熊野 kumano (22) 2010

Pasted Graphic 4


(つづき 9 )

たぶん細かい点で書き損じはあるが、そんなふうにして今がある。どのことがらからも強く影響されながら、自分なりに言葉を連ね、なるべく怠惰にならないように意識的に言葉のあり方を変化させながら、その都度ここへメモしてきた。

こうしたすべては、それが自分が生きるための根幹に近いところにあるからだが、臨床と音と写真をめぐっている。医療は真の即興的態度でやらなければならないということは強く思ってきた。即興あるいは音の教えは、当然のごとく人間と深いかかわりをもち、そのことは人間を含んでいると同時に人間を超えた世界からの人間への教えとして作用することをここに確認しておく。

音から医療へ何かが導かれることは大きく納得される。しかし反対に、医療の現実を直視しそれを重視することから写真というものを間接的に経由し、さらに間接的に音の意味を遠くに近くに計ることが、今後の私の大きな課題なのである。このことは考えてはいるものの、きっかけの入り口さえみつけられていない。それほどに医療の現実は激しく、生々しい。

何かを受容するというとき、音の受容、目前の場の受容としての写真、さらにさまざまな感情や不安や情念とそこから離れられない人間の現実(とその病い)、あるいは人間そのもの、各々をそのまま受容することには異なる感覚を要する。擬態のように同じ身体でありながら、個別に対応していく身体とならねばならない。

イメージとしては医療と音のあいだに写真があるのだが、音のきこえない写真をそのきっかけとしていくことは、みえにくいが重要なことかもしれない。音の聴こえる写真を求めたりすることはあまりに刹那的で写真の現実にそぐわない。そのためにはおそらく、八村さんの「主情」ということが写真や医療においてなにかということに、何らかのヒントがある。その経験的発見から音楽をもう一度みるべきなのであろうか。

いずれにしても私は昔から人間というものに興味を抱いているということである。それは無論自分自身のことでもあろう。本質にかえって人間のことをわかっていかなければ、世界の教えもまた到来することがない。本質論を嫌い目先の技術と利益、そして本質を離れた意識にとらわれていれば、人間が人間のなかで幽閉され窒息し、いずれ自らの首を絞めるように自滅する。

医療は医学的な技術や知識だけではないのは言うまでもないが、人としてのいたわりをいつも与えるものでなければならない一方で、私のいまここで知らない教えを、その場において人に教えるものでもなければならない。

そして反対に、各々の痛みが痛みとして死にむかっていく、その痕跡が音や写真に託され、痛みの断簡を呈しつつ写真と音が独立して発見の基礎としてふるまうことがあれば、なお生き甲斐もある。こうしたことは技術に還元されない医療の身体性の根源をもとめる態度であろう。

ここまでくればもはや、その両端に同時にたつことが課せられてくるだろう。しかしそれもまた一つの単純性に帰するだろうが、単純なるものはそうして螺旋をえがきつつどこまでも深く広い。