別府 beppu(7)2009

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新年を迎えて伊勢神宮に初めてお参りしたりしてはや二週間余り

偶然のことだったが今日生まれて初めて琵琶の弾奏を聴いた
たまたま聴き手は家族三人だけで六畳の畳部屋
千利休が切腹させられた日の憂いや怖れなき心を詠んだ自作のうたと即興を二十分ほど
七ヶ月になる子はたたかれた音の迫力に終始身をたじろぐようにし今にも泣き出しそうだったが
泣くことはできない場と小さい身体が察したのか奏者が泣かせなかったのか最後まで泣かずにいた
私はじっと聴いていたが私の呼吸にあわせて奏でていたとおっしゃっていた
こういうものは本来琵琶奏者というような職業という意識でやられているのではないのだろう
ご本人も土木関係のお仕事とおっしゃる
代々琵琶をひきついできたということ
音のはじかれる質感と微妙な変化とリズム
それらがうたを支える音の流れの基本となっているようだったがとにもかくにも凄まじい音
一つの手本のように思えた

自作のものを少しずつ作りたいという気持ちが強まる
題材から詩からすべてこの小さい身体を通してくるものがよい
だがそれだけのものがあるのか
もうなにもないところからもなにかがあるのかないのか
そうした瀬戸際に立たなければいずれにせよなにもないだろう
こういうことには単に人前で奏でるということよりも
生きるためのもっと大事なものが含まれている
今日の琵琶の方も一曲作るのに歴史から掘り起こして三年とおっしゃった
そして利休の墓前へ参って奏でてのち京都のお寺の許可のようなものをうけてここに弾くにいたっており
ごく小さな場所で人前で弾くのは今という時代にただ何か大事なものを伝えたい気持ちだけだという

こうしたあり方と一対をなすようにバッハはやはり日常の自己の鏡となる
そのことがバッハを弾いていくうえで私にとって大事なのだと思う
コントラバスのなかにはどちらもが対にそこにある
補完の関係でもなくどちらかがどちらかを超えたり
どちらか一方が身をひいたりせずにいるし主張のしあいでもない
自己分裂せずにあるがままそこにある音の姿楽器の姿がそう感じられる
そもそもの音が重い楽器だからだろうか
今日の琵琶も音の高低というよりも
音そのものの質にあらわれる低い重心がうたを支えていた

そうしたことを思っているとますます
この音はこうでなくてはならないとすることが困難なものとして映ってくる
ますます後退するばかりなのだがその果てにあるものが最も切実なものだろう
さらに続けてそのプロセスを経なければいけないが
そのさらにあとがいかなるものとして残るのか
過程のさらにあとにあるであろう契機を何か一つ見いださなければどこか踏み出せない
一つの契機のために相当な時間をまたかけなければならない
これまでのような他者の参照の仕方ではなく
そして写真も言葉も独立しつつも音と同じような過程のなかになければならないのだろう

聴くことと観ることと考えて言葉にすることがとりわけ今いかに大事かということから
そして心がいかにあるかということからまた今年も始まったように思えるが
それにしても何を聴いたり何を観たり何を読んでも
通過しなければならないものが最終的に自己をおいて他にないということ
そうした自覚のあり方はここ数年と多少は異なるかもしれない

こちらの土地の四季の変化と基調をなす静けさが
自己の微々たる変化をそれだけ
尺度大きくみつめさせてくれているのだと日頃から感じている
そして東京で行う個展はそうしたなか
具体的な心の摩擦や身体の意味としてあらわれてくるものと感じる
同じ日本といってもどうしてこう違うのだろうか
東京を離れてみて私にとって東京とはいかなる土地であったのか
そういうことにも数年先には触れてみたいし避けて通れない気もしている