犬山 inuyama(25)2009

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1ヶ月間かけていろいろメモしてきて いや 昨年の個展からのたまりをみてみれば1年だと思う 少しは新たな課題がみつかってきたからとにかく楽器を演奏してみている 楽器の一番下で弦を根本から支えているテールガットがだめになって付け替え 少し調整もしてみた このホームページ用のソフトの調子もどうも悪いので ブログも少しだけ文の書き方をかえてみよう 文体とか書き方というのは本当におもしろい

練習の仕方は前よりもよりずいぶん 丁寧になった とおもう ひきなおし方もいやみではない ひとことでいえば 前よりもかなり 焦らなくなった 例えば 音がゆっくりでも速くても同じことをしているという感触がやっとでてきたようだ 私をみているもう一人の私がいなければ 一人でいい演奏などできないだろう 特にソロが難しいのは 一つには自ら弾いた音を徹底的に他者にしていかなければならないからだろう 他者にこそ自己を見いだすことがやっとできる  音に善悪の執着があるとそれだけでもう音の成長がとまるという感じがする

弾けるということはある曲を目標として定めて それをとてもうまくひけるようになることを単純に意味せず 根本的な時空が広がるということ そのなかに一つの曲や題材というものも単に位置しているだけだ 広がるということは視点がぼやけていくこと ぼやければ何かがわからなくなってしまうのではなく ぼやけていくことに集中していくことで 時空のなかにある支点のような 音の質感のようなものが自然にでてくる それがいまここを象徴する音なのだろうか

ペソアは言っている 「人は二つの人生を生きる」 この言葉に幾度となく魅かれ励まされてきたことか ペソアの研究家で作家のアントニオ・タブッキの「インド夜想曲」をアラン・コルノーが映画化したのだが この映画でもペソアのこの言葉を語らせている この言葉の意味するところがまた一つ 私のなかで深まりつつある 

第二の人生ではなく 二つの生の重なり このことを実感して 今生きているような気持ちがしている 自分なりに精一杯やった東京での仕事の内容も新たに反省する時が来るだろう 私は何かを自らの意思で捨ててきたのだから それがどういう決断だったのか 音を通じて本当に気づくときがくるだろうと思う