別府 beppu(16)2009

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重い腰を上げて、どうしても行きたいと思っていた静岡県立美術館で開催中の伊藤若冲展を観にいった。以前京都で若沖の名を広く知らしめた没後200年展が開催されたが、このときは忙しすぎて時間がどうしてもとれなかった。従って今回初めてまとまったものを観たのだが、 平日の夕方ですいていて、閉館10分前には家族3人だけであの「樹花鳥獣図屏風」の前にいた。強烈な音を感じる絵だ。この経験は私にとってまずは文字通り筆舌に尽くしがたい。換言すれば書くべき感動が多すぎる。

誰かが指摘していたが、奇想であるとか異端であるとかは全く当てはまらない。絵の王道といえる。そのようなことは私のようなものがみてもわかることだ。あらかじめ解釈をもって接するのはその本質を穿つことに陥りやすい。すべてにおいてこのことは言える。解釈は一つの捉え方に過ぎない。この絵師をあたかも独特な領域に仕立てて孤立させるような言葉の表現のなかにくくってはいけない。そして江戸の中期から後期の画壇は尋常ではない活力に満ちていたことは容易に想像がつくし、当時の日常的な人々の寛容で潔い生き方には敬意を抱かざるを得ない。若沖の絵は彼らの生きた時代の集大成だろう。

あえて少し、つたない言葉で私の感動を記録しておくならば、中期から晩年に至る時期の絵が、今の私にとって最も感銘深い。いかに若沖が確固たる自信を確立していったか、その過程に大きく惹かれる。再び生きる力がみなぎってくる。墨絵と彩色が微妙に混合している絵はおそろしいほど迫力がある。少なくとも技巧は彼の中でも完璧と自負しえたに違いない。こうでなければならないという確信に満ちている。なかでも「仙人掌群鶏図」は圧巻の一言である。自我の追求と外部への洞察が合一し普遍へと切り結ぶ瞬間がみえる。普遍という錐体が若沖という個よって切断された平面。実際は四角い画面だがその空間が時間を混じて楕円形のように圧縮された時空。ダリから時間の概念的解釈を奪い取ったようなまさしく「絵の自然」がそこに存在している。

この時期の画家はみな自我が強いように思われるが、現在における自意識とは異なる。近現代の自他の関係性に縛られたような複雑な仮面的意識はみられないかわりに、自我が自我においてそのまま深く突き抜けていくその場所に自然な誇張が生まれ、誇張が誇張を超えて真実に迫る。このようにして至ったと思われる最晩年の絵はあまりにも斬新で面白くて仕方がない。これはまさしく「軽み」というもので表現される何かということになるのだろうか、と身体で想像しながらみていた。 隠遁生活と意欲に満ちた創造性の起源が成熟し至るもの。 しかしそんなところでとまってしまって、本当のところそうした軽みなど今の私にはわかりはしない。また出会うことのできる機会がくることを願う。

絵をみるということもまた音を聴くということとに大きく通じている。若沖の鶏の絵の反復と差異は一つの曲を何度も弾くということに通じ、色の濃淡やにじみは音色の微妙な変化に、筆の使い方は弓の導き方にやはり通じる。私にとって今、絵をみることは演奏することの手本となっているように感じられて、全体のイメージと細かな筆触は最も遠くて近い楽譜にさえ映る。鑑賞者としては実際の感触その手触りや耳元の音の肌触り、摩擦と抵抗、人間の内部の新たなる動きを喚起する残像と残響、そうした瞬時の感動をいかに鮮度を保ちつつ生に定着させるかということが、昨今の生活の随所で気にかかっているようだ。

そうしたことを一つ一つ書けば全くもってきりがないのであるが、若沖の自然への慈愛、絵を通じた世界に対する態度のあり方、その大きさを現在の自分を過不足なくぶつけて体感し、当時の世間というものの時空をじっくりと想像してみることが、とりもなおさず今を生きなおすための契機となるだろう。様々なことがあるが、どんなことでもこのように豊かな経験は心と身体にゆとりをもたらす。