犬山 inuyama, japan, 2009

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大学浪人のころ、ディルタイや西田幾多郎の生の哲学にひかれた時期があった。ぶっきらぼうに言えば彼らが人間から人間を対象としているのに対し、医者でもあった三浦梅園は、自然から人間をみつめて考えていたように思う。

人間や人間の文化的生活圏から内なる自然、人間の根源を見いだし、その自然を自発的に自然発生的に外側へと結合していくような態度と、外側に確固として存在している自然と協和していくような人間の文化のあり方をその都度捉えなおしていきつつも、常に横たわる根源を問う態度。両者は表面的には似た形をとってはいても、内的に掘り起こされる力の質や方向性が異なるようにみえる。前者は私が通過しなければならないような道としてやはりあるであろうが、後者のあり方は外側からの多くの問いが含まれるが故に、やはり今なお興味深い。

ここ犬山においては文化から自然への移行がまだ残されている。田畑や竹林や川はその境界に位置しているが、木曽川もせき止められて鵜飼の行われている家の近くの場所から少し上流にのぼる、あるいは下流に下ると川は様相を変える。今は城の近く、いわば文化圏の中においてより人工的に近い自然のなかに住んでいるが、もう少し下流に近い場所に住んで川をそして街を見つめなおしてみることができたならばどうかと想像している。下流近辺もまさしく自然を破壊してつくられた家々やビルなのだが、わずかに元来の姿が対岸に垣間見えるのが大きな救いだし、木曽川の流れそのものが塞き止められてはいない。

ここのところとても忙しいが、木曽川の大きな流れを帰り際にみていると、何のために今ここにあるのだろうとふと思う。人間や人間の感覚、人間にとっての世界ということを超えて、自然を軸として今人間の所有している文化や科学を相対化し、その位置を謙虚に修正し自然および世界へ解放して、アートとしてではなくその元来の語義であるテクネーとしていくと考えたとき、医学や音楽や写真はどのように捉えられるのだろうか。私の学生時代から続く根本的な漠たる大きな問いは、おそらくこの時代にとって必然的なこの当たり前の問いであるのかもしれない。

レヴィ・ストロースが現在人間をとりまく環境について、最晩年に非常にわかりやすい言葉で明快にインタヴューで語っていたのは新鮮であった。ルネサンス以前の人間の世界観がいかなるものであったか、より複雑な形で知ることができれば興味深い。私の環境について抱いているあいまいな意識の化けの皮がはがされた思いがした。この時代にとって当たり前のことはそれだけでもう、ごまかしようがない。いくら覆ってみせてもすぐに化けの皮がはがれる。化けの皮こそが当たり前のこととこの日常において錯覚しているにすぎない。私がどうあろうとも、ごまかしようのないものごとはやはりそこにある。