義を失い、あれはああいうものであって、これはこれでまあ仕方がないという自己の力動とはかけはなれた消極的な肯定、もっといえば言い訳じみた無責任が露呈することになる。それは一つの形式主義であり、本来的な責任ということをともなわない、他なるものへ寄りかかった世界観でありうるだろう。それだけに容易に権力にとりこまれるだろう。

固着された形式主義からは、常識的なパターンをくつがえす例外を認知できる身体的な柔軟さは見いだせない。現代において形式主義は次第に身体からもはなれて言葉の膜を帯びて神格化される。その神格化のなかで現状肯定、なすがままとなり、自らを問わずに逃げるように他者をたより、安直な自己弁護的な肯定と否定を繰り返す。目的意識がなく、反省することのないままに人間が機械の部品のように動く、目的の誤りを指摘するものは、形式主義と隣り合わせにある暗黙の巨大な権力によって徹底的に排除される。

江戸期においては、仏教とは離れて、貝原益軒や荻生徂徠、二宮尊徳のように、儒学あるいは朱子学を三者三様にではあるが解釈し直した人物によって、人は万物の霊長であり、環境を人間が条件づけていく、すなわち自然を人間が支配しうるという、いわば実践的思想がみられた。土地は荒廃し、自然環境はおそらく今のように気安く自然と戯れるというようなものではなく、極度に貧しく厳しい封建制度のもとで明日命を落とすとも限らないような、きわめて厳しい環境に置かれた人々が暮らすなか、土木や治水への技術に対する期待は大きかった。 つまり少なくとも非人間的な暮らしから人間らしい暮らしへと変革をうながすための実践的な学問がその時期に形成されていた。このように江戸期において仏教のみならず、朱子学や儒教の影響も大きい。

明治初期においてもこうした気運の高まりに乗じて西洋の技術を適応しつつ豊かになっていくことが必然的に目指された。西洋的な技術への疑問や抵抗よりも、そうした技術をうまく取り入れ人間の住みやすい世界を創ってゆこうとする必然の成り行きが生じたとも言える。そしてこの受容は、西洋を否定するどころか、西洋の速度を超えるばかりの適応能力を内包していたとさえ言えるだろう。

江戸期においては、人の道はあくまでも人の道、人道であり、作為であるという自然観を内包し、同時に天道の教えから差をつけるように人道を分離し、宇宙の根源的存在としての理法を一面において否定する、それはあくまで当時においてはであるが、封建的な社会制度の絶対性を否定し、裏を返せば人間が個としての独立を目指す営為でもあっただろう。

この内的な力動とともに、たとえば草木を殺生することは人道にかなうこととされるのは、当時の社会的な過酷な状況からしてある意味当然とも言えるし、民からすれば生きる為の知恵であり、一つの健全さであるとさえ言えるだろう。かつては空海も治水などの実際的知識に長けていたというが、江戸時代には道元をはじめとする仏教的精神的な世界観とは異なる、こうした実際的な方法がとられたといってもよい。

こうして自然を支配し、人の理法をもって自然を条件付け、人間の生きやすい環境にしていくという実践、そして西洋の発展的な技術を取り込んできた事実は少なくとも江戸から明治期にかけて我が国に実際存在していたのであり、多数の見解があること自体は歓迎できるが、たとえば現代の環境問題を単に西洋文明の責任に転化することには問題がある。

だが、それから百年以上が経ち、技術革新の驚異的な連続的営為とともに、個々が実生活のなかに生きる実感とその意味を空虚のうちに失い、技術と生活が離ればなれになりつつも、世界(自然)は西洋東洋を問わずあまねく人間化された。それは自然が資源として化して、自然は環境として認識され、ほとんどすべての世界は市場化し、経済化したと言い換えられる。

だが高度資本主義社会のなかで世界は一体化したようにみえて、一体化に排除されるところでは深刻な殺戮が生じているうえに、憂慮すべきなのは固有性が次々となくなり、文化は平均化され、あらゆる情報がマスコミなどを通じて、知らず知らず何ものかに支配されるという構造を帯びたことだ。思想さえもがそれによって伝播される。

人間が部品化されるなかで、 世界を支配するために、本来的な責任をとるべき場所がそれを回避し、部品としての個々の自己責任という形で変換されるように押し付けられる。 このように、現代はいかにも複雑怪奇で怪物的であり、不健全で不気味に映る。

アリストテレスもそうであったが、レイチェル・カーソンもまた(現在においてこそ様々な批判にもさらされているようだが)、「何のために」ということを意識せず、与えられた課題に単に技術的に取り組む過程の怖さを指摘した。こうしたばあい、時として予期しないような事態が生じやすいばかりか、それに適切に対応できないということもすでに彼女は指摘している。原発問題はまさにこの通りのことが生じているということだろう。形式主義と責任意識に欠けるこの国で生じたこの問題の根はあまりにも深い。

見返りのない天道を忘れ、見返りを求める作為としての人道、あるいは政治的天道のみに依拠し、あらかじめ権威ある家や父や君といったものが暗黙に尊重され、それに寄りかかって安心する一方、自ら自身への、あるいは自らと遠くはなれた世界への想像力は欠如し、安全ということとそのリスクについても論理的かつ冷静に考えにくくなる。このような体質は、どうにか変革しなくてはいけない。一例としてあげた、環境破壊の根拠を安易に西洋に求めることは自らの歩んだ過程の道を省みない責任転嫁の良い例であろうと思われる。

物質的に豊かになるために技術を用いるのではなく、これからは一人一人のエネルギー消費を縮小するために、すなわち貧しくなるために、生活様式を変更していかなければならないのだろうが、このような道をこれまで人間は選んでこなかった。なぜなのか。仏教のおおもとを少しかじってみると、紀元前三世紀にまとめられたブッダの動植物を慈しむ言葉は、具体的な経験に基づいて非常に豊かに書かれているが、これは本当の意味においては伝承されてはいないだろう。

自然への環境付け、バランスを失わせるまでに行き過ぎたその方法と目的を転換し、国家権力としての天道を生きる身体が避けつつ、 負の遺産の残したものに正直に眼を向けて人道としての作為のベクトルを方向転換し、さらに自然との具体的な関わりを通じて仏教ならば生けるものの生と死の尊厳をとりもどし、朱子学ならば見返りのない真の天道を生きる、安易な肯定に安住せず未来へと意識を高めていくこと、このようにして、この転換期を乗り越えられなければならない。

このことはこれまで人が本当には選択してこなかった理想論ではありながら、実際上もはや避けては通れないだろう。自然に感情移入し理想を語るだけではどうにもならないのかもしれないが、そうでなければ少なくとも人間の住む地球環境は、ほどなく終焉をむかえるといわざるをえないのではないだろうか。

(今日書いたことは、ふとしたことから思い出した農学部時代に出会った私にとってはかけがえのない恩師から学んだことに、特に江戸期の自然観を中心として大きく依拠しており、さらに今の感覚をこれに補足しているが、現時点での自らの感じ方、考え方としてさらに言葉にしておきたかったため記してみた)




熊野 kumano (9) 2010

Pasted Graphic 18

道元のように感覚を研ぎ澄ませ、文章の論理力ではなく言葉をその手段として感覚の論理をさらに浮遊させる、そうした力によって呼び寄せられるものは確かに存する。何かについてついに論ずるということがないありさま、無論ということ、そのあるがままに満たされた無として。

論理の意味の破裂されるその寸前にとどまること、破裂の直前を破裂しそうになるという運動そのものによって保つことが感覚の論理を導き、感覚の論理が言葉の意味の論理をかろうじて存在させながら、論理が論理を超えようとするところにあらわれる他者。その他者は自らのうちにやってくる。

満たされた無としての他者の到来が、自らの内側に形成されようとする論理を異質化するように動く。こうして私は私のなかに沈み、他者に置換されるような得体のわからない違和感、私と他者の異質化と同質化の繰り返し、瞬時の置換の極点、生成と破裂の間隙において動きが自然に静止しようとするとき、動いているという静観を得ることもありうる。

我に返るのはそのときである。だが、静観しているその状態は外側からみえず、内側からも聴こえない。我に返るその一瞬にだけ、静観が宿る。ふと場のなかに入りそれと気づかずにシャッターがきられていたときのように。 一千分の一秒のなかには誰もいない、所有される現実のない、存在があるのみ。 静止と無音に身体の一撃が加えられること、その力が我を我として再び生じさせる。シャッター音、その機械性とその操作性の住処はここにある。それはコントラバスにおける弓の手触り、毛と弦の脂によって擦れる音が揺れたときの瞬発的な摩擦音にも似ている。

こうして経験された心の無はそのまま他者の介在によって心の力動となり、私はいわば生まれ変わる。静寂という地に生えて風に震える竹、竹の合間からの木漏れ日のように、のびやかでしなやかな心の動きがそこに生まれる。撮ったあと、すぐに画像を見れないフィルムの特性。心を待たせ熟成させ、フィルムが物質的他者となり私をまた異化するために。そのとき時間はもはや時間ではなく、時間の長短は時の密度のなかに消失する。

少しかじった程度で禅を本当には理解していないにしても、少なくとも禅的な過程は音を弾く過程においてもあらわれるし、写真はうつされたものはおくとしても、おそらくその構造と機械性、その手法自体は禅、あるいは禅的といってもそれほど間違いではない。何よりもそれは普段の仕事をまっとうする過程、仕事をさらにその過程内容において洗練させようとし、それを慣れの怖さから救い、動きながら質を保とうとすることそのものの手がかり。それはそれをもとに理論化し作品化できない行為そのものであり、過程そのものである。

しごく勝手ながらも良寛や道元にこの感覚を裏付けるものを欲したのだろうと思う。それは他者へではなく自らへの欲であるが、その自覚とともにその思索を追うことによって、いまの自己を肯定するため、結果、そのためなのだろう。道元は神秘ではなく一つの方法であり、現実と夢のあいだを漂う世界のリアリティを形成しうる。この身体化に適しているのは何より毎日の仕事を大事にすることに他ならない。私は良寛や道元に仏性のありようを見ようとしたのではなく、いってみれば、その個人個人から感覚の筋のようなもの、微細さと弱さの孕ませる痕跡のあり方とその残余のあり方を学んだのだろうか。

道元は思えば思うほどその解釈とは別物でありつつも、私にとって一つの何かの論理として今ここにありつづけている。いまのところ、そこからこの感覚が逸脱しようとはしない。炎は炎を自ら消すことはできないが、炎の消える場所、炎の消えた微かな煙の匂いは、その論理と言葉の政治からもれる。そのために道元は言葉を書いたと想像もするのだが、その言葉からすらもれるもの、不意にあらわれつつ不意に消滅する光、揺れる炎を導いているもの、炎を消すもの。言葉からもれるもの、言葉の木々のこもれびは何だろうか。

私の日常のことどもにつねにまとわりついてくるようにあって、自分ではまだ良くわからないもの、簡単には近寄れないものがある。しなやかな心、その竹のうごきにいったんはしのびよるが、ついに竹と同質化できない風、竹の隙間からもれてこない光、岩に染み入ることの決してできないような音は、無限の時空をひたすらさまよっている。

言葉にすることによって、むしろその存在を大きく排除されるものたちが、やはりそこここにある。道元の言葉からは離れていくということは、沈黙を静寂に返すことに他ならない。道元を読んだ、とすることはそういう言葉のないところに生きることである。

個展をしたとき影響をうけた老子やペソア、そしてロルカには、彼らが表現しつつも言外に言い残したもの、言い当てないことによって浮かび、朝目覚める寸前の言葉のように消えていくもの。当のものを言い表さないこと。それはまわりまわることによって、次第に円のなかに生成する神経の軸索のような感触を聴くこと。世界の軸に参与できずに、そのまわりにまとわりつく。だが言葉の布地とも違うもの。

道元の言葉からはなれることによって、道元の言葉にはいっていく。そうして道元の身体をみたとき、そこに聴かれるものたちをみる。それは、道元もまた一人の満たされない風であり、音である、そういう見方によって道元を救うものたち、あるいは道元を道元として道元のまわりに存する他者として、道元を存在せしめるものたちとともに、道元に結晶しなかったもの、有機物や無機物としてさえも結晶することのできない浮遊物をみることだろうか。道元の神経の軸索を浮かび上がらせて聴く、そのことは、論理の超越による離脱、感覚の論理からさらに離脱することだ。

沈黙は言葉の裏側か。静寂は喧騒の裏か。そうではなく、静寂を沈黙が破ったとき、もうすでに音が始まっている。では生じた音は何によって静寂へと返るのか。道元が書いたものをよむということは、同時に道元が書かなかったものに眼を向けることでもある。それは言葉の限定を限定することによってその周囲を浮き彫りにすることであり、言葉を散漫にすることではない。

アニミズムという用語の定義や神の化身、それらの定義やそれを示唆する用語は世界中に多々あるが、第三者からすれば言葉の定義でしかない。それは言葉の政治だ。だが言葉の政治から逃れるものは、注視すれば聴き取れる。アジェの写真に映された光、ジャコメッティの極小の残されて立つ男、芳年や国芳の描いた霊、若冲の墨の驚嘆すべき濃淡、上田秋成の雨月。

音が沈黙から静寂に返るとき、岩にしみいることのできなかった、岩としてついに存することのできなかった、季節のはずれに遅く生まれたもの、うまく死ねなかった蝉の痕跡がそこにうごめいているという予兆を残しながらそれ自身で自律する音を求めながら。

近くの世界をミニチュア化したようなレジャー施設のような博物館で、数ヶ月前、たまたまかかっていた聴いたエスキモーの音楽、その単純明快でなおかつ揺れの確かさをもったそのもの凄さにうたれるとき、私は奥底に何を感じているのだろうか。その奥底をのぞくことはできるのだろうか。忘れることができない、しまうこともできない記憶のような。これまでの言葉とは全く異質なところで身体がざわめく。あの数分感をただ反芻している身体がずっとここにある。地震の影のように。

権力者は布をまとった言葉の陰に隠れてみえない。みえてくるのは犠牲者ばかり。飼いならされた言葉こそが政治であり暴力であるならば、はたしてこの時代に、言葉なしに音楽や写真は存することができるか。道元あるいは禅はアナーキズムではない、混沌でもない。あたりまえのこと、基本的なものごとはどこまでも深い問いを抱える、そういうことの形と実践。

良寛そして道元は、東京から越してきた私のリアリティ、その確認としての私なりに読み経験した場にすぎないが、 彼らの内にある苦悩が苦悩をつきはなした言葉がこの私にも読み取られるとき、 一瞬という時間を超越した空間を無限に開く場に私は漂っていた。微細で弱く儚い、そのためらいの極みとして純化された強靭なるつぶやきと痕跡のなかにいた。

人は二つの人生を生きる(ペソア)、その片方の現実の推移、そのなかの偶然が私に課し、偶然が偶然を化すことによって生じた必然がもう片方の現実を確実に象っている、そういう動き、常にそのなかに私は生きている。この隙間に右往左往しつつただよいながらも、こうして写真や音は私のまわりをいつもうごきまわっている。



熊野 kumano (8) 2010

Pasted Graphic 19


先日は、Linksのコーナーで紹介させていただいた齋藤徹さんと徹さんの娘さんの真妃さん、ミッシェル・ドネダさん、ル・カン・ニンさんの四人で、ツアー移動中に犬山を訪れてくださった。

齋藤徹さんは今となってみれば旧知の仲、音楽の大先輩という感じで、かつて徹さんのところに音楽のレッスンに通っていたのが、いつのまにか自然に親しくなり、家族ぐるみの付き合いとなった。学生の終わりころに出会って、大学病院でとにかく必死に働いていたころまで時々通っていたが、そのころからレッスンは楽しかった。レッスンによって世俗の余計なものを音に剝ぎ取ってもらって、医者としての行為の質を本質的にたもつことができてずいぶん助けられた。

現代にとって、医療行為の形は大きく違えど、たとえばシャーマンとしての医者という視点は医者にとって本質的に重要だ。このことは現代にとって言葉にできないほどあまりにも深いことで、いまでもなかなか私はそれについて話すことができない。さらに理解はしていても、日常の雑多で煩雑、複雑な関係性と現実がそれを隠す。そうしていつのまにかどこかに忘れ去られた何かを齋藤さんのレッスンは身体に思い出させる、そういう貴重なレッスンだった。逆にそういう視点をもたない、あるいは軽視している人間はあのレッスンのさりげない凄さもわからずに、その意味も想像すらできずに、ついていけないだろう。私がつづけられて、ラッキーだったのは私が音を求めつつ医者を志していたためだ。

ご本人はかなりご謙遜されていらっしゃるけれど、音楽はいわずもがな、人間性を音によって引き出し、このようにその人間に合った形で教える才にもたけた方だと思う。ゆっくり話すのはかなり久々でとても楽しかった。なかでも仏教伝来以前と今の私たちの間、歌と踊り、そしてアジアという話には現状への大きなヒントがある。たとえば先にあげたシャーマンということ(いまはそれもほとんど象徴的にしか使えない言葉だが)、それは現代において忘れ去られた、だが人間の身体が忘れることが絶対にできない根源的な何か。ある意味において現代の身体的トラウマだろう。徹さんはとうにそれを感じ取られて、長いあいだ、実践しておられるようにみえる。いずれその高みへ(あるいはその低さへ)私も自分なりの自然な形でゆっくりと導かれたらよいなと感じながら、今回もまた話をきかせていただいた。最近はほとんど飲まないので、元来酒に弱い私はビールコップ一杯で顔が真っ赤になるくらいだったのだが、楽しくて久々にずいぶん自然に酒がすすんだおかげで、正気のままほとんど酔わなかった。あのときのレッスンを思い出した。

齋藤真妃さんは東京の東中野のポレポレ座でスタッフとして現在活躍されている。ツアー中3人の演奏家を大きく支えているのがわかる。こういう立場の人がいかに大事で、目立たずに支えているかは、私は自分の医者の経験からもよくよく知っている。誰々の作品、とはいえ、本当はその数パーセントもその人の作品とは言えないこともよくある。あまりにも大事な仕事であるから変わらずこれはこれで大事にしてもらいたいと願っている。気だてがよく芯のある方で、私の小さい娘もずいぶんかわいがってもらってありがとうとお礼を申し上げたい。ときどきライブの写真を拝見させていただくが、写真にも何かの芯を感じる。これもまた大事にしていただきたいと思う。

ミッシェル・ドネダさんは何よりも、その人間性が稀有なほど大きく、日本に欠けているといってもよい何かを間違いなく内包した方だ。演奏にその人間の深さと広さがダイレクトに直結している稀有な演奏家であり、心から尊敬している。彼と一緒に楽しく散歩し、酒が飲めるという経験によって私のなかの何かが深いところでいま呼び起こされている。つまりは、風がふと風の音を奏でるように、人間にもこういう音が出せるのだということ、これは人間が生存してきた、そしてなお生存しているということへの誇りだとすら言える。人の自然というのはこういう音を奏でるのだ。その究極的な形がミッシェルさんには確かにある。

無論自分は自分でしかないのだが、ミッシェルさんは私のいまの私の目標だ。私の駄目なところ(いくつもいくつもあるけれど)を剝ぎ取ればきっとああいう姿になる、なればよいと夢想することができる。自分にひきつけた勝手な言い草をすれば、自分を出し切るということが逆説的に表現にならない、そういうことが究極的にはできるのだということを演奏を通じて知った。私に欠けている、あるいは求めているものはまさしくそのことだ。風が風であるとは風流ということとほどとおい、風の流れとはそういう生命の大きなエネルギーのことだ。彼という人間にふく風は彼のなかの、そして太古からの人間の内部を貫く風に等しいのだ。その人間の風の息がソプラノサックスを通じて聴こえるのだ。

ル・カン・ニンさんは、はじめてお会いしたが、とにかくこれまでお会いしたことのある人のなかでも、ものすごく知性あふれる方で、まさに驚愕した。もちろん、人間性も素晴らしくユーモアにあふれていて、おもしろい。質問をさせていただくと真剣に答えてくださる。話をしだしたら止まらない。夜中一時くらいまで酒を飲みかわしながらみなでいろいろ話をしたが、ニンさんは本当に強烈な印象だった。

朝おきたらジョン・ケージのプロジェクトに向けた譜面を製作中で、 これがすごくおもしろそうで竹の日本製の定規を使っておられたのだが、その集中力はその知性とは裏腹というより表裏一体、まさに動物的だった。おおらかな人柄と寸分くるわないバランスをとるような対をなすように、その眼光は獲物をとらえるように鋭い。犬山城でもあらゆる音に鋭敏に反応されていたのが印象的だった。人間の知が人間にとっての身体であるとはこういうことを指す。

演奏も発想がとても豊かでその知性がダイレクトに身体となり、多くの観客をひきつけていた。 まだニンさんについて語る本当の言葉がないのが残念だが、そのうちもっとわかるときがくるだろう。ジャン・サスポータスさんにはじめて会ったときもそうだったが、稀有でありながら非常に親しみやすい、そういう独特の魅力をもった方で、ひきつけられる。徹さんは日本にとって重要な人を連れてきてくださる。

翌日の名古屋でのライブ、久田舜一郎さんの小鼓を交えての演奏。ちょうど満月の日。久田さんの音と声が心にずしりと響いた。二歳になる娘も思い切って連れて行った。娘も興味をもっておとなしく聴いていたというより、みなの演奏に何かを聴かされていたのだろう。

今回はこうしてよい経験をさせていただいた。言葉にできない部分が多いが、感謝の念と私自身の今後のために多少無理をしてでもここに書き留めておく。現在、危機に直面している日本もこの経験を生かして、これから世界のなかでこのように個人個人が尊敬されるような、本当の意味での自信と誇りの持てる国に根っこから変わっていきたいものと切に思うし、まさに他人事ではないのだ。ミッシェルさん、ニンさん、来日、来犬山、そして演奏をどうもありがとう。もちろん徹さんと真妃さんにも。



熊野 kumano (7) 2010

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ある目的があり、それを達成し維持する為にある手段、これが政治であり、政治的であるとはそういうように目的と手段をあやつることだとしたら、現在の政治の最たる目的は大企業との金と地位のやり取りであり、その為の手段は国民の忠誠心をあおることである。明確な責任をとらないままにとてつもなく大きな失態のほとぼりが冷めるまで待つ、そうして事実を小出しにしていく、そういうことまでして現実の本質をはぐらかし、想像してみれば悪夢のようなこの現実とむき合う民の意欲すら、虚脱感のなかに麻痺させながら。


道元の生きた鎌倉幕府への政権の転換の時代、由緒ある貴族に生まれ落ちた道元は自らのなかの政治性と格闘していたことは疑いようがない。彼は、こうした政治的な政略的手法を許容するわけにはいかなかった。目的と手段を分離させてはならなかった。もともと彼は何の為に何をやるのが必要であるかというきわめて合理的な考え方をしていながらも、それでは政治性から逃れ、さらに政治性とむき合うことはできないと知った。むき合ったとしても、ついに政治的思考は道元にとって遠い。だが身体のなかにそれをなお見いだした道元はおそらくその最後、坐禅に立ち返ったであろう。そのとき民を捨てたのではない。自らをとっくに心身脱落した道元は、最後に民という現実をも心身脱落した。民に空というすべてを受け入れる器を言葉でもって残し用意した。それが正法眼蔵であるということもできる。

奥深い山中に漂う霊気のようなものに触れ、森林の厳かな気配に耳をすまし、理解不能で不完全なものを知ろうとして無限の迷路に入り込むが、足をつけている土の感触を心にくぎさしていながらも、裂け目に入り込み外側にはもう出られない。入り口がどこにあったのかもうわからず、どこにいくかもわからない。ただただ山中に迷う。やがて迷いは迷いでなくなる。山のなかに迷っていてもそこに心に迷いが生じないのは、迷いに身体が慣れるのではなく、その迷える沈黙のなかにおいて己が森林の霊気に支えられ、その霊場、すなわち仏性のなかに漂っていると気づくからである。

政治的思考(あるいは堕落した宗教もそうであろうが)は霊や仏という概念までをも目的のための手段として利用する。だが、そうした手段そのものから離れて距離を置き、その本質を道元のように知れば自らにある政治的思考が打破できるかといえばそうではない。その本質を知ることがそもそも目的と手段とが同一の場所にある行為であり、それ自体は自らの政治的思考を打破する手段とはなりえない。政治と真逆の位置に己が今あるという状態があるのみ、それに気づくだけだ。あるいは逆に、政治から政治性をひきはがそうとするなら、己もまたついにはその政治性からのがれられないということでもある。そうして一部が莫大な富と権力を握り、権力者は変わりながらついには覚らず民を苦しめ、民は尊い抵抗をしながらも悟るように生き延び続ける、そういうことが繰り返されてきた。道元はこうした場所において自らを省みるように葛藤していたであろう。

禅は論理を超えたものと理解されがちだし、書物を読むとそうしなければいけないという雰囲気も感じるくらいだが、正法眼蔵、私にはこれほど論理的である意味単純な書物はないようにも思える、仏性とは一つの明快な論理だとすらいいたい、一つ覚れば、そういうときもある。ドゥルーズがベーコンについて「感覚の論理」を書いているが、この感覚の論理、一つの生地を織ること、生地をはがしてもまた次の生地がおられていくその感覚的で官能的な反復を繰り返し、繰り返したそのとき、世界を内側から知る道としての論理が出現する。

それは外側から細かく世界をみて類似を見いだしつつ構造の類推をしていくことではなく、内側から全世界とその構造を一挙に感覚し自らの位置を察知するための論理であり、無限というあらかじめ目的のない場所へと瞬時に到達する、手段という時間的猶予をもたない一瞬という間の連続された道であり、有限であるその道がすなわち無限に通ずるというそれだけの、きわめてよくある論理的過程を、精密な詩としての言葉で示したに過ぎない。言葉でもって示すことが道元にとっては民としての心身脱落であったともいえる。そうして聖から俗へ降りる道としてもさらに坐禅を追求した。だがその先は示されてはいない。

かつての大国ポルトガルが大地震を一つのきっかけとして見かけ上は没落していった。しかし私のおとずれたポルトガルは美しく、文化と伝統が脈々として生き生きしていた。今にして思えば、経済が破綻しても、そこにずっと生き続け伝え続けられてきたものは、さらに脈々と生き続け土地に終わりはないと告げているようだった。しかしながら、原発事故はそれにしてもあまりにも取りかえしがつかない事態であると今日も思う。道元にとっての禅、今の社会全体にとってそれにあたる葛藤がすでにあちこちで生じている。




熊野 kumano (6) 2010

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私は世界に対して有限である。世界をみた時、聴いた時、世界はとてつもなく、あまりにも広い、この意識など無視しうるほど小さい、私は世界に対してあまりにも有限である。直に感じている実感だからもう何とも言いようがなく深い。こうした意味においては人間の人間のための自由などそもそもないといっても過言ではない。

だがこの強い自覚のもとに、私は私自身に対してのみ、はじめて無限であることができる(無限ははたして自由といいかえられるだろうか)。私は鴨長明や道元や兼好法師から学ぶことは本当にはできないのであって、私の経験とその失敗の繰り返しからしか本当には学ぶことができない。しかしその過程において過去とつながりうる、過去に私が呼び寄せられる。ここから何らかの力が生じるからこそ仕事がやれている、大きな時代の波のなかでいまここに立つことがどうにかできている、そういう感じを時にはいだきながらこの毎日がすぎる。

私が私に無限である時、そこに因果はなく目標もなくただ彷徨い漂い続けるものを微かに信じながら、たよりなく変化する存在であり続けるのだが、再び道元を借用するなら、私の中の「仏性」に立ち返り、仏性からその私を聴き続ける。私はこのとき、そうと意識することのないまま、そのままであるがゆえに世界に開かれ、そのことによってようやく立っていられる。

写真に映されたものごとや音の響きは、世界に対する私の有限と私に対する私の無限のあいだに漂っている私と世界の変化する気流のなかで、世界を経験した痕跡の断続的な軌跡を描くのだが、写真と音楽がそうした方法であり装置であるならば、写真や音を見つめ聴いていくことは同時に、世界に対する私の有限をあらゆる方向から自覚させられることによって、私の私に対する無限を聴き、身体を内側に隠している皮膚、無と有の通路である心を、世界と私との淡い境としながら、仏性という普遍的な場に、写真と音楽をも超えて、自らを定位していくことにつながる。各々の行為はそのためにあるようにみえる。

自意識や写真や音にとりまく記憶からひとまず可能な限りはなれてみると、自他が自他であること、それ自体に働いている引力と斥力のダイナミックな運動へと向かう経験を、写真と音楽はもたらす。それらは自と他を仏性という場において等しい次元で干渉させ、場に波動を生じさせる契機をなし、その音と写真のつくる境界は身体、とりわけ皮膚感覚のような薄い膜によって微かに縁どられており、無尽蔵でありつつも抑制された心の変化がその縁の膜色を塗りかえうるものでもある。

したがって写真や音は、何かの通路としての直接的な膜としての装置なのではなく、言うまでもなく膜の正体は他ならぬ身体と心であり、その装置は身体と心をあらわしたり隠すためにあるというよりも、仏性という普遍性を場に呼び場に波をたて、正体としての心と身体の膜が凝縮された痕跡、消息や断簡として膜の本体を伸縮させるように宿しつつ軌跡を残す、そうした間接的な通路として音も写真もまた、それ自体が存在を境界をあらわにしつつ、心と身体とはまた独立した系をなして、この世界のなかに自らを定位していくようにみえる。

一枚の写真や一つの音、その世界のほんの微々たる断片としての痕跡にさえ、普遍が宿りそのときは知ることのない遠い未来に開かれることがあるのは、音と写真もまた、生じた場の波動が身体と心を揺さぶり変化させる仏性をもつということ、時に自ら出している音が全くの外部から聴こえるように思えるのも、道元をよむとおそらく意識の思い込みや勘違いなのではなく、そうしたこととおそらく関わりがあるだろう。私と写真と音の境界面は、外部からの有限性と内部への無限性その境界に各々が漂い、仏性として互いが干渉する場であるとも言いうる。

知らぬ間に日が傾きかけている。隣の竹林の隙間から強い西日が差し込み、竹は風に揺れている。
言葉を書くとき、最も大事で慎重かつ注意を払うべきはそのリズムであり、その緊張と弛緩が意味を意味としつつも意味を解放し、言葉の意味内容を超えることにある。それはそのときの心の動きを素早く追う手であり、句読点や文の体裁をいわば無視して書き進めていくことであり、一刻の猶予もならない心の記録をそのはじまりとしている。その夢の記録から覚めたとき、その羅列と切れ切れの言葉のはしはしを少しずつつなぎ補修する、その繰り返し、言葉の夢の記録と現実のつぎはぎのせめぎあう形にならない形の消息こそが詩、あるいは場のはじまりであろう。

こうして書いて読み返して少し手直しするという実践は、私にとって演奏することや写真を見直すことにも役立つものとおもう。それにしてもきりがない。





熊野 kumano (5) 2010

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ニュートリノが光よりも速い可能性があると新聞にでていた。もし実験が正しいなら、科学的理論のなかでは過去に戻れることになる。ニュートンによって世界の空間的座標軸をもちこんだ把握が行われ、アインシュタインは20世紀に空間に光と時間を組み込んだ新たな相対的な軸を設定したが、心と身体は絶対的な座標をもたなければ、相対的な座標ももたない。まわりに座標のない動く重心が支え、引きつけあい、斥け合う。

道元から学んだことの一つは、心と身体を一つの状態として変化のなかにいかに定位させていくか。それは変化のなかにあるがままにおかれるという一つの実践の方法ともいえるが、方法的実践からの離脱、実践の断続的連続によってこそなされる。音と写真というものの本質そのものにそれを発見しつつ、己にそれを見いだしていけるか。

あいだにあるものは境界をなし、境界にあるがゆえに中庸となって、ものとものの、ものとことの、こととことの隙間にただよっている。逆に隙間が中庸であることの過剰によって微かに存在を呈し、何かの境界をなして、ぼやけてあらわになった境界自体が、先端的、先鋭的、権力的な極端なあり様を避けて、極端に達することによって生ずる力に引き裂かれる心と身体ではなく、引き裂かれた心と身体を、世界の織り地、その襞に漂いながら、一つの動きながら流れる重心として個々を定位させる。その斥力と引力によって自ずから動く、重心がありながらも不安定に漂う世界は、人間の自然における位置を問い直すだろう。

今世紀は、より広大な時空の占有のために技術と人間の夢を追い求めるよりも、心と身体の重心を個々が各々にひきよせながら、闇の世界を生きていく不安定で流動的な過程にある。それは、真理へ向かう科学の方法が問われるよりも現実へ向かう方法のなかに科学を退歩させ、人間の心と身体の現実的実感を確たる背景とした実学として 科学のあり方を位置づけ直す、方法の科学が問われる過程でもある。

宇宙への旅やタイムマシーンの発明に夢見るにせよ、方法において地上の今ここの現実を俯瞰しながら遠ざけ心と身体を分裂させるのではなく、今ここに立つ心と身体、その普遍的問いを内側からなお求め外側からながめるにせよ問いを囲いこまない形、自らが自他を排除しないような隙間に身を寄せる形、闇と光の境界に心身をおぼろげに点滅させあらわれながらこの世界を個々が生きていくことの可能な形を模索していく過程である。




熊野 kumano (4) 2010

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吉田兼好の徒然草を契機としていくつか。

人が確かな息をしだす場所、だが息をするとは、日常にはあまりにおぼろげな気がつかない自然な運動。何気なくそうと意識せずも確からしいからこそ浮かびあがるのだが、確実には確かとも言えないような現実と幻想の接点としての痕跡、記憶の連鎖していく運動をたどるような場所へ開かれていくために、はじめの音がある。徒然草のはじまり、その序段の言葉のはじまりにそのことをみてとれるだろうか。詩が音楽性を含まなければ、詩は記憶から遠ざかる。音楽や写真が詩性を含まなければ、そこに記憶は容易に宿ろうとはしない。徒然草はこのような確からしくもあり確からしくもない場所に書かれている。

記憶の痕跡は意図されたものと意図されないもののあいだに浮きつ沈みつ、音の光に照らされた心の磁場が瞬間にひらかれた空間に映されて、つじつまのあわない徒然草、その劇場を演ずる言葉のように、台風がきてもやっと灯っている蠟燭の火のようにうごいてゆき、しまいには音の痕跡がなくなる、音楽は消える。だが記憶、みえずきこえないが、何ものかが確かに残響や残像としてそこにのこっている。音楽という経験の凝縮された時に広げられた空間を歩きながらうごき、音の響きに夢見られた現実を掠めとりながら、響きの死のなかにのこされた何かが、静寂のなかにみえない輪郭をおびて浮き彫りにされ、音楽のやんだ今ここに目覚めている。それは確からしさによって浮かんだ不確かな何ものかの軌跡、その運動によっていまここに確かにあらわれた、ものごとの痕跡。それは言葉では言い表せない。

写真をとったとき、もうその過去はやはり記憶でしかなく、紙に写し出された写真のような影を残して音楽は去ってゆく。そして撮られた写真も過ぎ去った音楽も現実ではない。音楽が響いている時間、静寂が幻想のなかで音に象られて、生きた現実の記憶の息を微かにしている。写真と音楽が、いくども呼び起こされては消えていく記憶をたどり動きを象っていく、己が隠れつつも自ずからあらわになる行為であるならば、一方でその記憶の住処こそが、日常の徒然なる言葉であり日々の行いということになるだろうか。写真は言葉そのものではなく、音楽もまた言葉そのものではないが、時間が凝縮され空間に開かれた写真や音楽は、このような記憶をたどりながら時間と空間の隙間の迷路を分け入るような、徒然の言葉によってしか語ることもまたできない。

今年は災害続きであるが、この台風の中、このようにいま徒然のように思いつきで書いてみても、その時出てきた言葉をそのままつかまえてその場で文にしていくことは、並大抵のことではできない。即興的にしかも的確に心にあることを表現することはかなり難しい。作家といえどもそういう文を書く作家は意外と少ないだろうと思われる。日ごろ書いているが故にやっとできること、書いていなくても心がけある行いを行っていることによって持続されるもの。それは演奏することとよく似ている。徒然草の音楽性はこのような即興性にもあるのではないだろうか。




熊野 kumano (3) 2010

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俗であって俗のまま聖になるのが道ということ
道元のように稀な人間は
心身脱落して無(聖)にたどりつき
そこから正しく(つまりは一つ一つ立ち止まりながら)降りてくる
そういうことを成し遂げた
それが道元の「正法眼蔵」だろう
それはあからさまな詩という形をとり
詩でなくては表現できなかった

私がいま好まないのは聖域に達したような、にせの姿格好をしていることと
そこへ到達してもそこに耽溺することによって聖がそのまま俗化してしまうような表現だ
好まないということは裏返せば
そういう悪しきところが自らを巣食っていて
いつ頭をもたげてくるかわからぬということに他ならない
私のともすると陥りがちな悪しき危険性の最たるものは
そうした表現をはからずもしてしまうこと
それはすなわち聖を勘違いした俗まるだしの嗜好家
本当の数寄ということをを知ろうとしない単なる数寄ものということである
だがあえてそうならないようにしても意味はないし
それをおそれていてもはじまらない

本質的にそうでないためにはあまりに遠いことではあるが最後の最後で
聖域から正しくゆっくりと地上に降りてくるところまでやらなければいけない
途中で死んだとしても(おそらくそうなる)
常にそこを目指さなくてはいけないだろうと今は思っている
そんな難しいことはできないと放ってしまうことが
私にとっての道の今に反するからだ
自分自身をそうさせないことが私が私であるという僅かな自尊心の一つということにもなろう

道元にみるような表現の過程は聖域である雲海から俗へ降りてかえり
大地である俗よりも低く海にもぐるということであって
山頂に登ることは道そのものに過ぎないのだろう
そこへどう到達するかはいろいろだが
そこからどう降りるかをみなで分かち合い楽しむことが
表現ということの理想であるだろうと想像できる

だがそのためには今の社会全体が俗から聖へ転生する必要がある
意識的でないにしても
そういうところまで見据えて道元はたぶん説いているのだが
それは現状にあっては遠くて儚いだけの夢かもしれない
それはそれとしてよいものだとしても

言葉や表現は
離脱することによって無の侵入を待つことのみならず
言葉を大事にすることでしかえられないにしても
方丈記のように聖をあえて汚しつつ
その言葉でもって時空を断ち切って己を通じて聖を犠牲にし
そこにみえたり聴こえたりするものを通じて
極言すればそれぞれがこの汚れた俗を互いに救うためのものだという夢想は
ここ半年ほど遠く及ばない道元に影響されてきたが故の
いまの私の理想でもあるとおもう
毎日の実践はもはやはっきりとして
みなで最後には本当の巨大な仙人風呂につかる
そんな夢想のためにもあるが
現実との葛藤は多いし、社会に生きていればそうでなければならない
生産的な葛藤が生じるのは一人一人に対して諦めないことから始まるのだが
それは諦めることと表裏一体でもある
道元はもの凄いとするより
道元には心底勇気づけられたとするのが
私にとっては生産的でよい書き方かもしれない

方丈記については道元のときと違って解説など読みもしなかったのだが
少し読んでみると鴨長明は和歌と琵琶のかなりの名手であった
あえて時空を犠牲にすることでかなうもの
その数寄とは何だろうかということに興味を抱かされる
ディレッタントとはちがうような数寄の本質とはどういったものなのか
鴨長明は挫折と失敗から無そのものには向かわず
有であることを徹底した
ついに最後には有でありながら有に無を宿らせた
道元と同じく西洋に眼を転ずれば同時期のエックハルトも言っているが
離脱から離脱するところに無が充満してくる
方丈は鴨長明にとっての離脱の具体であり
方丈記は最初で最後の離脱からの離脱の具体なのだ
それでも自らを省みて無や聖なるものの意義を
近くに遠くにあこがれていただろう
このように方丈記から学んだもう一つのことは
長明のあの名文は俗であることから生まれていて
その詩性は山頂に達さずにして
文章の裏にそっとして宿っている
俗と聖の間を漂う、それだけで足れりというあり方
そういうことも実際可能であり大きな意味があるということだ

鴨長明は
山頂へ登らずして山中に迷い
山頂を見渡せる谷へやっと降りてたどりつき
川を見ながら出だしを書いた
川の先に遥かな海を聴いた
そういうあり方は良寛に通ずる

蕪村は離俗論というのを書いているらしいが
何をしているものであれ本を読み詩性のようなものを先人から学ばなくてはならない
そういうようなことを言っている
俗と聖そして詩性ということについて一考する必要が大いにあるということだ
そのためには世阿弥とか兼好法師とか芭蕉とかまで含めて
中世から近世への文学空間全体をそろそろ一度俯瞰的にみわたしてもいいころだとおもう

(こうしたことは日本人としての常識という言い方もできるが、そうした基本の勉強をあまりにも怠ってきたのは他ならない日本人の私である。そしてそうした恥ずべき私の経験とその反省からもいえるのだが、競争にかまけて自らを知ろうとすることなく歪んだ形で伝統という本質を破壊したり、逆に実体のない固着された権威的かつ攻撃性をふくんだ妄想をつくりあげたりして、真の伝統と創造のあり方やその宿っている場所というような本質的なことを謙虚になって学びとろうとしない。自由な時空間であるはずの伝統へのきっかけすら与えてこなかった。そういう教育のあり方の弊害をも今の自分自身にみることができるということだろう。競争ではだめだからゆとりだというのでは根本からさらにずれるだけだ。とりかえしのつかないことになった原発事故も、そうした類いの象徴であると私にはおもわれる。)

私自身はといえば
もとを正せばそのきっかけは自ら東京を離れたことと
たまたま近くにあった古美術のよいお店
私はまだその断片のさらに断片しか知らないが
過去にはいまなお深くて広い時空間が開けている
やっと、それでも身にしみてわかってきたこと

物質的にははるかにいまは豊かだが
私たちのいまの時代の堕落さは
道元や鴨長明や親鸞の時代の過渡期とやはり重なるように思う
方丈記を読むといまと同じ現象が書かれていてほんとうに驚く
便利になればなるほど頭を使わなくなるし身体も弱くなるし精神も枯渇する
人間が人間であることへの希求そのものすら薄れるが
それでも今をまだ人が生きている
むかしの人の考えたことがやはり今を生きるためのヒントになるだろうと思う

(夕方、早朝に書いたものに言葉を加え変更した)




熊野 kumano(2) 2010

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方丈記になぜかはまっている
何回かむかし読んだことはあるが
これほどは、はじめて

写真は現実が降りかかってくると同時に選びとるもの
偶然と必然の境目に生ずるもの
岡本太郎は写真を偶然を偶然でつかまえて必然化するものといったが
必然化するといったとき撮影者や編集者の世界に対する一つの態度が生まれるだろう
その態度に見る者が共感したり共感できなかったりする以上に
写真は写されれば撮影者の意図を超えて
それぞれの立場をすでに超えて存在している
したがって数十年もたてばどのような写真も時間の重みをそれぞれがたずさえるのだが
その時間の蓄積の重みを選ぶ側が感じているかどうか
またそれをどのように感じているかがその時点での人間性そのものであるだろう
いかに個性的か、概念的に新しいかよりもいかなる態度をもっているかであり
それがごくふつうの写真である限り
その態度が時間の厚みに裏打ちされているかどうかが問われている
経験の厚みと想像力を基盤とした写真への姿勢が問われているだろう

これと同時に写真を写真としてみていく態度
写真の根をなしている力
すなわち現前する世界のリアリティに対して謙虚になり
ものごと、そして世界の光に対して身を投じつつ身をわきまえることだ
なかなかむずかしいがそうして写真の力を引き出していくことが
一つの最低限の責任であろうとおもう
写真の実践のなかで培うことはこのようにきわめて個人的であり
また写真であることによって不変であり普遍的である

方丈記についてどこかでおもっているのは
方丈記はこのような写真と似て
一文一文がそのほとんどについて鮮烈なイメージを抱かせる徹底されたリアリズムに貫かれており
また経験的実証主義とも言える医学的な態度を持ち合わせ
さらに繰り返されるずれをはらんだ言葉の音楽的運動をも内包していることに気づく
それでもって時間の重なりと厚みが凝縮され
何世紀後のこのいまの世界にも生きてあらわれるのだろうか
私にとってはこの点において三つの価値が結実されている規範的文章と言える
これは一つの詩の極みであるといってよいのではないかともおもえてくる

私がこの三つの行為において現在このブログのように言葉を必要とするのは
第一義的に自らの臨床態度や写真や音を主張し説明するものではなく
言葉によって自らの世界に対する根本的態度を広げ深めることであり
本来その結実と世界との交差点に不断に生じるものが
名付けられようのない私の診療でありだす音であり撮る写真であるべきである
だがそれでもなお
世界は常に絶え間ない明滅を繰り返し未来は絶えず降ってくる
そのなかに私の態度自体はいったん溶け込み
他者との関連性のなかで再び選びとられていく
そうした抜き差しならない今を
身をもって持続していくこと以外にない
そうして毎日の臨床で学ぶことは四季の季節感のように
我が身に知らず知らず血肉化している
診療することにおいてどうしても避けられない大事なことは
否応なく他者にふれるという経験なのだ
その場所、他者と交差する場所においてこそ
言葉が外へ向かうような態度が必要とされるのだ
それは論理でもあり情感でもあり経験的でもある言葉

言葉の内なる限定力、内省する力よりも
言葉による外への力の運動を引き出すこと
詩というものはその本質がまだよく私にはわからないが
どちらかといえばそういう言葉の力を本質とするのだろうか
こうしてみると善し悪しは別としても、たとえば思想書をかじったとき
詩的な論考とそうでない論考の質の差は大きい

ロゴスとパトスの境界に位置するもの
偶然と必然の境界をさまようもの
ゆく河の流れ
人の行き交い
それ自体が動く境界という運動から個々をながめることは
固定化した内省的(自家中毒的であることも非常に多いのだが)視点をもつことではなく
詩という言葉の力
その結実された外への運動を通じて
この現実を渡り歩いていくような
歩きながら世界の音を聴く経験
現実をみながら写真を撮り歩く経験とも似た
不断に更新される世界に対する態度を導くかもしれない
それを皮相的に再構築することもない
方丈記にも内包されているように
悟りをさとらないような態度に通ずるだろう

方丈記のかの有名な出だしは何度もよんでいると
観念の比喩ではなく
まさに鴨長明の見た経験的事実の
言葉による完璧なまでの見事な写実なのだと
それも突如として生まれ
さらに練り上げられ無駄を省いているのだと
そのようにじわじわと想像されてくるのがたまらない
それは無常観というような一言ではすまされない
それが詩の本質なのだ、というような
言葉のリアリティに身が震える
そこから詩という実体が浮かんでは静かな闇に沈むのだ

ふと気づけばもう真夜中
風とすず虫の音がする 
紀伊をおそった台風のことをおもう




熊野 kumano, japan 2010


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台風が来ていて風がすごく強い
日本の最たる特徴はその地理的位置であり
もたらされる四季の変化が
言語の様態や呼吸感にあまりにも大きく影響している
私はこの四季の変化というものの実感とその変化の過程が
大きな身体の基本となって身に付いてきているように思う
東京を離れて数年たち
四季の変化ということはたぶん
自分自身にとって最も必要な感覚の泉であり
最も自然に心と身体が楽しめるもののようだと思われてきている
じっとしているようでしていられない感覚
冬から春になるときの空気の変化、草の芽吹きのように
あまりはしゃがないで自然の次の変化を待っている
それだけでも充足できる
だがそれを突き破るものは何か
この台風のようにそういうようなことも
これからないはずがない
そういうふうにも思える

花鳥風月はそれ自体が繰り返す過程であり
毎年ごとの変化と差異を感じるための
動いている指標だ
音や写真に託すものが
ある指標とその変化を目的とする以前に
四季の変化の感じ方そのものから
そこに浮遊してくる音や景色のなかに身をおく
それは四季を表現することではなく
自ずからそこにある
時々のそのとき偶然生じている
毎年おなじような過程のなかにあって
だが複雑な差異の奇遇に満ちた四季に乗っかって
音と写真が浮き出てくるようなもの
その心地よさは
今やここという概念に縛られてもいず
必死になることも自由になろうとすることもない
無という境地もない
あるがままという規定からも離れるところに動いていくものごと
それが道元の「有時」
あるいは単に「今」ともいえるだろうか

結果として浮遊した音と写真は
人のあり方を自然のなかに結果として象徴するのであり
そこに人のおもしろさを発見する
その楽しさをもたらす
有名なヴィヴァルディの作品とはやはり対照的に
あらかじめ措定されたような四季の象徴を
音と写真が表現してもあまりおもしろさはなく
「四季」という題名の創造はとうてい完成できないだろう
私自身が四季の変化と同根であり同等でなければならない

この大きな災害後にいかに心を落ちつけるか
一つには方丈記を読むことだということは多くの人が思いつくかもしれない
私もその一人であのあまりにもうすっぺらい文庫本を読んでいるとじんとくる

方丈記は庵のなかでさとったような心でたんたんと書かれているが
平坦な書きっぷりのなかに
時々一気に花が開くように顔をのぞかせるその偉大なる機微は
子供のうたう歌の抑揚にも似ている
春のなかに冬のなごりをみて
夏の終わりに秋の気配をすぐさまに感じ取り
終わる夏を惜しんでいる
そのなかに突然この肉体を刺してふるえあがらせた蜂の針のごとく
はっとしてある災害がふってきては
ただただ川の一点をずっと見つめながら
ただれふくれあがった皮膚と静かに対峙してもいる
川縁でせせらぎの音の微細な変化を聴きながら
生きることの苦難な時代を
言葉に見事に写し取っている
とはいえ私はさいごに悟りをすべて拒絶するような最後の吐いて捨てたような一言が
最も好きなところだ

こんなふうにして方丈記の出だしのように
昨日の言葉はもはや今日の言葉ではなく
書かれたことははじめの思いと異なる方向にいくこともしばしばだが
それこそが四季の移ろいであり運動としての変化
今を生きているということ
そうしてみると方丈記ひとつとっても
その背景にはあまりにもおおくの出来事と言葉があることは明らかだ

イイカゲンに変化に任せて書くのではなく
よい加減に世界に加えることと世界から減ずることの機微のなかで
確かにそこにあってそれでいておぼろげに浮かんだ運動をしている
蛍のようにその軌道は定まらず、だが大きく歪みもしない
秋のおとずれのごとく夏の終わりに私は今いるということを
ともかく感じている
鴨長明の方丈のように音を出すのは難しいようで簡単なようで言葉を書くのとおなじようで
実践しだすと終わらないだろう

それにしても今年はあまりにも暑く長い長い夏だった
蟻の大群を目の当たりにすると
生きているということがあまりにも巨大な
計り知ることのとうていできないような力に満ちている
無意識の大きさといってみてもそれでもまったく足りない
そういう事実にもうただただ己が驚愕する
まど・みちおさんの百歳の言葉も
読んでみると本当に実感がこもっている言葉なのだと
この私にもわかってきたような気がする

己から離脱せよ、離脱からも離脱せよというエックハルトの言は
飛躍すれば道元の根本的な何かにも通ずるように思う
とうてい自覚できないその欲望の大きさのなかに己を浸しきってみよ
蟻の大群の住処におきているマグマのような力の塊を
蟻塚の巣のなかにまるで己が入ったかのごとく生きよ
生の苛烈な場所に生じているものごとに触れよ
そうした生の計り知れない巨大な運動の
ちょうど対偶に位置するかのごとく
ひどく近くていながらにして
静寂が沈黙によって破られるところに
無限の遠方から秘そやかに
だが一筋の強烈な光とともに発露されてくるような
ひたひたとしていながらあまりにも速いような
教えの言葉として
エックハルトはいまここの風に響く