別府 beppu(4)2009

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バッハの楽譜は音楽ではない。一つの曲を弾きこなそうとする過程のなかにバッハではない何かが芽をみせてあらわれてくる。言葉で名指すことはできないが今生きていることの証、過去と未来への発露というような音にあらわれた質感のようなものだろうか。技術的に困難であればあるほど不可能と思われる運指のなかから予期のできない意識の下に眠りどこかにしまわれていたような記憶、熊楠が没頭していた粘菌の動きのような意識のない非合理のなかにうっすらとかいまみえるような未来へ周到に備える合理的ふるまい、身体的記憶の情感、そうでなくてはならない生きていくための心のかたち、そこに生じてきたものとの揺れ動く対話、そのような何かがあらわれてくる。変化し続ける今生じている何かを支えているような一つの質感に忠実になってはある意識においてあらかじめ目標とされた何かが失敗され再びどこかへほうり出されるということをくり返していくうちにいつしかコントラバスという長い弦をもつ弦楽器の重厚さとうまくひくことのできない限定のなかに曲に漂う根底的な哀しみをやっと聴くことできるようになる。この地点が音が音楽となるための出発点であるだろう。楽譜の一粒一粒がそうして一つの生としての音楽となる契機がそこにある。そうであればたった一つの曲をさしあたりまともに弾くようになるのに数年かかって当然ともいえるのであり曲の質感と楽器と身体と記憶そしていまここが一体となり得体の知れない何かに触れることではじめて一つの曲を弾くということが本当に為される。音楽をすることにおいて何かをいわば失敗することによって大きな何かを経験し発見し問いを見つけある種の音の権威づけや音の競合のようなものから遠くはなれていくそうした遠くにある地点へ向かって前に踏み込んで進んでいくこと。それは自己の垢を落とすことでもありそうした過程にあらわれてくることが身体を通じた現在から発せられる未来への一つの小さな創造でありうるならば一つの曲をたやすく終わらせてはならないだろう。一つの曲をはじめ弾き続けていくことは未来への冒険の契機でありその都度その都度音楽へと一歩一歩近づくための過程のはじまりである。そして昨今楽器そして弓から導きだされる音との対話においてわかるのは私自身のいる地点は楽器や音楽の大きさからすればまだ本当に初歩的な地点にすぎないということである。