出雲崎 izumozaki(10)2010

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サルトルの「嘔吐」の状態、意識が剥奪された末に生ずる裸の世界なのではなく、精神病理学的に離人症という状態とは逆の状況なのだが、それでも世界が非常に遠くかけ離れたものとしてある状態、そういう状態がむしろ今の確たる手応えとしての感じに近い。それが逆説的にも世界を間近に呼び寄せるのだ。腐葉土をにぎったあの感覚を再び思い起こすなら、こうしたことだろう。

ライブで何かをみて聴いたりすることの現実感は、一瞬たりとも眼をそらさずに耳を傾けて聴くというより、その場でおこっていることが自分と非常に遠くかけ離れたものになっていくことのなかに、逆説的に何か間近なものが内部に引き寄せられていくという感覚としてある。そういうライブはよい。

写真展や写真集をみてもいいものはそのような感じになっている。おこっていることを分析して、いちいち自分の中で評価することもできるが、そういうことではない次元で生じていることのなかに間近な感覚がある。そういうところでは何ともならないある流れ、自己と世界が一致するような境界領域の運動を、少しでも聴くことができると嬉しい。即興演奏であっても作曲であってもそれは関係ないだろう。即興にもいつまでたっても浅い自分ばかりを出して、このいまある世界を感じさせないような、せっかく即興をしているのにくだらないものはいくらでもあるようだ。かつて自分もそうだった。

抽象的なことしかいえないが、いまここにいる私の身体の内奥に存在する襞のような境界の向こう側に外側の音や世界の現実が隠れている。それは実際みえないし聴こえないのだが、私はそれを見て聴いているのだ。眼が見えずとも音が聴こえずともそれを見たり聴いたりすることは、はっきりと可能だということだ。眼が見えるとか音が聴こえるということは、幻聴や幻覚で片付けられない、大森正藏がいっていたように、空気の波動と耳の関係や光と脳の関係でもない。夢の中で見るものや聴こえるもの ーそれは本当に具体的な音として聴こえるー 、内奥の襞の動きがもたらすもの ークレーの絵を思い起こさせるようなー その向こう側にある世界は、反転するように外側の世界でもある。外側の世界から波動として聴こえる音や外側の世界から身体に飛び込んでくる眼に見える世界との接点は、そういうところにある。

だが、こういういい方も結局は駄目だ。悠長に書いている間に瞬く間に消え去るもの。覚醒の連続体。 道元の「有時」という段がわかりそうでわからない、だけれどかろうじて何かが喉にひっかかりつづけるような、答えのなさが導く研澄まされた感覚の連続。

そういう「感じ」は、内奥の世界が非常に近く、それを裏返したところに生じている外側の世界が非常に遠い、あるいは世界が絶対的に遠いということによってこの身体の感覚があるからだといったら、これは単なる私の主観だろうか。そうでもないように感じる。外側の世界を写真に撮るという行為は私が選ぶのではなく、内奥の世界と外側の世界が襞の表裏で一致する行為なのではないか、その襞の裏面の運動が音であるなら、襞の表面において世界と私の間に生じた運動が一枚の写真ともいえる。

写真が時間を止めてなおかつ時を有するのは、その動く襞の残像がまさに写真であるからだ。音もまた同じく夢の中の音と、楽器を弾いて出た音の差異がなくなること、それが音の裏表であるとき、それは確たる音といいうるようだ。そうした音を出せるようにならなければ、楽器を弾いていていもやはりしっくりこない。その地点にたつには、練習して技術を磨くことよりも、そのことを無にするほどの感覚を深めていくことが必要であり、深めることによって多くをそこに語るのではなく、それは薄い襞そのものになっていくことだ。

都会での生活はあまりにも世界が近かった。閉じた世界のなかの現実感、それを現実とみてきた。その眼で写真を撮ってきたが、写し出されるものをみるとそれを常に超えていた。都会という人間の文明のなかで人工物の世界をみていた。人間が人間しかみることがなかった。あるいは人間の為の自然を見ることしかできなかった。

文明があってはじめて自然が意識されるということはあるにしても、人間の文明など遺伝子配列の微妙さと精巧さに比したら、文明とはあまりにも雑なものだ。仮の感覚を欠いた巨大なエネルギーをつくって、感覚ある微細な身体を壊している。それを批判的にみていくのは必要にしてもあまりにも易しいし、想像し創造していくことの方が遥かに難しい。写真も音も身体を壊すような欺瞞的な消費のエネルギーと化してしまうことあるが、そんなことは今や誰にでも容易にできてしまう。だがこの安易さではこの世界を生き延びられないだろう。それではあまりにも楽観的ではないのか。

自然のなかに立つことは自然のあまりの遠さを自分自身のなかに間近に直接的に見いだすことだ。それは自らの微細な感覚その動きのなかにこそある大きなエネルギーを、無自覚的に見いだすことであるから、それは踊りとなり、歌となり、仮面の装飾となり、土器の文様となったのであろう。原始の人々はすでに人間の生活の原型を始めていたとすれば、今に言う自然が近いどころか、自然が非常に遠かったはずだ。それだけ自分というものが自然に凄まじく近かった。このことによって自然に途方もない畏れを抱いていたのだと想像することができる。

それは夢の中から目覚める瞬間、あるいは入眠する瞬間ーその瞬間を常に生き続けるということでもある。絶対的な外側の世界から音がやってくるというような経験は同時に、内奥の音の発現そのものでもあるのだ。だからそういう音は説得力がある。私はこれまでそういう演奏はただの一回しかしたことがないが、確実にその感覚は覚えている。写真はどれがそういうものかまだわからない。物理的な音がきこえるきこえないに関わらずそこにある。弾いた音はもはや内奥の音と合致する。それは音であり、いわゆる音ではない。一枚の紙としての写真や物理的な音は、やはり何かの始まりとしての一つの契機に過ぎない。

このようにして写真がそこにあるということ、音を聴いていくということは、いわば世界の半分をみてきいているにすぎないのだが、その襞が運動し始めたとき、もう半分の世界が裏側で聴こえ始める。 連想してしまうのは今日の新聞で少し見たこの世にほとんどない反物質ーそれに対する物質とはいったい何だろうか。反物質を閉じ込めるとは一体何をしたのか。

さらに、以前から折に触れて思い起こしてきたジャコメッティーが、現実はあまりにも美しいといったその現実とは、襞の裏表を同じものとして彼が見て聴いていたからだろう。 その現実はこの上なく美しく、終わることがない。いってみればそれは時間の停止であり、時の流れである。時が流れ出したとき、その世界に終わりはない。さらに身体が動くだけ世界はいくつでもある。

私が今でも影響を受ける彼の「終わりなきパリ」は、裸形の実存の表現、視覚の肉体的現実というより、このような微細な感覚の運動そのエネルギーの去来、彼がその内部と外部の境界にある現実に微細に感じ取ったもの、彼は写真では現実のヴィジョンを捉えるには足らないと述べているし、写真とデッサンとは本質的に異なるものであるだろうが、むしろこの現在においては、このリトグラフをみる視覚の内部の襞が、私にとって写真のとりかたや見方に本質的な変質を迫る現実の良質なスケッチとみることもできなくはない。