別府 beppu(13)2009

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それにしても絵を時間をかけてよくみるようになった。初めての経験が多くてたくさんわかってくることがあるように感じるからだ。大阪の学会の帰りに京都で長谷川等伯展をみた。有名な絵描きはものすごくたくさんの人が集まるものだが、うまい時間をつくって私もじっくりとみた。子を亡くしてからの等伯は特に凄まじいと感じた。一方、近くの親しくなった古美術で、本当に安く譲っていただいた小島老鉄の南画もよい。この人は一見普通の絵に見えるし、有名ではないが真のある画風だ。良寛にも通ずる。山水の中に住居が点在するが人はいない。ついでに山本梅逸の真骨頂とされる南画をはずれたような天狗の絵も、かなり朽ちているものの非常に説得力がある。昔は電気がなかったということをいつも感じる。 私の感じ方では自然光での絵の変化の質感にまさるものはない。光を照らす墨。

音にしても同じと思う。いわゆる録音された音楽というものもあまり聴かなくなってしまった。これによって脱落するものも多いかと思う。苦手な楽譜も、いわゆる五線譜の記号や形態と異なる方が自分にはあっているように思う。昨今鳴き始めた鶯の声はこれまでになくとてもよく聴こえてくる。いつもはっとして身が一瞬静止したようになる。そして何かの音を出すということを続けなければならないという意思は捨てられない。

音に対して、音の形を求めていくことが今、唯一のやるべき道のように思える。 十年か二十年かけて自分にとって必然的な形が少しずつ生まれればよいと思う。だが形とは何らかの日常的な力が飽和して押し出された一つの限定であるから、それだけ時空を豊かに含むものでなければならない。 周りの自然と毎日の色々な出会いとうまくいかないような経験、それらの一つ一つの蓄積が内的に生活の時空を破るもの。そうした経験をつかまえて言葉にできればと思ってきたが、軽率に過ぎた感がある。音が音を破って超えるときのように、言葉が言葉の限定をはずれていくような、際にあるような言葉を求めていかなければならない。良寛を読んだり観たりしてからというもの、急に本当に書こうとすることそのものが難しくなった。

縄文土器の一つの形式とそこに含まれた個々の土器それぞれの細部の自由な形状。たとえばそのような太い形としての音、そこに響く音の枝、葉脈の微妙で微小かつ無限の変化を求めていくことは、単純でつまらなくて滑稽、深くも広くもないことにみえるかもしれないが、その後の多くの革新的な絵師がその基礎としてたどってきた道であると思う。そうした態度はたとえ派手ではないにしても、現代を生きる自らの根幹をなす唯一の方法としてこれから続いていくのかもしれない。