別府 beppu(8)2009

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間近でみる浮世絵の色の深さに魅せられ伊藤若冲の筆跡と墨の濃淡にいたっては心打たれるあまり
何も手が付けられなくなるしちょっとした自然光ですらいかに豊かであるかを絵が知らしめてくれる
そのような光はやはりそのままありがたく感受するのがよい
自然と太宰府でやっていたチベット美術の見事な仏像の数々の姿が思い起こされる
チベット美術において伝統はやってくる未来であった
国芳や芳年も江戸後期という時代と真摯に戯れ格闘している
死んでも死にきれない想像力が言葉の光となっていまここに次々降ってくる
浮き彫られる影

此岸と彼岸は存在形式が異なる現実の二つの形である
秋、川の土手にさく彼岸花はそれを一つの統一された現実の姿として知らしめてくれた
禅においては山が山である地点から山が山でない地点へと向かい非常に興味深いことにそこでは終わらず
言葉の力動そのものによって言葉の文節がほどけた形で山が山であるという次元へとさらに戻ってくる
山はそうした過程を経て混沌のなか再び山として観られる
そうした場所が写真のなかに垣間みえるとき写真もまた言葉を通過しているだろう
音もそうした過程を長い時間をかけて経ているように思える
節目節目は切実な転換点でありつつも虚ろな結実点にすぎない
そして行く先は全くわからない

もう一つ最近身近で強く感じて気になっていることは
律動はつめられた間でありこの点においても無音が大事になるということくらいだろうか
木曽川の冬
木々の葉は枯れている
春の芽を待つ言葉をときどき連ね連ね